七海、池袋デート。あなたの推しは。
【DM:七海→誠】
誠さん、こんばんは。
明日の予定……もし、まだ空いていらっしゃるようでしたら、ひとつ、お願いがあってご連絡しました。
えっと……その……誠さんと一日ゆっくりお出かけできたら嬉しいなと思っていて。
大げさなプランではなくても、街を歩いたり、ごはんを食べたり、どこか静かな場所でお話したり……そういう、普通の時間でも、わたしには特別なんです。
行ってみたい場所があるんです。あの……池袋の水族館なんですけれど……ふたりで行けたら綺麗だろうなって、前から少し思っていて。誠さんがいてくださると、きっともっと素敵に見える気がして。
それに……明日は、すこしだけ頑張って選んだ服を着ていこうと思っています。あまり期待されると照れてしまいますが……誠さんに見てもらえるなら、嬉しいです。
もしご都合よろしければ、連絡頂けると幸いです。
七海より。
***
池袋駅東口。人波が複雑に流れるなか、誠は柱にもたれてスマホを見ていた。時計の表示は、待ち合わせの三分前。けれど、もう少し前から彼はここに立っていた。改札の向こう、群れのように歩く人たちの間から、ひときわ目を引く姿が現れる。七海だった。長い脚。すらりとしたシルエット。けれどどこか柔らかい輪郭。ロングジャケットの下には、ハイウエストの白いパンツ。足元はヒールのあるサンダル。モデルのように洗練されているのに、冷たくは見えなかった。いつも以上に大人びた服装に、思わず息をのむ。彼女もこちらに気づいたのか、一瞬だけ足を止める。そのまま少しだけ視線を逸らして、また歩き出す――ちょっとだけ照れたように。誠の胸に、ふっと温かいものが灯った。
「……七海」
彼女が前に立った瞬間、誠は名前を呼んだ。そして、笑った。
「すごく……綺麗だよ」
七海はほんの少しだけ唇をかたく結んで、視線を外した。頬に赤みが差していく。
「……嬉しいです。ふだんのわたしと、違って見えました?」
「ううん。ふだんだって七海はかっこいいから。でも……今日はいつも以上に七海らしくて、素敵だよ」
そう答えると、七海は一拍おいて、目を細めた。
「なら、頑張ったかいがありました」
その言葉のあと、二人は自然と並んで歩き出した。これから始まる一日の予感に、胸の奥が、静かに弾んでいた。
***
サンシャインシティのエレベーターで上階へと昇るあいだ、誠はふと、七海の横顔を見た。先ほどの駅前とは打って変わって、彼女の表情にはどこか柔らかいものが浮かんでいる。大きな窓から差し込む昼の光が、七海の髪に透けていた。
「水族館、ひさしぶりです」
「一緒に来るのは、はじめてだよね」
「そうですね……ふふ、なんだか新鮮です」
静かなやりとり。けれど、それだけで気持ちがすこし近づく気がする。屋上のエントランスに出ると、空が広がっていた。夏の陽射しを遮るように、アーケードの影が道をつくっている。水の音、子どもたちの声、イルカの泳ぐ水槽の光――非日常が、すぐそこにあった。
「……こっち、行きましょうか」
自然な仕草で、七海の手がこちらに差し出された。そのまま、誠は指を絡める。初めてではないはずなのに、掌の温度が少しだけ高く感じられた。恋人繋ぎ。つないだ指のあいだから、鼓動が伝わってくるようだった。
「……ちょっと緊張してる?」
「えっ。……してる、かも」
七海は誠の方を見ず、前を向いたまま微笑んだ。けれど、その笑顔の端に照れが混じっているのを、誠は見逃さなかった。
「さっきの服も、この手繋ぐのも……誠さんのために、ちょっとだけ頑張ったんです」
