第56話 死の予感
練馬区第一ダンジョン、地下四十階層。
最深部に設けられた巨大なボスフロアは、異様なほどの静けさに包まれていた。
普段ならこの場所には、全長十メートルを超える巨大蜘蛛型モンスターが待ち構えている。
練馬区第一ダンジョンの最終ボスだ。
それを倒し、奥にある帰還用の転移魔法陣を起動することで、探索者は地上へ戻ることができる。
だが今、広大な石造りのフロアに、ボスモンスターの姿はなかった。
代わりにいたのは──人間だった。
五十人近い探索者たちが、何が起こったのかも分からないまま、フロアのあちこちへ固まっている。
「これは……」
江戸川朱里は周囲を見回し、息を呑んだ。
ほんの少し前まで、自分たちは地下二十階を越え、牧島丑雄を探しながら下層へ進んでいた。
それが突然、足元に見覚えのない魔法陣が現れた。
避ける暇もなかく、気がつけばこの場所に立っていた。
「ダンジョン内の探索者が……全員、転移させられている……?」
周囲には、見覚えのない探索者が大勢いる。
低層で見かけた者。途中ですれ違った者。
そして恐らく、後から入ってきた者たちも含まれている。
「馬鹿な……!」
隣で神が眼鏡を押し上げる。
「これだけの人数を、ほぼ同時に転移させたというのか……!?」
普段なら理路整然とした彼の声にも、僅かな動揺が混じっていた。
「なーんか……」
トリッシュ──パトリシア北條が、棒付きキャンディを口から外す。
いつもの軽い笑みを浮かべようとしていたが、その口元は僅かに引き攣っていた。
「ヤーな感じしない?」
「珍しく気が合いますね」
藤宮が携帯ゲーム機を手にしたまま答える。
「僕もさっきから、帰りたいって感想しかないです」
軽口を交わす二人。
だが朱里は、笑うことができなかった。
胸の奥へ冷たいものが落ちてくる。
(……この感じ)
覚えがある。
いや──似ているだけで、同じではない。
以前、練馬区第三ダンジョンの最深部で、変異種ミノタウロスと対峙した時。
あの怪物が姿を現した瞬間にも、空気そのものが変質したような感覚があった。
生物としての本能が──
逃げろ。勝てない。
ここにいてはいけない。
そう叫んでいた。
(でも……)
今は、あの時より、ずっと深い。ずっと暗い。
まだ敵の姿すら見えていないというのに、足元から死そのものが這い上がってくるような圧迫感がある。
この場に留まり続ければ、何か取り返しのつかないことが起こる。
そんな確信だけが、理由もなく胸を締めつけていた。
「……会長?」
神が朱里の異変に気づいた時だった。
「んだァ、ここは……?」
聞き覚えのある大声に、朱里が振り返る。
探索者たちの集団から少し離れた位置に、ボロボロの戦闘装束をまとった大柄な男が立っていた。
「牧島君!?」
朱里の表情が変わる。
「貴方もここに飛ばされていたのね……!」
「あァ?」
牧島丑雄がこちらを見て、目を見開いた。
「江戸川朱里!? それに神、藤宮、北條……テメェら何でここにいやがる!?」
「なにその言い方ー!?」
トリッシュが頬を膨らませた。
「マッキーが学校に届け出もしないでダンジョン潜ってるって分かったから、ウチら生徒会が探しに来ることになったんじゃーん!」
「牧島!」
神も一歩前へ出る。
「何度言えば理解する! ダンジョンへ潜ること自体を咎めているのではない! 生徒として最低限の報告義務を果たせと言っているんだ!」
「うるせェな! 俺様がどこ潜ろうが俺様の勝手だろうが!」
「この人に正論を言っても無駄ですよ」
藤宮がゲーム機から視線すら上げずに言った。
「もう『ダンジョンに勝手に入って死んでも学校へ文句を言いません』って念書でも書いてもらった方が現実的じゃないですか」
「んだとコラァ!? 藤宮テメェ!!」
「皆、そこまでよ」
朱里の一声で、その場が止まった。
「今は戯れていられる状況ではないわ」
「…………」
牧島が朱里を見る。
そして、すぐに表情を変えた。
「──そうみてェだな」
周囲へ視線を走らせると、あちこちから探索者たちの戸惑った声が聞こえていた。
「おい、何なんだよこれ!?」
「ここ最下層だよな!? 何でいきなり!?」
「転移魔法陣だったのか?」
「俺、まだ三階にいたんだけど!」
「ダイナマイト練馬の配信見て、冷やかしで来ただけなのに!」
「帰還用の魔法陣は!?」
「ボスはどこだよ!?」
不安が伝染し始めている。
朱里は素早く人々を観察した。
(見たところ……E級からC級がほとんど)
元々、練馬区第一ダンジョン自体は中難易度に分類される。
深層攻略を想定するならC級以上が望ましいが、低層にはE級探索者も普通にいる。
今回はそういった低ランク探索者まで、階層に関係なくまとめて最深部へ飛ばされてしまったらしい。
(本来のボスなら……)
朱里は奥の大扉へ視線を向ける。
通常のボスであれば、自分たち練城高校生徒会のパーティだけでも十分戦えるはずだ。
朱里自身、少し前まではレベル十九のB級探索者だった。
変異種ミノタウロス戦で想定外の大量経験値を得た結果、現在のレベルは二十八まで跳ね上がっている。
ただし探索者ランクは経験値を得た瞬間に自動で更新されるものではない。
攻略実績や討伐記録などをもとに正式な審査を受ける必要があるため、朱里の現在の登録ランクは今もB級のままだ。
(それでも……この人数がいれば、普通なら何とかなる)
──そう、普通なら。
けれど、この嫌な感覚が消えない。
「…………」
少し離れた場所では、牧島もまた険しい顔で周囲を見ていた。
(何だァ、この状況……)
低ランクも、中堅も、自分たちのような学生探索者も、強さに関係なく、この場所へ集められている。
(誰かが……いや、“何か”が、俺様たちをここへ集めやがったのか?)
