【過去】ぎこちない笑顔(七海視点)
『DM:七海→誠』
誠さん。
ほんの少しだけ、昔の話をしてもいいですか。
最近、入学したばかりの頃の写真を見返したんです。あの頃のわたし、本当に“頑張って作った自分”ばかりで。動画で学んだメイクや服をまとって、無理して「大人っぽい七海」を演じていました。
でも──寝坊して何も整えられなかった日、メガネ姿で恥ずかしさしかなかった朝に、誠さんが言ってくれたひと言がありました。
「……似合ってるよ。今日の感じも」
あれが、いまだに胸の奥に残っています。“今日の感じも”。“も”がついた瞬間、作り物じゃない自分までも否定されてない気がして、少しだけ呼吸がしやすくなりました。
それからASMRのレポートを真剣に読んでくれたこと。図書館で、静かに隣に座ってくれたこと。人混みでそっと手を繋いでくれたこと。
どれも大げさな出来事じゃないのに、当時のわたしには、ひとつずつが救いでした。
──誠さんは、いつも何気ない様子で「無理しているわたし」と「本当のわたし」の両方をそっと受け止めてくれていましたよね。その自然さが、わたしにはたまらなく嬉しかったんです。
だから今も、時々思うんです。あの時のあの一言がなかったら、今みたいに誠さんと話せていたのかな、って。……ほんとうは、ちゃんと伝えておきたかったんです。
ありがとう。あの日のわたしを、見てくれて。
* * *
──『過去』七海、ぎこちない笑顔(七海視点)
入学式の写真を、スマホでこっそり見返す。ぎこちない笑顔。ぎこちない服。ぎこちない立ち姿。あの頃は、まだ何も分かってなかった。自分をどう見せればいいのか、どんなふうに立って、どんなふうに笑えばいいのか。春休みに入ってから、わたしは――必死に勉強した。高校までの自分を脱ぎ捨てるために。
「大学垢抜け」
「地味大学デビュー」
「おしゃれ量産型」
そんなキーワードで動画を漁って、ファッション系YouTuberのHowToを真剣にメモした。スキンケアも、眉毛の整え方も、リップの塗り方も。服は、グレージュのワンピース。髪は、巻かずにストレートのまま。ピンク系は避けて、メイクはブラウンとベージュで揃えた。そういう「雰囲気」で勝負する、って決めたから。初めての登校日は、正直、怖かった。でも、それでも。
「七海ちゃんって、なんか綺麗なお姉さんって感じだよね」
「モデルみたいって、うちのサークルで噂になってたよ」
そう言われて、わたしは――笑った。でも、ちゃんと、笑えてたのかはわからない。本当の自分は、動画を見ながら、メイク道具に振り回されて。
「清楚っぽく見えるスカート」とか、「骨格ストレート向けのトップス」とか、そういうのをひたすら探してただけなのに。いつのまにか、「かっこいい七海さん」っていう仮面ができていて。わたしは、それにしがみついてる。……こんなの、嘘だ。でも、ほんとの“わたし”なんて、誰も知らない。アニメが好きで、ラブコメで泣いちゃって、白いワンピースに憧れてた、地味で人見知りな女の子のことなんて。もう、置いてきたはずだったのに。──ほんとは、誰かに気づいてほしいのかもしれない。いまのわたしも、昔のわたしも、どっちも全部、って。でもそれを言葉にするには、まだ怖い。
* * *
しまった、寝坊した――。慌ててベッドを飛び出して、下地だけなんとか塗って、髪はオイルだけ通して束ねた。服もコーデを考える時間がなくて、クローゼットの手前にあったワイドパンツと白シャツの無難コーデ。おまけに、うっかりコンタクトも入れ忘れて、昔使ってた黒縁のメガネを久しぶりにかけた。
「大学デビュー」として、それなりに頑張ってきたつもりだった。下まぶたにラメを入れると透明感が出るってYouTubeで覚えて、毎朝ちゃんとメイクして、服も雑誌やSNSを見て、色の合わせ方とか研究して。“クール系”って自分で思い込んで、白と黒でまとめたコーディネートを多くしてきた。でも今日は、そのぜんぶが崩れた朝だった。教室のガラスに映った自分は、なんだか高校生みたいで。眉もぼやけてるし、目元もはっきりしない。
「この感じ、昔のわたしだ」って思った瞬間、背筋がすっと冷えた。――ああ、せっかく頑張ってここまで来たのに。そんな気持ちで教室に入った瞬間だった。
