第65話 ボス戦:ダイナマイト練馬 vs. 蚊竜ムスティガ②
ドガッ!!
「ぐっ……!」
蚊竜の拳が、覆面越しに俺の頬へめり込んだ。
視界が一瞬だけ横へ揺れる。
咄嗟に顔を逸らしたおかげで直撃は避けたはずなのに、口の中にはすぐ鉄みたいな味が広がった。
奥歯も僅かにぐらついている。
(……普通に痛い!!)
それでも、殴られっぱなしでいるわけにはいかない。
俺は身体を捻り、その勢いのまま右脚を横薙ぎに振り抜いた。
「このっ!!」
ドゴォッ!!
踵が蚊竜の鳩尾へ突き刺さる。
「ギッ……!」
細身の身体が大きく後方へ吹き飛び、十メートル近く離れたところで両足を床へ着けた。
ザザァァァッ!!
石床を削りながら滑っていく。
やがて勢いを殺した蚊竜が顔を上げた。
「…………」
一瞬、そいつが笑ったように見えた。
もちろん人間みたいな顔じゃないから、本当に笑ったのかなんて分からない。
でも、何となく──
楽しくて仕方がない。
そんなふうに見えた。
「……冗談じゃないぞ」
俺は小さく呟く。
さっき蹴り込んだ鳩尾には、確かにダメージが入っていた。
外骨格と爬虫類の鱗を混ぜたような黒い皮膚に細かな亀裂が走り、その隙間から緑色の血がゆっくりと噴き出している。
今の俺には、その飛沫すら宙を漂うような速度で見えていた。
(効いてる……!)
なら、このまま削れば──。
そう思った直後。
「……は?」
亀裂の隙間から、新しい組織が盛り上がった。
ひび割れていた外殻が内側から押し戻され、緑色の血も止まっていく。
ものの数秒もかからない。
俺が蹴り込んだ痕跡は、ほとんど消えてしまった。
(──クソッ……再生能力とか、アリかよ……!?)
思わず歯を食いしばる。
ただでさえ、こっちは殴られるたびに少しずつ傷が増えている。
頬。首。腕。腹。
どれも致命傷じゃない。
けど、俺の傷は勝手には治らない。
向こうだけ何度でも元通りになるなら、長引けば長引くほど不利になる。
(これ……ジリ貧になるんじゃないの!?)
だったら、休ませる暇なんてない。
俺は再び地面を蹴った。
一気に距離を詰める。
だが、蚊竜も同時に動いた。
「なっ!?」
ブワッ!!
背中の半透明な翅が、大きく広がった。
次の瞬間、蚊竜の身体が真上へ跳ね上がる。
いや──跳んだんじゃない。飛んだ。
頭上へ逃げたそいつを追って視線を上げる。
その瞬間、腰から伸びた尾が、鞭のようにしなった。
(針──!)
狙いは、俺の顔。
「──ッ!?」
反射的に首を捻る。
ヒュッ!!
冷たい何かが頬を掠めた。
ほんの数センチ。
いや、数ミリだったかもしれない。
黒い針が目の前を通り過ぎる。
ビリッ!!
覆面の左側が裂けた。
続いて──
「……っ!」
頬に熱が走る。
赤い血が飛び散った。
今度は尾の根元じゃない。
針そのものが、ほんの僅かに皮膚を切り裂いたらしい。
刺さってはいない、それだけは分かる。
でも──
「……痛い」
ぽつりと声が漏れた。
当たり前だ。
殴られれば痛い。
蹴られれば痛い。
切られれば、もっと痛い。
(……なんで俺)
不意に──頭の奥へ余計な考えが浮かんだ。
(なんで俺、こんな化け物と必死になって戦ってるんだっけ……?)