そんなことを、さらりと言えるようになっていた。大人っぽい外見とは裏腹に、恋をしているひとりの女性の、繊細で真っ直ぐなところ。誠の手が、ほんの少し強く、七海の手を握る。水槽の前に並んで立つふたり。青い光の中、魚たちの群れがゆっくりと揺れる。その光が、まるでふたりのシルエットを包んでいるかのようだった。
***
水族館を出たあとも、ふたりの手はつないだままだった。歩きながら、七海がふと立ち止まる。
「……あの、もしよかったら、少しだけ寄ってもいいですか?」
誠が頷くと、七海は少しだけ目を逸らしてから、指さした。
「大型のアニメグッズショップが、この先にあって……わたし、すこしだけ寄りたいんです」
少し照れくさそうなその声が、誠には新鮮だった。七海の普段のクールな雰囲気からは想像できない一面が、指さした向こうにある気がした。
店内に入ると、カラフルなグッズの棚がいくつも並んでいた。アイドル系アニメのキャラクターたちが、等身大パネルや缶バッジ、アクリルスタンドになっている。その中央、いちばん目立つ棚の前で――七海がぴたりと足を止めた。
「……あ」
思わず漏れた声。その先には、濃紺の衣装をまとった長髪キャラのアクスタが並んでいる。歌って踊る、王子様系アイドルのシリーズ。煌びやかなビジュアルに、七海の目がきらきらと吸い寄せられていった。
「この新衣装、アニメで初披露だったんです。しかもこの子……わたしの推しで……」
声のトーンが、すこしだけ上がる。まるで中学生の女の子みたいに、頬を赤らめて、グッズに夢中になっていた。
「これも出てたんですね……うわ、缶バッジ、ランダムじゃない……」
そう呟いて、七海はガチャコーナーの前でしゃがみこむ。トートバッグを肩にかけたまま、財布を取り出す姿も、なんだか必死で――誠は思わず笑ってしまいそうになった。
「……見ないでください、ほんとに」
「いや、可愛いなって思ってる」
七海の耳まで赤くなる。缶バッジを握りしめて立ち上がった彼女が、そっと誠の袖を引いた。
「……でも、変じゃなかったですか?こういうの、好きなの……」
「全然。むしろ、もっと見せてほしいかも」
その言葉に、七海は少し目を伏せて笑った。
「じゃあ……今度、ライブBlu-ray、観てください。誠さんにも、きっと刺さると思うので」
このひとが、“わたし”の全部を見せても平気な相手だと思った――そんな気配が、横顔に浮かんでいた。
***
グッズショップを出たあと、ふたりは同じフロアにあるカフェに入った。小さなテーブルに向かい合って座ると、七海は早速紙袋からいそいそと戦利品を取り出した。
「見てください、アクスタ……この表情、すごくレアなんです。初期衣装と同じ角度で……」
テーブルの上に並べられていくキラキラしたキャラクターたち。一体ずつ手に取って、説明してくれるその姿は――さっきまでの落ち着いた七海とは別人のようだった。
「しかもこの缶バッジ、ランダムなのに推しが来てくれて……奇跡、ですね」
ほんのり頬を染めたまま、七海が笑った。誠は、ただそれを見ていた。目を輝かせて、ひとつひとつのグッズを愛おしそうに並べていく彼女。その熱量と、そこに込められた想いが――なんだか、胸を打った。
「……ずっと好きなんだ」
「はい。ずっと好きで……今でも、毎週の配信を楽しみにしてるくらいで」
言いながら、ちょっと恥ずかしそうに指先でコースターの縁をなぞる。
「誠さんは、推しって……いないんですか?」
そう聞かれて、少し考えた。
「うーん。強いて言えば、七海かな」
それは半分冗談だった。でも、もう半分は本気だった。七海は一瞬、ぽかんとした顔で誠を見つめ――そのあと、耳まで真っ赤になってうつむいた。
「……そういうことを、いきなり言うのは、ずるいです」
声が、ほんの少し震えていた。