「……メガネ、似合ってるね」
声をかけられて、驚いて立ち止まる。前の席の男の子。……名前は、誠さん、だったはず。わたしは何も言えずにいるのに、誠さんは自然に笑ってこう続けた。
「うん、なんか新鮮。……いつもはかっこいいけど、今日の感じも、すごく似合ってる」
“今日の感じも”。その一言が、じわっと胸に染みてくる。たしかに今日のわたしは、いつものわたしじゃない。でも、それを否定しないで、ふわっと受け止めてもらえた気がして。わたしは、少しだけうつむいて、小さく会釈した。ほんの少しだけ、背中に貼りついていた「仮初めの自分」っていう鎧が、あたたかく溶けた気がした。
* * *
「……ASMRによって、“耳から抱きしめられる”って、どういう感覚なんだろうね」
プリントを閉じるとき、不意に誠さんがそう言った。ふり返ると、わたしのレポートを手にしていた。ゼミ課題の発表後、配布用に印刷していた数枚のうちの一枚だった。
「あなたも、興味あったんですか?ASMR」
「正直に言うと……最近まで“寝落ち用の囁き”くらいにしか思ってなかった。でもこれ読んで、“支配される快感”って、言葉が刺さった。ただ癒やされるだけじゃない、なんか……もっと深い意味があるんだなって」
その声に、からかわれているような気配はなかった。むしろ、真剣に言葉を拾ってくれているような、静かな熱があった。
「……あまり、口にしないほうがいいと思ってたんです。こういうレポートって、“変な趣味”に思われるから」
「でも逆に、俺はすごく納得した。たとえば、“耳のすぐそばで囁かれる”とき、音だけじゃなくて“存在”を感じるんだよな。それって確かに、音を超えた感覚で……そう、触れられてるみたいな」
誠さんの口調は穏やかだった。けれど、その“触れられてる”という言葉に、少しだけ喉が渇いた。わたしはうまく返せず、黙ったままプリントを手に取る。誠さんが何を思ってその言葉を使ったのか、分からなかったから。でも、きっと悪意ではないことだけは、感じられた。
「……ごめん、なんか変なこと言っちゃったかな?」
「……いえ。──ちゃんと、読んでくださって嬉しかったです。“音で触れる”って、わたし……ずっと、変じゃないかなって思ってたから」
そう言うと、誠さんは笑って、ひと言。
「変じゃないよ。七海さんの言葉って、“響く”から」
一瞬だけ、胸の奥が、ふっと熱くなった。それがどういう感情かは、まだ自分でも分からなかったけれど──ただ、ひとつだけ思ったのは。この人にだったら、“もう少しだけ”自分を見せてもいいかもしれない。メイクで塗り固めたわたしでも、眼鏡の奥のわたしでも。それらを貫く“声”を、ちゃんと聞こうとしてくれる気がしたから。
* * *
図書館の午後は、光と影の輪郭がくっきりしていて好きだ。とくに、窓際の長机に座ったときの“自分だけの空気”が落ち着く。……はずだったのに。
「ここ、空いてる?」
その声が頭上から降ってきた瞬間、心臓がワンテンポ跳ねた。顔を上げると、誠さんがプリントとノートを抱えて立っていた。
「……どうぞ」
わたしの隣。もうひとつの椅子を引いて、誠さんは静かに座った。大きな音を立てることもなく、スマートフォンも机に出さない。図書館に慣れている人の動作。──なのに、やけに気になる。いつもなら集中できるASMR論文も、今日はなぜか活字が上滑りする。誠さんのページをめくる音や、ノートに書くペンの音、たまに小さく咳払いをする気配。そのひとつひとつが、耳の内側に落ちてきて、音響的な距離以上に“近さ”を感じてしまう。
「……それ、ASMRの文献?」
不意に声をかけられて、背筋がぴんと伸びた。
「え、ええ……Emopulseとの連携例が載っていたので……」
「へぇ、面白そう。後でちょっとだけ、見せてもらってもいい?」
「……はい。もちろん」
誠さんの指がそっと資料の端に触れたとき、わたしの指先とほんの少しだけ重なった。触れた、というより──ふれそうになって、どちらからともなく引いた。それだけのことなのに、息を詰めるみたいな感覚が走った。気まずくなったわけじゃない。でも、なんだろう。ページをめくるたび、わたしの“耳”が、誠さんの存在を意識している。言葉じゃなく、音でもなく、何かもっと曖昧な“気配”として。