目の前の蚊竜は、間違いなく本気で俺を殺そうとしている。
これまでだって危ない目には何度か遭ってきた。
変異種ミノタウロスとも戦ったし、スケルトン・ジェネラルにも殺されかけた。
それでも、ここまで露骨な殺意を向けられながら、互角以上の相手と真正面から殴り合ったことなんて一度もない。
(俺……)
ふと、こんな状況には似つかわしくない、明日のことが頭に浮かんだ。
いつもの教室。自分の席。
退屈な授業を受けて、昼休みになって、放課後になればネカフェへ帰る。
ほんの少し前まで当たり前だと思っていた、何でもない日常。
(……ちゃんと、明日も普通に学校に行けるのかな)
そんなことを考えた瞬間だった。
ぷつん、と。
限界まで張り詰めていた緊張の糸が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「……あ」
それだけで、世界が元の速度へ戻った。
空中で止まりかけていた砂埃が一斉に流れ出し、遠ざかっていた周囲の音もまとめて耳へ押し寄せてくる。
そして同時に──
ついさっきまで目の前にいた蚊竜の姿が、完全に視界から消えた。
「──ッ!?」
いや、消えたんじゃない。
集中が途切れた今の俺には、速すぎて見えなくなっただけだ。
「やばッ!?」
『ロミオッ!!』
フランの叫びが頭の中へ響く。
ほとんど同時に、背後から江戸川会長の悲鳴も聞こえた。
「ダイナマイト練馬様っ!!」
でも──もう遅い。
蚊竜の姿は見えないのに、空気を切り裂く鋭い音だけが正面から凄まじい勢いで迫ってくる。
集中し直そうにも間に合わない。
身体も動かない。
(ミスった……)
妙に頭だけが冷静だった。
(これ……死んだかも)
そう思ったら、不思議なくらい色んなことが頭に浮かんできた。
中でも真っ先に思い出したのは、ここへ来る前に何度も俺を止めてくれたフランの言葉だった。
帰ろう。逃げよう。
お前が背負う必要なんてない。
死ぬかもしれないんだぞ。
そう、あれだけ言ってくれていたのに……
(……ちゃんと聞いとけばよかったな)
今さら遅い。せめて──
(……ごめん、フラン)
心の中でそう呟いた。
その瞬間──
「『暴徒大双楯』ォォッ!!」
聞き覚えのある怒声が、耳元で炸裂した。
「──え?」
俺の目の前へ、巨大な影が飛び込んでくる。
両腕を前へ突き出し、俺を庇うように立ちはだかったのは牧島先輩だった。
その両腕が赤い魔力に包まれ、肘から先の形状が瞬く間に変化していく。
現れたのは、人間一人くらいなら丸ごと隠せそうな巨大なライオットシールド。
左右二枚の大盾を重ね合わせるように構え、牧島先輩は真正面から迫る蚊竜を迎え撃った。
次の瞬間──
ドッゴォォォンッ!!
蚊竜の飛び蹴りが、二枚の大盾へ真正面から叩き込まれた。
「ぐぅぅぅぅッ!!」
蚊竜の飛び蹴りを受け止めた瞬間、牧島先輩の足元が大きく後方へ滑った。
ビキッ!!
二枚重ねたライオットシールドへ亀裂が走る。
「クソッ……!?」
次の瞬間。
バキィィィンッ!!
凄まじい音とともに、左右の盾が同時に砕け散った。
赤い魔力が無数の粒子となって飛び散り、スキルが解除される。
盾へ変形していた両腕は元の姿へ戻ったものの、そこには幾筋もの深い裂傷が走っていた。
「がはッ……!」
牧島先輩の口から血が飛ぶ。
「牧島せ……さん!?」
俺は反射的に前へ出た。
そのまま追撃しようとする蚊竜へ身体を捻り、勢い任せの回し蹴りを叩き込む。
ブォンッ!!
