第16話 板橋区第一ダンジョン
自宅のボロアパート前を通過し、さらに自転車を走らせる。
板橋第一ダンジョンは、住宅街から少し離れた場所に存在している。
二十年前。
大規模な都立公園の地下へ突然出現した、地下墓地型のダンジョン。
練馬区のダンジョンほど攻略難易度は高くない。
交通の便も悪くない。
にもかかわらず、探索者からの人気は低かった。
理由は単純だ。
「見えてきた……」
遠くに、板橋区第一ダンジョンの管理施設が見える。
その瞬間──
風に乗って、独特の臭いが漂ってきた。
「うっ……」
俺は思わず鼻を摘まんだ。
まだ入口へ着いてすらいない。
それなのに、すでに腐ったゴミのような臭いがする。
板橋第一ダンジョンに生息する魔物の多くは、アンデッド系だ。
ゾンビ。スケルトン。グール。
低階層から、死体や腐肉を連想させる魔物ばかりが出現する。
内部は薄暗い地下墓地。
壁も床も灰色。
映像映えしない。
出現する魔物も汚い。
おまけに臭い。
そのため、華やかな配信を好む動画配信系探索者からは、徹底的に避けられていた。
『視聴者が食事中に見られないダンジョン』
『臭いが配信に乗らないことだけが唯一の救い』
『サムネイルに使える場面が一つもない』
などと酷評されている。
俺も、できれば入りたくない。
「でも、背に腹は代えられないよな……」
残り回数は、五回。
今日中に使い切らなければ、死ぬ。
臭いと死。
さすがに比較するまでもない。
俺は駐輪場へ自転車を停めると、覚悟を決めて管理施設へ入った。
◇◆◇
探索者証を読み取り機へかざし、入場ゲートを通過する。
昨日登録したばかりのため、俺の探索者ランクは一番下のE。
探索可能なのは、初心者向けに開放されている一階から三階までだ。
受付を抜け、ダンジョンへ続く階段を下りた瞬間。
「いや、くっさ……」
昨日の練馬区第三ダンジョンとは、空気がまるで違った。
湿っている。
冷たい。
そして、臭い。
濡れた土。
古い雑巾。
掃除していない排水口。
それらを混ぜ、数週間ほど密閉したような空気が、通路全体に充満している。
壁には等間隔で青白いランプが設置されているが、薄暗さを完全には払拭できていない。
左右には石棺や、何に使うのか分からない窪みが並ぶ。
「ほんと、帰りたい……」
まだ魔物を一体も見ていないのに、心が折れそうだった。
それでも一階には、何人か探索者の姿がある。
初心者らしい若い男女が、三人から五人程度のパーティーを組んでいた。
人気がないとはいえ、完全に無人というわけではないらしい。
「あれ、あの人……」
「格好よくない?」
「新人かな?」
「一人で来てるよ」
少数ながら、女性探索者たちが、こちらを見ながら何か話している。
俺は反射的に顔を伏せた。
(まずい。やっぱり制服が小さすぎるせいで目立ってるんだ……)
学校帰りなので、俺は制服姿のままだ。
十センチも身長が伸びたせいで、ズボンの裾は短い。
学ランの肩も窮屈。
どう見ても、成長期に制服の買い替えをキャンセルした貧乏学生である。
いや、実際に金はないけど……
何にせよ、人に見られながら【一撃必死】を使うわけにはいかない。
俺は女性探索者たちと目を合わせないようにしながら、奥へ進んだ。
「なるべく、人がいない場所へ行こう……」
一階。二階。そして三階。
前回、練馬区第三ダンジョンで転移罠を踏んだのも三階だった。
正直、嫌な記憶しかない。
しかし、板橋第一ダンジョンは全体的に探索者が少ない。
三階まで下りると、人の気配はほとんどなくなった。
周囲の音を確認する。
遠くから、何かを引きずるような音。
魔物の呻き声。
それ以外に、話し声は聞こえない。
「よし……ここなら大丈夫そうだ」
俺は通路の角へ身を隠し、床に落ちていた小石を拾った。
スキルの残り回数は五回。
弱い魔物を一体ずつ倒せばいい。
昨日のように、調子に乗って複数の魔物を巻き込む必要はない。
なるべく小さな相手を狙う。
それなら、爆発も小さく済むはずだ。
そう考えていると。
「ヴァァァ……」
通路の向こうから、一体の魔物が姿を現した。
人間に近い形。
ただし、全身の皮膚は青黒く変色し、所々が崩れている。
汚れた作業服のようなものを着ているが、片袖は千切れていた。
動きは遅い。
足を引きずりながら、こちらへ近づいてくる。
「ゾンビ……だよな」
見た目はかなり怖い。
しかし、板橋第一ダンジョン三階に出現するゾンビは、Eランク魔物。
レベル一の新人でも、武器さえあれば倒せる相手だ。
今の俺はレベル五十三。
本来なら、恐れる必要などない。
もっとも、俺自身にはまったく強くなった実感がないのだが。
「とりあえず、一発目……」
俺は小石を指先で摘まんだ。
狙うのは、ゾンビの胸元。
この距離なら外さない。
「【一撃必死】!」
小石が、赤く輝く。
俺は軽く腕を振った。
ヒュンッ!
