第24話 朱里の想い
東京都内。
高層ビル群の一角にそびえる、江戸川グループ本社。
その最上階にある会長室で、江戸川剛蔵は重厚な革張りの椅子へ深く腰掛けていた。
窓の外には、朝日に照らされた東京の街並みが広がっている。
だが剛蔵は、机の上に置かれた書類にも、眼下の景色にも目を向けていなかった。
向かい側に立つ娘──江戸川朱里を、鋭い目で見つめていた。
「……もう一度、聞こう」
低く、押し殺したような声が会長室へ響く。
「お前の現在レベルは、本当に二十八なのだな?」
「はい、お父様」
朱里は静かに答えた。
背筋を伸ばし、両手を身体の前で重ねている。
普段と変わらない、凛とした立ち姿だった。
「つい先日まで、お前のレベルは十九だった」
「はい」
「それが、たった一度の戦闘で……九も上がったと?」
「間違いありません」
レベルは、本人にしか確認できない。
ステータスウィンドウは、所有者の意思によってのみ表示される。
測定装置も存在せず、第三者が直接数値を確認することはできない。
だからこそ、レベルやスキルは本人の自己申告が基本となる。
無論、戦闘能力や実績から、ある程度の推測は可能だ。
だが、厳密な数値までは分からない。
「……お前に限って、そのような嘘を口にするとは思っておらん」
剛蔵は眉間へ深く皺を寄せた。
「だが、あまりにも信じ難い数字だ」
「私自身も、最初は見間違いかと思いました」
朱里も、昨夜から何度ステータスを開いたか分からない。
一度閉じ、もう一度開き。
目を擦り、それでも表示される数字は変わらなかった。
「恐らく……あの変異種との戦闘が原因かと思われます」
「赤黒いミノタウロスか」
「はい」
朱里の表情が、僅かに曇った。
練馬区第三ダンジョン。
地下三十階。
本来のボスを倒すために企画された、生配信付きの特別攻略。
そこへ突如現れた、正体不明の変異種。
赤黒い皮膚。
異常な巨体。
Bランク探索者である朱里ですら、まるで歯が立たなかった。
「私は、あの個体へ何度か攻撃を加えました。ほとんど有効打にはなりませんでしたが……戦闘への貢献そのものは、記録されたのだと思います」
「討伐時の経験値分配か」
「はい」
強力な魔物、とりわけダンジョンボスを複数人で討伐した場合──
経験値は、最後に攻撃を加えた者だけへ与えられるわけではない。
与えた損傷。戦闘時間。
敵の注意を引きつけた時間。
支援。その他の戦闘貢献。
それらをもとに、各自へ個別に経験値が加算される。
「私は……敗北しました。ですが、あの変異種へ先に攻撃を加えていたため……討伐時、僅かながら経験値を得たのだと思われます」
「僅かながら、だと……?」
剛蔵の口元が、僅かに震えた。
「僅かな貢献で、レベルが十九から二十八へ上がったというのか」
「はい」
「……九だぞ」
「はい」
「レベルが九も、一度に……!」
剛蔵は椅子から立ち上がった。
両手を机へつき、興奮を抑え切れない様子で朱里を見る。
「それにしても……二十八だと!?」
「お父様」
「高校生のうちに……しかも、スキルへ目覚めて一年にも満たぬうちに、レベル二十八へ到達するなど……前代未聞だ! ……いや、例外はあるか」
剛三の声が、広い会長室へ響いた。
江戸川朱里は、まだ十七歳。
高校生探索者として、すでに高い知名度を持つ。
容姿端麗。成績優秀。
若くしてBランク。
大企業グループ会長の令嬢。
そこへ、レベル二十八という肩書きが加わる。
「ただでさえ、お前は“見目麗しい高校生探索者”として、世間から注目されている」
「……その呼ばれ方は、あまり好ましくありません」
「世間が勝手に呼んでいるのだ。仕方あるまい」
剛蔵は口元へ手を当てる。
その目は、娘を案じる父親のものから、企業を率いる経営者のものへ変わっていた。
「十七歳にして、レベル二十八……。これを公表すれば、探索者業界だけでは済まん。政府も、海外企業も、お前を放ってはおかんだろう」
「……」
「これならば、張須重工の連中も、お前へ下手なちょっかいはかけられまい」
