第17話 またしてもボスフロア
青白い光が消えた。
同時に、俺の身体が石造りの床へ投げ出される。
「ぐえっ……!」
情けない声を上げながら、両手と両膝を床についた。
冷たい。硬い。
そして──
「くっさ……」
臭い。
鼻を押さえながら、俺は恐る恐る顔を上げた。
薄暗い石造りの広間。
壁には、青白い炎が灯された燭台。
天井は異様に高く、奥には巨大な両開きの扉が鎮座している。
見覚えはない。
しかし、この造りには覚えがある。
俺は震える手で探索者証を取り出し、現在地を確認した。
昨日は慌てて忘れてたが、探索者証にはそういう機能もついているのだ。
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板橋区第一ダンジョン
地下三十階・最深部
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「…………」
しばらく無言で表示を見つめた。
見間違いかもしれない。
そう思い、一度画面を消す。
もう一度表示する。
──────────────────
板橋第一ダンジョン
地下三十階・最深部
──────────────────
「また三十階かよぉ……」
俺はその場に崩れ落ちた。
一般的に、初級ダンジョンの最深階層は地下三十階。つまり、ここだ。
二日連続、二回目。
別々のダンジョンで、どちらも地下三十階。
もはや偶然ではなく、三十階の方から俺を呼んでいるのではないだろうか。
呼ばないでほしい。
俺は静かな場所で、小石を五回投げて帰りたいだけなのだ。
その程度のささやかな願いが、なぜ神様には届かないのだろう。
「はぁ……最悪だ……」
正面にある巨大な扉を見上げる。
間違いない。
あの向こうがボス部屋だ。
昨日も、練馬区第三ダンジョンの地下三十階へ飛ばされた。
そして、変異種のミノタウロスと遭遇した。
今日もまたボスフロア。
普通の高校生が二日連続でダンジョンボスに遭遇する確率など、宝くじに当たった直後に隕石へ直撃される確率より低いのではないだろうか。
宝くじを買ったことはないけれど。
「どうしよう……」
昨日とは状況が違う。
あの時の俺は、覚醒したてのレベル一桁台だった。
しかし今は、レベル五十三。
実感はまるでないが、教室から校門まで全力で走っても息切れ一つしなかった。
ゾンビに向けて軽く投げた小石も、目で追えないほどの速度で飛んでいった。
慎重に進めば、地上まで戻れる可能性は高いと思う。
二十九階分、魔物を倒しながら、階段を上り続ければいい。
ただし──
「これを二十九階分……?」
俺は周囲の空気を、ほんの少しだけ鼻から吸い込んだ。
「ヴォエッ……!」
即座に口元を押さえる。
臭い。
三階でさえ、あれほど臭かったのだ。
最深部ともなれば、その濃度はもはや空気ではない。
腐敗を概念化して、霧状に散布したような臭いがする。
この中を二十九階分も歩く。
考えただけで、涙が出そうだった。
「でも、ボス部屋に入ったら……」
昨日のことを思い出す。
変異種のミノタウロスを倒した後、ボス部屋の外に入口へつながる転移魔法陣が出現した。
おかげで俺は、マスコミや江戸川先輩から速やかに逃げることができた。
このダンジョンも、同じ仕組みである可能性は高い。
つまり──
「……ボスを倒した方が、帰るの早いんじゃないか?」
口にしてから、自分で自分が恐ろしくなる。
昨日までの俺なら、ダンジョンボスを倒すなどという選択肢は、最初から頭に浮かばなかった。
ボスを避けて二十九階分歩くか。
ボスを爆殺して一瞬で帰るか。
命懸けの戦闘か。
二十九階分の腐臭か。
「…………ボスだな」
俺は迷わず立ち上がった。
この世には、生命の危険より耐え難い臭いがある。
それに、今日のノルマはまだ四回残っている。
ボスを倒せば、一回分は消化できる。
戦いたくはない。
怖い。帰りたい。
だが、臭い。圧倒的に。
俺は鼻と口を制服の袖で押さえながら、嫌々ボス部屋へ向かった。
◇◆◇
「……あれ?」
巨大な扉の前まで来たところで、俺は足を止めた。
扉が、少しだけ開いている。
人が一人通れるかどうかという程度の隙間だ。
本来、ボス部屋の扉は、挑戦者が手を触れるまで固く閉ざされているはずだった。
すでに誰かが入っているのだろうか。
だとすれば、俺が戦う必要はないかもしれない。
先客がボスを倒した後、転移魔法陣だけ使わせてもらえばいい。
何なら、物陰から応援だけして帰りたい。
「失礼しまーす……」
返事がないことを祈りながら、小声で呟く。
俺は扉の隙間へ顔を寄せ、そっと中を覗き込んだ。
ボス部屋の中では、すでに戦闘が始まっていた。
広大な石造りの空間。
何本もの石柱が並び、床には巨大な円形の紋様が刻まれている。
その中央に立っているのは、骸骨の騎士だった。
ただし、俺が事前に動画で見た板橋区第一ダンジョンのボス、スケルトン・ナイトとは明らかに違う。
通常のスケルトン・ナイトが身につけているのは、錆びた鉄製の鎧だ。
武器も、刃こぼれした長剣と小さな丸盾。
しかし、目の前の骸骨は違った。
全身を包む、黒光りする重厚な鎧。
肩当てには獣の頭蓋骨を模した装飾。
片手には、身の丈ほどもある漆黒の長剣。
もう片方の手には、巨大な盾を構えている。
頭には角のような装飾が施された兜。
眼窩の奥では、紫色の光が不気味に揺らめいていた。
騎士というより、将軍。
どう見ても、普通のダンジョンボスではない。
(また変異種……?)