想像以上の速度で、小石が飛んだ。
一瞬でゾンビの胸へ命中する。
直後。
──カッ!!
ボガァァァァンッ!!
ゾンビが爆発四散した。
低ランクの魔物だからか、爆発そのものは昨日ほど大きくない。
それでも、狭い地下通路では十分すぎる轟音だった。
赤黒い煙が広がり、細かな破片が壁へ飛び散る。
俺は腕で顔を庇った。
「よし、一回……」
無事に倒した。
これで残り四回。
そう安心した、次の瞬間。
ブワッ。
爆風が、俺の顔面を撫でた。
何か、生温かい空気と共に。
強烈な臭いが、鼻の奥へ飛び込んでくる。
「…………」
脳が、一瞬だけ理解を拒んだ。
腐った肉。生ゴミ。汚泥。
夏場に何日も放置された排水口。
それらすべてを煮詰め、濃縮し、直接鼻へ流し込まれたような臭いだった。
「臭ッッッさぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
俺は鼻と口を押さえ、その場から飛び退いた。
目にまで染みる。
涙が勝手に溢れてくる。
「なにこれ! 臭い! 臭すぎる! 爆発させたら駄目なやつだ、これ!」
当然だった。
腐敗した魔物を爆発させれば。
腐敗したものが、爆風に乗って周囲へ撒き散らされる。
少し考えれば分かることだ。
昨日は、ゴブリンやコボルトやミノタウロスのような新鮮な魔物しか爆破していなかった。
だから気づかなかった。
「うっ……ヴォエッ!! む、無理……ヴォエッッ!!」
胃の中のものが込み上げる。
俺は吐き気を堪えながら、臭いの薄い場所を求めて走り出した。
(もう嫌だ……! 早く帰りたい……!)
しかし、残り回数は四回。
まだ一発しか消化していない。
あと四体。
ゾンビを、あと四体も爆破しなければならない。
「無理……! 絶対無理……!」
今日はもう別の魔物を探そう。
スケルトンなら、まだ臭いは少ないはずだ。
骨が飛び散るだけなら、腐肉よりはまし。
そう考えながら通路を曲がると、横壁に小さな部屋の入口が見えた。
扉はない。
中には魔物の姿もない。
「あそこ……!」
俺は迷わず小部屋へ飛び込んだ。
ひとまず臭いから逃れたい。
壁際まで移動し、鼻を押さえたまま深呼吸しようとする。
当然、鼻を押さえているので深呼吸はできなかった。
「はぁ……はぁ……。何で毎日こんな目に……」
一日五回、使わなければ死ぬ。
使っても酷い目に遭う。
一見すると強いスキルのはずなのに、まったく人生が楽にならない。
むしろ昨日より、確実に不幸になっている。
「とにかく、少し休んでから……」
その時。
キィィィィン……。
聞き覚えのある、甲高い音が響いた。
「……え?」
俺はゆっくりと視線を下げた。
足元──石造りの床に、青白い光が走っている。
複雑な線。円形の紋様。
床一面に広がっていく魔法陣。
「…………」
知っている。
この模様を、俺は知っている。
昨日、練馬区第三ダンジョンの三階で──
俺を地下三十階まで送り届けた、あの魔法陣。
「いやいやいや……」
俺は慌てて小部屋の外へ出ようとした。
しかし、足が動かない。
身体が光に包まれる。
空間が歪み始める。
「ちょっと待って! 嘘だろ!? 昨日踏んだから!! 俺これ、昨日もう踏んだから!!」
だから何だって話だ。
ダンジョンがこっちの都合なんか考慮してくれるはずがない。
だが、叫ばずにはいられなかった。
昨日と今日。別のダンジョン。
同じ三階。たまたま入った小部屋。
それなのに。
「何で二日連続で踏むんだよぉぉぉぉぉぉっ!?」
俺の叫び声を残し、青白い光が部屋中を埋め尽くした。
こうして俺は──
二日連続、二回目の、転移罠による深層送りとなった。