その意図までは分からない。
だが牧島の全身を、ぞわぞわとした嫌な感覚が走っていた。
強敵と向き合った時の高揚とは違う。
先ほど戦ったグランドタートルなど、比べ物にならない。
(分かるぜ……)
牧島は奥歯を噛む。
(こいつは……何かが、ヤベェ)
その時だった。
「皆さん!! 落ち着いてください!!」
大声がボスフロアに響き渡り、探索者たちが一斉に振り返った。
人混みを割るように前へ出てきたのは、四人の男女。
大盾を持つ大柄な男。
双剣使い。
ローブ姿の魔導士。
白装束のヒーラー。
A級探索者パーティ"崩壊グラフィティ"だった。
「おおー!」
トリッシュの表情が少し明るくなる。
「"崩壊グラフィティ"じゃん! 有名な配信系探索者いたんだー!」
「A級パーティですか」
藤宮もようやくゲーム機から少しだけ顔を上げた。
「あの人たちがいるなら、僕らB級組がしゃしゃり出る必要はなさそうですね。よかった」
「ああ、そうだな」
神も頷く。
「会長。ここはまず、彼らへ任せるべきでしょう」
「……そうね」
朱里も否定しなかった。
"崩壊グラフィティ"の四人は、予備らしい小型撮影機材を取り出し、配信用ドローンを再起動している。
どうやら転移時にメインのドローンを置き去りにしたらしい。
「皆さん、ご安心ください!」
盾役の男が、周囲へ響く声で呼びかける。
「どうやら不測の事態によって、ダンジョン内の探索者がこのフロアへ集められてしまったようです!」
「しかし!」
魔導士の女性が続ける。
「幸いにも、この練馬区第一ダンジョンには私たち、A級探索者パーティ"崩壊グラフィティ"が居合わせました!」
「この程度のダンジョンなら任せてください!」
双剣使いが親指を立てる。
「ボスを速やかに討伐して、帰還用転移陣を起動! 皆さんをまとめて地上へ帰します!」
「そして視聴者のみんなー!」
ヒーラーの女性がドローンへ向かって笑顔を見せる。
「無事生還を祈って、応援&チャンネル登録よろしくお願いしまーす!」
「こんな時でもブレないね~」
トリッシュが感心したように言う。
「でもまあ、これで一安心かな?」
「配信者としてはともかく、実力は確かですよ、彼等は」
藤宮も肩の力を抜く。
「なんだァ?」
牧島だけが怪訝そうな顔をした。
「アイツら、そんな強ェのか?」
「A級パーティ"崩壊グラフィティ"」
朱里が説明する。
「以前、仕事で一度だけコラボしたことがあるわ。エンタメ寄りの配信を得意としているけれど、申告されている平均レベルは二十六。攻略経験も豊富で、正式にA級認定を受けている実力者よ」
「二十六?」
牧島が鼻を鳴らした。
「なんだよ。江戸川朱里より低いじゃねェか」
「ランクはレベルだけで決まるものじゃないわ。それに私はレベルだけ急に上がったばかりで、登録上はまだB級よ」
「ふーん」
牧島は興味なさそうに答えたあと、ニッと牙を見せた。
「まあ俺様も、あと三つで二十六だけどな!」
「…………え?」
朱里が固まった。
「牧島君」
「あァ?」
「貴方……今、レベルいくつ?」
「二十三!!」
「にじゅうさん!?」
思わず声が裏返った。
「待って! 昼間はまだ十八だったでしょう!? どうして数時間で五つも上がってるの!?」
「おう!」
牧島は誇らしげに笑う。
「さっきユニークモンスターのデケェ亀がいたから、ソロでぶち殺したらすげぇレベル上がった!!」
「ソロでユニークモンスターを!?」
朱里のこめかみに青筋が浮かぶ。
「門田くんといい、貴方といい……情報の無いユニークモンスターにソロで挑むなんて!! 命が惜しくないの!?」
「何言ってんだァ? 生きて勝ったんだから問題ねェだろ」
「そういう問題じゃ──!」
「会長」
神が静かに制した。
朱里もすぐに気づいた。
──空気が変わった。
「…………」
ざわついていた探索者たちの声が、一つ。また一つと、止まっていく。
ギィィィィィィ……。
ボスフロアの最奥。
巨大な扉が、ゆっくりと開き始めていた。
隙間の向こうは、真っ暗だった。
そこから、冷たい風が流れ込む。
「……何?」
トリッシュがキャンディを口から外した。
朱里の全身に鳥肌が立つ。
来る。何かが来る。
(これ……!)