剛三の口の端が、ゆっくりと持ち上がった。
「張須の倅が、いかに“世界最強の高校生”などと持て囃されていようと……最早お前を一方的に格下扱いすることはできん」
「お父様」
「分かっている。今すぐ何かを決めるつもりはない」
剛蔵は手を上げ、娘の言葉を制した。
「だが、力は交渉材料になる。とりわけ、探索者が社会の中心に入りつつある今の時代ではな」
「……はい」
朱里は静かに頷いた。
だが、父の言葉はほとんど耳へ入っていなかった。
彼女の意識は、すでに父の話から離れていた。
(私は……あの変異種へ、ほとんど有効な損傷を与えられなかった)
剣でつけた傷はすぐに再生された。
渾身の一撃も、赤黒い皮膚へ浅い傷を残しただけ。
最後には為す術もなく地へ伏し、ただ死を待つことしかできなかった。
それでも──
朱里のレベルは、十九から二十八へ上昇している。
戦闘への僅かな貢献だけで、九ものレベルが上がったのだ。
ならば。
あの変異種を、ほとんど一人で討ち倒した人物には、一体、どれほど膨大な経験値が与えられたのだろう。
(ダイナマイト練馬様……)
その名を胸の内で呟くだけで、心臓が僅かに速くなる。
学ランで顔を隠した、謎の覆面探索者。
絶体絶命の窮地へ、何の前触れもなく現れ、
恐るべき変異種を前にしても怯む様子一つ見せず、
ただ小石を投げるという、あまりにも静かで、あまりにも圧倒的な一撃によって、赤黒いミノタウロスを爆発四散させた。
そして、称賛も報酬も求めず、
助けた朱里へ恩を着せることもなく、
己の名だけを残して、忽然と姿を消した。
朱里の記憶の中で、その背中はすでに、現実以上に大きなものとなっていた。
(あれほどのお力をお持ちでありながら……決して、それを誇示なさらない)
朱里には、そう思えた。
実際には、顔を隠していたのも、名乗った直後に逃げ去ったのも、正体の発覚を恐れていただけである。
だが、そんな事情を知る由もない朱里にとって、あの振る舞いは、力を誇らず、名声を求めず、ただ人を救うためだけに現れる、孤高の英雄の姿そのものだった。
(きっと、あのお方にとっては……あの変異種すら、取るに足らない相手だったのでしょうね)
そう考えると、胸が熱くなる。
自分が命を懸けても届かなかった怪物。
それを、あの人は一撃で葬った。
どれほど高いレベルなのだろう。
どれほど多くの死線を越えてきたのだろう。
あの学ランの下には、どのような素顔が隠されているのだろう。
年齢は。経歴は。
普段は、どこで何をしているのか。
考えれば考えるほど、知りたいことが増えていく。
それは命の恩人に対する、純粋な関心のはずだった。
感謝。尊敬。憧れ。
そうした感情に違いないと、朱里は自分へ言い聞かせる。
だが──
あの覆面姿を思い出すたび、胸の奥が微かに締めつけられる。
もう一度会いたい。
今度こそ、きちんと礼を伝えたい。
自分を救った理由を聞きたい。
そして願わくば──
あの人の隣へ立てるほど、強くなりたい。
そんな思いまで浮かんでしまう。
(こっ、これは……尊敬しているだけですっ……!)
朱里は、心の中で小さく否定した。
けれど、否定したはずなのに。
頬へ差した熱は、なかなか引いてくれなかった。
剛三は娘の変化に気づかず、今後の広報戦略について何事か話し続けている。
やがて朱里は一礼し、会長室を後にした。
重厚な扉が閉じる。
人気のない廊下へ出たところで、朱里は足を止めた。
胸元へ、そっと手を添える。
指先の下で、心臓が普段より少しだけ早く鼓動していた。
「ダイナマイト練馬様……」
口にすれば、少しだけ距離が近づく気がした。
もちろん、そんなはずはない。
それでも朱里は、僅かに睫毛を伏せる。
声には、憧れだけでは説明できない柔らかな熱が滲んでいた。
「貴方は今、どこで……何をなさっているの……?」
その問いに答える者はいない。
ただ朱里の胸の中で──
名も素顔も知らぬ英雄への想いだけが、静かに芽吹き始めていた。