「……耳で触れる、って感覚。あれ、俺ちょっとわかってきたかも」
ぽつりと、誠さんがつぶやく。隣の距離で、わたしにだけ届くような声で。わたしは返事をせず、視線だけを下げていた。視界の端で、誠さんのペン先が止まっているのが見えた。──この距離感、苦しくはない。むしろ少しだけ、心地いいと思ってしまったのが、自分でも不思議だった。
* * *
学園祭の午後、人が多くて、どこを見てもざわざわと色と音が揺れていた。わたしは、そのざわめきに飲まれないように、少しずつ歩幅を狭めていた。誰かと話すわけでもなく、ただ大学の敷地を巡っていただけ。誠さんと、ふたりで。
「……大丈夫?」
振り返った誠さんが、ふいに手を伸ばしてきた。思わず立ち止まってしまったわたしの手を、誠さんの指がそっと絡めてくる。一瞬、呼吸が止まりそうになった。
「人、多いから。はぐれたら面倒でしょ」
さらりと、そんな言葉で。でもその握り方は、どこか優しかった。わたしは、ほんの少しだけためらって、それから自分の指を誠さんの手に重ねた。ぎこちなく、でも確かに、握り返した。手を繋ぐなんて、いつぶりだろう。制服の頃、クラスで仲がよかった子と並んで帰った時ですら、こんな風に手を繋いだことなんてなかったのに。それなのに、なんだか自然で。でも、恥ずかしくて。隣を歩く誠さんは、別に何も言わない。わたしも、何も言わない。でも、祭の喧騒のなかで、その静かな“つながり”だけが浮かび上がっていた。手の温度が、じんわりと伝わってくる。その温もりを、指先が覚えていく。ずっとこのまま、なんて言えるわけがないのに。それでも、もう少しだけ……と思ってしまうのは、ずるいことだろうか。やがて、講堂前の広場を抜けたところで、誠さんがそっと手を離した。
「……ごめん、つい」
と笑って。わたしは、首を横に振るだけだった。なぜだろう。手が離れたあとも、ずっと、その感触が残っている。ひとりになって歩いているのに、まるでまだ、つながっているみたいだった。──嬉しかった、のかもしれない。でも、それがなんの感情なのかまでは、まだ自分でもわからなかった。
* * *
電車のシートに、ふたり並んで座っていた。お酒も入っていたし、打ち上げの余韻で頭がふわふわしていて。わたしは、そっと目を閉じた。……ほんとうは、眠ってなんかいなかった。でも。こうして肩が触れるだけで、胸の奥が、少しだけ甘く、苦しくなる。
(気づいてくれるかな……)
そう思いながら、呼吸だけを静かに整える。この時間がずっと続けばいいのに、なんて──わたしらしくないけど、思ってしまった。
「……七海、起きて。降りるよ」
名前を呼ばれて、肩を揺らされたとき、その手の温度に、わたしの鼓動は跳ねた。
「……ごめんなさい、寝ちゃってました」
ちがう。寝てなんかいなかった。でも──言えなかった。
* * *
次の日。わたしは、前よりほんの少しだけ早く駅に着いて、ホームの端で誠さんを待っていた。
(……今日こそは)
ちゃんと話そう。気づいてもらうためじゃなくて、わたしが、言いたいから。ホームに入ってきた電車。いつもと同じ扉が開いて、いつもと同じように、誠さんが乗ってくる。目が合った瞬間、ちょっとだけ、照れてしまって。でも、視線をそらさずに、わたしは言った。
「……こっち、座りませんか?」
誠さんが驚いたように目を見開いて、でもすぐに、優しく笑ってくれた。
「じゃあ、ありがたく」
座ってすぐ、ふたりの肩がまた自然に触れる。だけど今日は──ちゃんと、起きていた。
(ほんとは、昨日……寝てなかったんです)
言いかけて、飲み込んで、それよりも大事なことを、ぽつりと口にした。
「なんか、今日ずっと、話したかったんです。……誠さんと」
「ん、どうして?」
「……とくに理由があるわけじゃないけど。昨日のことが、ずっと残ってて」
「昨日?」
誠さんは首を傾げる。それが、なんだかくすぐったくて、愛しくて。
「……ん。なんでもない、です」
わたしは笑った。そして、すこしだけ距離を縮めた。沈黙が、あたたかい。
(……この人と話したいって、思った。わたし、ほんとうに、誠さんのこと……)
──言葉にはまだならない。でもその夜、電車を降りるころには、わたしの手の中に、確かなぬくもりが残っていた。




