第36話 何も見なかった
「はぁぁぁぁぁ……」
狭い個室の中で、俺は大きく息を吐いた。
天井は低い。壁も薄い。
部屋の広さも、両腕を伸ばせば左右へ届きそうな程度しかない。
目の前には小さなパソコン。
床には薄いマットレス。
端の方には、俺の鞄が置いてある。
いわゆる、ネットカフェの鍵付き個室だ。
今日は、ここが俺の家である。
『せっめぇにゃあ……』
鞄の中から、灰色の頭がぬっと顔を出した。
フランだ。
さすがに喋る猫を堂々と受付へ連れていくわけにはいかなかったので、入店時は鞄の中へ隠れてもらった。
今はもう個室の中なので、好きにしている。
フランは鞄から這い出ると、狭い個室を見回し、不満そうに鼻を鳴らした。
『なんでこんな狭いネカフェに泊まるんにゃ。あのウツボの素材、まあまあ高く売れたんにゃろ?』
「贅沢言うなよ」
俺は靴を脱ぎ、マットレスの上へ腰を下ろした。
「俺たちは今、住所不定の根無草なんだから。節約しないと」
『せめてビジホくらい泊まりたいにゃ』
「ホテルなんて高いだろ」
『金あるにゃろ』
「あるけど、使いたくないの」
豊島区第二ダンジョンから出たあと、俺はアイテムチェストに回収されイビルモーレイの素材を、そのまま近くの素材買い取り店へ持っていった。
牙。皮。肉。
ユニークモンスターの素材というだけあって、どれも想像以上の値段がついた。
総額、およそ三十万円。
高校生の俺にとっては、目玉が飛び出るような大金だ。
だが──
「三十万円なんて、使おうと思えば一瞬でなくなるからな」
『十分大金にゃ』
「新しい部屋を借りるなら、敷金と礼金が必要だろ。前家賃とか保証金もあるし。家具も買い直さないといけない」
『まぁ、それはそうにゃ』
「前のアパートも、保険で全部どうにかなるとは限らないし。迷惑かけた分、何かしら負担する可能性もあるし」
『にゃるほど』
「それに、晴子さんからもらった武器の代金だって、いつかちゃんと払いたいし」
『あれ、かなり高そうにゃ』
「だから無駄遣いはできません」
俺はそう言って、マットレスへごろりと寝転がった。
ネカフェはいい。ホテルより安い。
シャワーもある。飲み物もある。
しかも、この店はカレーとソフトクリームが食べ放題だった。
最高じゃないか。
先ほど、カレーを二杯食べた。
腹もいっぱいだ。
何より──
「平和だ……」
しみじみと呟く。
静かな個室。
爆発音はない。怪物もいない。
転移罠もない。警察官もいない。
こんなにも落ち着いて夜を過ごせるのは、何日ぶりだろう。
十七歳の誕生日、ゴキブリを爆破。
翌日、ダンジョン最深部で変異種を爆破。
その翌日、またしてもダンジョン最深部。
スケルトン・ジェネラルを爆破。
帰宅後、再びゴキブリを爆破。
そして今日はついに、何とか爆発事故を起こさずに済んだ。
ダンジョンの中では派手にやらかしたけれど、少なくとも建物は吹き飛ばしていない。
俺にしては上出来だ。
「やっぱり平穏が一番だな……」
『その割に、今日もユニークモンスターをバラバラにしてたにゃ』
「あれは人助けだからノーカウント」
『どういう基準にゃ』
フランは呆れたように言うと、個室の隅に置かれた小さな器へ顔を突っ込んだ。
中身はソフトクリームだ。
さっき、こっそり持ってきてやった。
『やっぱ甘いもんはうめぇにゃ〜』
「猫ってソフトクリーム食べて大丈夫なの?」
『ニャーを普通の猫扱いすんじゃねぇにゃ』
フランは気にせず、ぺろぺろとソフトクリームを舐め続けている。
俺は天井を見上げながら、ぼんやりと今日の出来事を思い返した。
……そういえば。
「フラン」
『なんにゃ』
「前から気になってたんだけどさ」
俺は片手を頭の後ろへ回した。
「──戦ってる時に、相手の動きがスローモーションみたいになることがあるんだけど」
『あー?』
「スケルトン・ジェネラルの時もそうだったし、今日のウツボ戦でもそうだった」
『ふむ……』
「集中すると、周りの動きだけ遅くなって、俺は普通に動けるんだよ。あれ、何なんだろうな」
ずっと不思議だった。
最初は、死ぬ直前に脳が活性化して時間がゆっくり感じる、死に際の集中力的な現象かと思っていた。
だが、何度も起きている。
しかも、危機的状況でなくても、集中さえすれば意図的に近い状態へ入れるようになってきた。
『……にゃるほど』
フランがソフトクリームから顔を上げた。
『ロミオ。おみゃー、ステータスのINT、いくつにゃ?』
「INT?」
俺は上半身を起こした。
「ステータスオープン」
青白い半透明の画面が、目の前へ浮かび上がる。
──────────────────
名前:門田露澪
LV:56
STR:243