俺は心の底から嫌そうな顔をした。
なぜ俺が来るダンジョンには、毎回変異種がいるのだろう。
今のところ、確率2/2だ。
動物園へ行けば突然変異のゴリラに襲われ、水族館へ行けば巨大化したサメに食われる人生なのだろうか。
しかし、骸骨将軍以上におかしなものが、部屋の中には存在していた。
戦っている相手だ。
骸骨将軍へ向かって、灰色の小さな影が飛びかかる。
「シャアァァァァァッ!!」
猫だった。
灰色と黒の縞模様。
丸い顔。少し短い脚。
どう見ても、アメリカンショートヘアーである。
ペットショップのガラスケースに入っていても、何の違和感もない小柄な猫が、変異種らしきダンジョンボスと死闘を繰り広げていた。
「……なにこれ?」
俺は目を瞬いた。
「猫が骸骨と喧嘩してるんだけど……」
意味が分からない。
だが、猫は本気だった。
石柱を蹴り、壁を走り、目にも留まらぬ速度で骸骨将軍の周囲を跳び回る。
鋭い爪が黒い鎧を引っかいた。
ガギィンッ!
金属音と共に、火花が散る。
「シャーッ!」
猫は床へ着地すると、口を大きく開いた。
直後。
口元へ青白い光が集まり、細い雷の矢となって放たれる。
バチィィィンッ!
雷撃が骸骨将軍の盾へ直撃した。
激しい閃光が部屋を照らす。
しかし、骸骨将軍は微動だにしない。
巨大な盾で雷撃を受け止めると、猫へ向かって長剣を振り下ろした。
猫は素早く横へ跳び、剣をかわす。
床が砕け、石片が飛び散った。
(何あれ……猫、つっよ……)
俺は扉の陰から、呆然と戦いを眺めた。
(猫又……?)
少なくとも、普通の飼い猫ではない。
普通の猫は雷を吐かないし、壁も走らない。
猫は再び骸骨将軍の懐へ飛び込んだ。
低い姿勢から跳躍し、兜の隙間へ爪を突き立てようとする。
だが──
骸骨将軍が盾を横薙ぎに振るった。
バシィィンッ!
「ギニャンッ!?」
猫の身体が、ボールのように吹き飛んだ。
床を何度も転がり、石柱の根元へ激突する。
「…………」
俺は思わず、扉から身を乗り出していた。
猫はふらつきながら立ち上がろうとする。
しかし、前脚に力が入らないのか、その場で崩れ落ちた。
骸骨将軍が、猫へ向かってゆっくり歩き出す。
漆黒の長剣を引きずり、床へ耳障りな音を響かせながら。
(状況は、完全に意味不明だけど……)
猫が変異種のボスと喧嘩している理由など、何一つ分からない。
もしかしたら、あの猫も魔物なのかもしれない。
倒したら、結構な経験値が手に入る危険な存在なのかもしれない。
それでも──
(俺、割と動物好きなんだよな……)
子供の頃、近所にいた野良猫へこっそり餌をあげていた。
犬も好きだ。
ハムスターも好きだ。
爬虫類も、触れはしないが見る分には嫌いではない。
目の前で小さな猫が剣を向けられているのを、黙って見ていることはできなかった。
「はぁ……」
どうして俺は、毎回こうなるのだろう。
俺は床に落ちていた小石を二、三個拾うと、ボス部屋の扉を押し開けた。




