第22話 結ばれた契約
青白い光が消える。
次の瞬間、俺は板橋第一ダンジョンの入口前へ立っていた。
外はすっかり暗くなっている。
街灯が道路を照らし、少し離れた大通りから車の走る音が聞こえた。
人の世界だ。
腐臭もしない。
普通の空気だ。
俺は胸いっぱいに夜の空気を吸い込んだ。
「ああ……生き返る……」
こんなに新鮮な空気をありがたいと思ったのは、生まれて初めてだった。
スマホで時刻を確認する。
午後十一時を少し過ぎたところだ。
帰宅が遅くなってしまったが、明日は学校が休みである。
今日は風呂に入って、すぐ寝よう。
世界の秘密は聞かなかった。
喋る猫も置いてきた。
何とか、日常へ戻れそうだ。
そう思った時。
『にゃ……にゃ~……』
足元から、か細い声が聞こえた。
恐る恐る視線を下げる。
そこには、俺の制服の裾へ爪を引っかけたままの猫がいた。
「ついてきてる!?」
『し……死ぬにゃ……』
「えっ?」
猫の様子がおかしい。
地面へ倒れ込み、身体をビクン、ビクンと痙攣させている。
先ほどまで逆立っていた毛は力なく寝ており、呼吸も激しく乱れていた。
「ど、どうしたの!?」
『にゃ、ニャーは……』
猫が苦しそうに顔を上げる。
その身体が、僅かに透け始めていた。
灰色の毛並みの向こうに、地面の模様が見える。
『ニャーは……妖精猫なのにゃ……』
「ケット・シー?」
『〝幻界〟からやってきた……ニャー達のような幻獣は……ダンジョンの中と違って……』
猫が苦しそうに息を吸う。
『魔導素の薄い人間の世界じゃ……身体を維持できねぇのにゃ……』
「ええっ!?」
俺は慌てて猫の前へしゃがみ込んだ。
「それって、死ぬってこと!?」
『このままなら……消滅するにゃ……』
「どうしよう!? 急いでダンジョンに戻せば間に合うのか!?」
立ち上がろうとする。
しかし、猫は前脚で俺のズボンを掴んだ。
『いや……もう間に合わねぇにゃ……一度こっちの世界へ完全に引き出されて、身体の崩壊が始まったら……ダンジョンへ戻っても止まらねぇにゃ……』
「そんな!」
『ニャーが助かる道は……ただ一つだけにゃ……』
猫の翠色の瞳が、一瞬だけカッと鋭く輝いた。
だが、すぐに苦しそうな表情へ戻る。
『ニャーと契約して……ニャーを、おみゃーの“従魔”にしてほしいのにゃ……』
「従魔……?」
『人間と契約を結んだ幻獣は……契約者から魔導素を供給してもらえるにゃ……この世界でも、生きていけるのにゃ……』
従魔契約。
探索者の中には、魔物や幻獣と契約し、戦闘の補助をさせている者がいる。
動画で見たことがある。
しかし、従魔を持つことができるのは、特別なスキルを持つ探索者だけだと思っていた。
俺にもできるのだろうか。
だが──
(嫌だ……)
正直、ものすごく嫌だ。
喋る。魔法を使う。
世界の秘密を握っている。
明らかに、俺を何らかの面倒事へ誘おうとしている。
そんな猫と契約するなんて、平穏な暮らしがさらに遠ざかる予感しかしない。
しかも……
うちのアパートは、本当にペット禁止なのだ。
従魔なら問題ないという理屈は、管理会社には絶対に通じない。
俺が迷っている間にも、猫の身体はどんどん薄くなっていく。
『も……もう、駄目にゃ……』
「ちょ、ちょっと待って!」
『短い付き合いだったにゃ……さようにゃら……』
猫がそっと目を閉じる。
身体が、さらにスゥーッ……と透けていく。
向こう側の地面が、完全に見えてしまっている。
「オワーーーーッ!?」
俺は頭を抱えた。
「分かった! 分かったから! 契約する!」
『ほ、本当かにゃ……?』
猫が薄く目を開けた。
一瞬だけ、瞳の奥へ喜色が浮かんだような気もする。
気のせいだろうか。