AGI:254
INT:257
MAG:248
──────────────────
「えっと……INTは二百五十七だね」
『…………』
「4つのステータス、全体的に平均二百五十くらい」
『へ、平均二百五十……』
フランの舌が止まった。
『やっぱり化け物にゃ……』
「……いやいや」
俺は苦笑する。
「確かに一般人よりは高いけどさ」
『一般人よりは、で済ませる数字じゃねぇにゃ』
「でも、普通の男子高校生の平均って十前後だろ?」
『そうにゃ』
「なら、せいぜい一般人の二十五倍くらいじゃん」
『…………』
フランが何とも言えない顔をした。
何だろう。
今日、この顔を何度か見た気がする。
「そこまででもなくない?」
『おみゃー、本気で言ってんのかにゃ?』
「だって、人間二十五人集めたって、動物園のゾウとかにも勝てなさそうじゃない? そう考えると、そこまでめちゃくちゃ強いって感じでもないじゃん」
『比較対象が雑すぎるにゃ』
フランはソフトクリームを一舐めし、ため息を吐いた。
『まずにゃ。INTってのは、ただの“頭の良さ”じゃねーにゃ』
「え?」
『人間が勝手にインテリジェンスとかいう名前つけてるせいで勘違いしやすいけどにゃ。実際はもっと広い能力を表してるにゃ』
「じゃあ何なの?」
『知覚力にゃ』
「知覚力?」
『見る、聞く、感じる、考える。それをどれだけ速く、正確に処理できるかって能力にゃ』
フランは前脚で自分の頭を指した。
『おみゃーは普通の人間より、遥かに細かく周囲の情報を拾って、遥かに速く処理できるようになってるにゃ』
「…………」
『だから集中した時、周りがスローモーションみてぇに感じるんにゃろ』
「そうだったのか……」
俺はステータスウィンドウのINT欄を見つめた。
知力というより、知覚能力。
なるほど。
「確かに、INTが二十五倍になった割には、全然頭よくなった感じしなかったんだよな」
『勉強してねぇ知識が勝手に頭へ生えてくるわけねーにゃ』
「数学の問題とか、一瞬で解けるようになるのかと思ってた」
『都合よすぎにゃ』
少し残念だ。
テスト勉強をしなくても満点を取れる身体になったのかと思ったのに。
でもまぁ、勉強効率はかなり上がりそうだ。
『つーかにゃ』
フランが改めて俺を見上げる。
『平均二百五十なんていうイカれたステータスになったおみゃーは、もう名実ともに化け物にゃ』
「またそれ?」
『開き直って配信でも始めるにゃ。バンバン強い敵倒して、スター探索者として成り上がるにゃ。そしたらニャーも高級マグロ食い放題にゃ』
「絶対イヤ」
俺は即答した。
「化け物ったって、一般人の二十五倍程度だろ? そう考えると、大したことない気がするんだよね。配信で見る探索者の人とか、そんなもんじゃない強さに見えるしさ」
『…………』
フランがジト目になる。
『じゃあ聞くにゃ』
「何?」
『たとえば……普通の人間の二十五倍の腕力を持ってるヤツがいたとするにゃ』
「……うん」
『そいつの強さは、普通の人間の何倍くらいだと思うにゃ?』
「腕力だけ二十五倍?」
少し考える。
「まあ、普通に二十五倍くらい強いんじゃない? 単純に、攻撃のダメージが二十五倍強い訳だし」
『じゃあ、普通の人間の二十五倍のスピードで動くヤツは?』
「そりゃ……めちゃくちゃ速いだろうけど」
俺は天井を見ながら答える。
「まあ、それも二十五倍くらい強いんじゃ……」
そこまで口にして──
俺は止まった。
「…………」
『気づいたかにゃ?』
嫌な汗が、額に浮かぶ。
「いや、待って」
『待たねーにゃ』
「ちょっと待とう。一旦落ち着こう」
『ニャーは落ち着いてるにゃ。それに、待ったところで現実は変わらねーにゃ』
フランが器の縁へ前脚を置く。
『もちろん、“強さ”なんて数字を単純に掛け算できるもんじゃねーにゃ』
「そ、そうだよな!」
『でも考えてみるにゃ』
「よし、この話、やめよう」
『普通の人間の二十五倍の腕力で』
「聞きたくない」
『二十五倍の速度で動いて』
「聞こえない」
『その動きを二十五倍の知覚力で制御して』
「やめて」
『ついでに魔力まで二十五倍ある』
「…………」
俺は耳を塞いだ。
『そんなヤツが、“一般人二十五人分”程度で済むと思うかにゃ?』
「ワーオイ!! ワーオイ!!」
俺は耳を塞いでマットレスへ倒れ込んだ。
「聞きたくない!! そんなわけない!!」
『現実にゃ』
「俺は普通だ!! 俺は何の変哲もない、公務員志望の高校生なんだ!!」
『普通の高校生はA級上位モンスターを一本背負いで投げねぇにゃ』
「聞こえない!!」
『ユニークモンスターを空中で輪切りにも──』
「聞こえなぁぁぁい!!」
ドンッ!!