変異種ミノタウロスの時と同じ。
いや、違う。
あの時より、遥かに──
ギィィィ……。
扉が完全に開き、暗闇の中から足音が響いた。
コツ。コツ。ズシン。
一体目。まず姿を現したのは、五メートルほどの異形だった。
大まかな輪郭は人型。
だが全身を覆う外骨格は蝗を思わせ、長く折れ曲がった脚と、巨大な翅を背負っている。
その一方で肩や胸部には爬虫類じみた鱗が広がり、頭部から後方へ伸びる角は竜のそれに近い。
太い腕の先では、不自然な程巨大な拳が床を擦っていた。
「……何だ、あれ」
誰かが呟いた。
さらに、その後ろから、もう一体。
今度は小さい。二メートル程度だ。
人間とそれほど変わらない。
細長い四肢に、黒光りする外骨格。
背中からは半透明の翅が伸び、身体の輪郭は人型に近いものの、その顔立ちは明らかに人のものではなかった。
滑らかな甲殻に覆われた頭部。
吊り上がった大きな複眼と、昆虫にも爬虫類にも見える無機質な口元。
表情らしい表情はないのに、見つめられているだけで妙な知性を感じさせる。
そして何より異様なのは、腰のあたりから伸びる細長い尾だった。
しなやかに揺れるその尾は、地面すれすれまで長く伸び、先端だけが鋭い針のように尖っている。
まるで蚊の吸血器官を、尾の先へ移したような形状だった。
蚊と竜を無理やり人型へ押し込めたような、異様な姿をしている。
巨大な一体とは対照的に、その怪物はほとんど音を立てなかった。
ただ、ゆっくりと首を傾け──ボスフロアに集められた五十人近い人間たちを、順番に眺めていく。
「…………」
朱里は息をするのを忘れた。
目が──小さい方から離れない。
(違う……)
サイズではない。
あれは──あの二体は──
絶対に、普通ではない。
「何だ?」
「いつものボスと違わない?」
「蜘蛛じゃないぞ」
「変異種ってヤツ?」
「でも小さくね?」
「A級パーティいるなら余裕じゃないか?」
「二体くらいなら何とかなるだろ」
周囲では、安堵すら混じった声が聞こえ始めていた。
普段のボスより小さい。
しかもA級パーティまでいる。
見た目だけなら、そう考えてもおかしくない。
「おおっとぉ!!」
崩壊グラフィティの盾役が撮影用ドローンへ向かって声を上げた。
「これは予想外! 通常ボスではありません!」
「まさかの変異種ボス、しかも二体!」
魔導士の女性もテンションを上げる。
「視聴者のみんな、今日この配信を見てるあなたたちはツイてるよー!」
「ということで緊急企画!」
双剣使いが剣を抜いた。
「崩壊グラフィティが、変異種を討伐してみた!」
「始まりまーす!」
ヒーラーが明るくカメラへ手を振る。
周囲から歓声が上がった。
「さすがA級!」
「頼んだぞ!」
「これ配信映ってんのか!?」
「後で絶対見るわ!」
誰もが、少しだけ安心した顔をしている。
だが──
「…………」
朱里は動けなかった。
隣を見ると、牧島も笑っていない。
「──牧島君」
小さく呼ぶ。
牧島の額には、冷たい汗が浮かんでいた。
先ほどユニークモンスターを相手に、死にかけながら笑っていた男が──
今は、笑っていない。
「貴方……気付いたのね」
「あァ……」
牧島は二体の怪物から視線を外さない。
「テメェもかよ、江戸川朱里」
「ええ……」
二人とも、理由を説明できるわけではない。
ステータスが見えるわけでもない。
相手のレベルを測れるわけでもない。
それでも、分かってしまう。
戦ってきたからこそ。
死線を越えた経験があるからこそ。
本能が、全力で警鐘を鳴らしている。
「それじゃあ行くぜぇ!!」
崩壊グラフィティの四人が前へ出る。
盾役を先頭に、双剣使いが左右へ展開。
後方で魔導士とヒーラーが詠唱準備へ入る。
完璧に近い隊形だ。
A級らしい、慣れた動きだった。
「…………やめろ」
牧島が呟いた。
だが、その声は歓声に掻き消される。
「変異種討伐チャレンジ──スタート!!」
崩壊グラフィティの四名が走り出した。
その姿を見ながら、牧島が低く吐き捨てる。
「……ダメだ」
朱里が横を見る。
牧島の顔から、いつもの獰猛な笑みは完全に消えていた。
「アイツらだけじゃねェ……」
喉を鳴らす。
「俺様たち全員──」
そして、枯れた様な声で呟く。
「ここで、死ぬぞ」
朱里は、その言葉を否定することができなかった。