いや、今は疑っている場合ではない。
「どうすればいいの!?」
『ニャーに……人間界での名前を付けるのにゃ……』
「名前?」
『契約者に名前を与えられることで……幻獣は、この世界へ存在を固定できるにゃ……』
「分かった! 名前だね!」
『できれば……ヨーロッパの風を感じる、ファビュラスな名前にしてほしいにゃ……』
「半透明のくせに注文が多いな!?」
今にも消えそうなのに、妙な部分へこだわる猫だった。
名前。
名前を付けなければならない。
しかも、ヨーロッパの風を感じるファビュラスな名前。
そんなもの、急に言われて思いつくわけがない。
「名前……名前……!」
何だろう。
つい最近も、こんなことがあった気がする。
名前を聞かれ、何も思いつかず、目の前にあった単語を使い……
気づけば、ダイナマイト練馬になっていた。
駄目だ。
同じ失敗を繰り返してはいけない。
今回は、もっと格好いい名前を考えなければ。
ヨーロッパ。ファビュラス。
猫。灰色。女性名。……メスだよね、この子。
そんな事を考えてる間にも、猫はどんどん薄くなっていく。
『は、早くするにゃ……!』
「分かってる!」
『ニャーの身体が、もうほとんど見えなくなってるにゃ……!』
「分かってるって!」
フランスっぽい名前。
イタリアっぽい名前。
何かないか。
マリア。ソフィア。アンジェリカ。
フランチェスカ。
フランチェスカはいいな。ヨーロッパっぽい。
ファビュラスかどうかは分からないが、少なくともダイナマイトよりは上品だ。
いやでも、ひょっとしてフルネームが必要だったりするのか?
姓まで必要なのか?
そこらへんは聞いていない。
何か。
何か名字。
ふと、板橋区第一ダンジョンの看板が目に入る。
……違う。駄目だ。
それだけは駄目だ。
俺は何度同じ過ちを繰り返す気だ。
しかし、猫の身体はもうほとんど消えかけている。
『はや……く……』
「ふ……」
焦る。
頭が真っ白になる。
そして、俺の口は──
脳が止めるより先に、最悪の言葉を吐き出していた。
「フランチェスカ板橋……?」
直後。
頭の中へ、無機質な声が響いた。
『従魔契約が完了しました』
『従魔名:フランチェスカ板橋』
「…………」
猫の身体が、眩い光を放った。
半透明だった輪郭が、徐々に色を取り戻していく。
灰色と黒の縞模様。
丸い顔。青色の瞳。短めの脚。
完全に、元のアメリカンショートヘアーの姿へ戻った。
助かった。
どうやら、契約は成功したらしい。
よかった。
本当によかった。
しかし──
猫は地面へ座り込んだまま、わなわなと震えていた。
『お……』
「お?」
『おみゃあぁぁぁぁぁぁッ!!』
猫の絶叫が、夜の街へ響き渡った。
『なんなんにゃ、この名前ぇ!?』
「いや、その……」
『なんで最後に板橋付けたんにゃ!? フランチェスカだけでいいにゃろ!?』
「焦ってて……フルネームの方がいいのかなって思って……」
『ニャーは女子プロレスラーじゃにゃーぞ!?』
「それは、本当にごめん……」
ヨーロッパの風を感じるファビュラスな名前。
その希望は、前半部分だけなら叶っている。
後半から吹いているのは、完全に板橋区の風だった。
猫──フランチェスカ板橋は、地面を両前脚で何度も叩いた。
『やり直しを要求するにゃ! 今すぐ契約をやり直すにゃ!』
「どうやって?」
『知らねぇにゃ! おみゃーが考えるにゃ!』
「無茶言わないでよ……」
俺は深いため息を吐いた。
喋る猫。
妖精猫。
世界の秘密を知るらしい幻獣。
そして──俺の従魔。
助けるためとはいえ、とんでもない存在と契約してしまった。
「最悪だ……」
『それはニャーの台詞にゃーーー!!』