突然、横の壁が大きく鳴った。
「ひっ!?」
隣の個室から、低い男の声が響く。
「おい! うるせぇぞ!!」
「あっ! ご、ごめんなさい!!」
俺は反射的に姿勢を正した。
ネカフェだった。
完全に忘れていた。
俺は小声で壁へ向かって、もう一度謝る。
「本当にすみません……」
隣の客から返事はない。
どうやら許してもらえたらしい。
『…………』
フランが、壁をじっと見つめている。
「何だよ」
『隣の客も、まさか自分が怒鳴りつけた相手が、人外魔境の化け物とは思ってねーだろうにゃあ』
「やめろ」
俺はずーん、と肩を落とした。
「もういい……」
『にゃ?』
「深く考えるのは、明日の俺に任せる」
『また現実逃避かにゃ』
「今日の俺は、もう寝る」
俺はスマートフォンを取り出した。
こういう時は、何も考えなくていい動画を見るに限る。
ショート動画。
数十秒、頭を空っぽにして流し見できる。
猫。料理。ゲーム。犬。謎のライフハック。
指を動かし、次々と画面を切り替えていく。
『ロミオ』
「何?」
『寝る前に、カレーとソフトクリームのおかわり持ってきてにゃ』
「はいはい」
『ソフトクリームは多めにゃ』
適当に返事をしながら、また画面をスワイプする。
すると……次に流れてきた動画で、俺の指が止まった。
『ダンジョン三人娘チャンネルのナツミンを救った、新人イケメン探索者の正体とは!?』
「…………」
画面の中。
桜色の光をまとった双剣。
宙を舞う光の花びら。
そして──
巨大なウツボへ向かって飛び込む、見覚えのある男。
「…………」
俺だった。
再生数は、八十七万回。
「…………」
俺は何も言わず……
──スッ。
指を動かした。
次の動画へ切り替える。
『……おみゃー』
「何?」
『今の動画……』
「何も見てない」
『思いっきりおみゃーが映ってたにゃ』
「知らない人です」
『顔まで同じだったにゃ』
「世の中には、自分に似た人間が三人いるらしいよ」
『現実を見るにゃ』
「俺は何も見なかった」
俺はスマートフォンの画面を消した。
枕元へ置き、そのままマットレスへ横になる。
「さ、寝よう。明日も学校だ」
『話そらしたにゃ』
「おやすみー」
俺は背中を向け、目を閉じた。
『……おみゃー、その都合の悪い現実から目を逸らす癖、いつかとんでもねぇ事態を招くと思うにゃ』
フランの呆れた声が聞こえる。
やがて、背後でフランが丸くなる気配がした。
俺は目を閉じたまま、自分へ言い聞かせる。
大丈夫。これは夢だ。
俺が映ったショート動画が、数時間で八十万再生を超えるなんて……
そんなこと、現実にあるわけがない。
きっと明日起きれば、全部元通りになっている。
俺は普通の高校生。
何の変哲もない、公務員志望の男子高校生だ。
(うん……きっとそうだ)
そう信じながら──
俺は全力で現実から目を逸らし、眠りについたのだった。