だが蚊竜は小さく後方へ跳んだだけで、それを難なく躱した。
とにかく距離は作れた。
俺はすぐさま牧島先輩の前へ立つ。
「な、何やってるんですか!? 無茶ですよ!! 下がっててください!!」
「無茶よ、牧島君!!」
江戸川会長も声を上げた。
続いてトリッシュ先輩、神先輩、藤宮先輩からも次々と制止の声が飛んでくる。
「そうだよ、マッキー! 今の見たでしょ!?」
「我々が介入できるレベルの戦いじゃない!!」
「……大人しく、ダイナマイト練馬に任せるべきですよ」
俺も同じ意見だった。
牧島先輩は強い。
多分、普通の学生探索者と比べればかなり強い方なんだと思う。
でも──目の前のこいつは、そういう比較でどうにかなる相手じゃない。
レベル六十の俺ですら、本気で怖いと思っている相手なのだ。
「うるせェェェッ!!」
突然、牧島先輩が怒鳴った。
口元に付いた血を腕で乱暴に拭い、そのまま俺たち全員を黙らせるように声を張り上げる。
「……俺様が……コイツより遥かに弱ェことなんざァ、見りゃァ分かんだよ!!」
「だったら──」
「だから何だァ!!」
言い返そうとした俺の声を、さらに大きな怒声が遮った。
「俺様は“探索者”だ!!」
そう叫びながら、牧島先輩が俺の隣へ並ぶ。
足は震えている。
両腕からは血が流れ、魔力だってほとんど残っていないはずだ。
それでも──
その目だけは、真っ直ぐ前を向いていた。
「ダンジョンに潜って……スキルのねェヤツらを不安にさせねェように、化け物ブッ倒して……戦いたくもねェヤツの代わりに、俺様が戦う!!」
血に濡れた拳を強く握る。
「そのために探索者やってんだ!!俺様はァ!!」
「…………」
何も言い返せなかった。
後ろにいる江戸川会長たちも、いつの間にか黙っている。
牧島先輩はさらに一歩前へ出ると。
バンッ!!
大きな手で、俺の背中を思い切り叩いた。
「痛っ!?」
「いくら俺様達より遥かに強ェからってよォ……」
今度は少しだけ低い声だった。
けれど、不思議なくらいはっきりと耳に届いた。
「だからって、戦いの全部をコイツ一人に押し付けて、後ろで眺めてるだけなんざァ……探索者のやる事じゃねェだろうが!!」
──その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が急に熱くなった。
ついさっきまで、俺はずっと一人だと思っていた。
この異常な速度の世界でまともに戦えるのは自分しかいないし、実際それ自体は多分間違っていない。
でも──
戦えるかどうかと、一緒に立ってくれるかどうかは全然違う。
「どんだけ役立たずだろうがなァ! 肉の壁にしかなれなかろうがなァ! 俺様は、コイツと並び立って戦うぞ!! それが俺様……牧島丑雄だ!!」
「…………」
まずい。ちょっと泣きそうだ。
こんな時に何なんだ、この人。
『……コイツ』
フランの声が、頭の中へ静かに響いた。
『本当に、すげぇアホにゃ……』
言葉だけ聞けば完全に悪口なのに、その声に侮蔑の色はほとんどなかった。
呆れてはいる。
でもそれ以上に、どこか感心しているような。
ほんの少しだけ誇らしそうな響きすら混じっている。
「よォ……悪かったなァ」
牧島先輩が俺へ視線を向けた。
「一人でやらせちまって」
そう言いながら、血に濡れた両腕へ再び赤い魔力が集まり始める。
「ここからは、俺様も一緒に──」
ドシュッ!!
「──が……?」
言葉が、そこで途切れた。
「…………え?」
何が起きたのか分からず、俺の視線がゆっくりと牧島先輩の腹部へ落ちる。
そこから、黒く細長いものが突き出していた。
──針だ。
「牧島……さん?」
嫌な予感に喉が引きつる。
信じたくないまま、その黒い針を目で辿っていくと、いつの間に近づいていたのか、牧島先輩の背後には蚊竜が立っていた。
腰から伸びる長い尾。
その先端に付いた鋭い針が、背中側から腹部を深々と貫いている。
「ごふっ……!」
牧島先輩の口から大量の血が溢れた。
「マッキー!!」
「牧島君!!」
背後からトリッシュ先輩と江戸川会長の悲鳴が重なる。
次の瞬間──
ドクン。
牧島先輩を貫いている尾が、大きく脈打った。
ただ刺しているだけじゃない。
まるで身体の中から、何かを吸い上げているような動きだった。
「……ッ!?」
見る間に牧島先輩の顔から血の気が失われていく。
さっきまで力強く立っていた両脚から力が抜け、つま先がゆっくりと床を離れた。
蚊竜の尾に腹部を貫かれたまま、百九十センチ近い牧島先輩の巨体が軽々と宙へ持ち上げられていく。
「牧島さんッ!!」