「推しに、そんなこと言うんですか……?」
その言葉に、少しだけ拗ねたような、独占欲の混ざった響きを感じて、誠は苦笑しながらカップを口に運んだ。
「ごめん。でも、本気だよ。グッズとかは持ってないけど……」
「……わたしは、持ってます」
そう呟いて、七海はそっとスマホを取り出した。画面には、二人で撮った写真――前に一緒に出かけたときの、プリクラ風の一枚。
「わたしの“推し”は、ここにいますから」
ほんの一瞬だけ、見せてくれたその笑顔が、カフェの柔らかな灯りの中で、宝石みたいにきらめいていた。
***
「……ちょっと、見せたいものがあるんです」
七海の声がわずかに震えているのがわかった。スマホを操作して、テキストを表示する。高校のとき、放課後の部屋でこっそり書いていたファンタジー小説のデータ。装飾やタグまで全力で、いま見ると少し笑ってしまうほど真剣だった自分の跡。
「……やっぱりやめます」
そう言いかけて、でも呼吸を整えて首を振る。
「ううん、やっぱ見てください」
誠は静かに笑って、頷いた。画面が開かれ、彼の視線が文章をなぞる。ページを送る指先が、ゆっくりで、丁寧だった。
「まっすぐで、いいと思う」
たった一言。それなのに胸の奥がふわっと甘くなって、熱が広がった。
「ほんとうですか……?ちょっと、恥ずかしくないでしょうか?」
「恥ずかしくないよ。書きたいことがあって、創作するってかっこいいと思う。俺には出来ないことだから」
その言葉に背中を押されたのか、七海はそっと、あのころの自分の話をし始めた。
「わたし……大学デビュー組なんです。高校のときは眼鏡で地味で、ずっとひとりでアニメ見て、本読んでばっかりで……。でも、変わりたくて、ちゃんと見られたくて、頑張って練習しました。おしゃれも、SNSも、全部勉強して。でも、あの頃の自分がいたから、いまのわたしがいるんです」
誠は相槌も入れず、ただ黙って聞いていた。やがてそっと、七海の手を取る。
「いまの七海も、昔の七海も、きっと好きになると思うよ」
衒いのない、まっすぐな声だった。七海は涙がこぼれそうで、急いで笑ったけれど、嬉しさが溢れて、結局少しだけ泣いてしまった。
***
ホテルへ行くのは暗黙の約束だった。ふたりは、そこで何度も、何度も愛し合った。当初は二時間だけのつもりだった時間は、延長を繰り返し、気づけば宿泊へと切り替えられていた。そこから先は、もう記憶も曖昧になるほど――主導権が誰にあるかなんて、どうでもよくなっていた。ただ愛し、愛され、揺れ、絡まり、求め合うたびに、ふたりの境界は少しずつ溶けていった。声が、肌が、鼓動が、すべてが重なって、最後にはただ、互いの名を、何度も呼び合うことしかできなかった。その夜、ふたりは“ひとつ”になった。確かにそう感じられる、永遠にも似た一夜だった。
【Emopulseログ|七海|再生モード】
《感覚》
腰を支えられた瞬間から、身体の奥に熱が走った。
壁と天井とシーツが、順番に視界を横切って――何も掴めなくなる。
《心拍》
加速。
逃げても引き寄せられて、また深くまで。
律動に合わせて、心臓が「好き」を連呼していた。
《声》
気づいたら、敬語の殻が砕けていた。
素直な声しか出せなかった。
《感情波形》
最奥を満たされる瞬間に、幸福指数が極端に跳ね上がる。
全身の筋肉が震えて、波がいくつも重なって押し寄せる。
恐怖と歓びが同時に爆発する。
《クライマックス記録》
わたしの中で、槍のような熱が溶けて奔流になった。
全部、受け止めた。
逃げ場はなくて――でも、それが、いちばんのしあわせだった。
***
シーツの上に、ふたりの裸の身体が寄り添っていた。汗も、熱も、吐息も――もうとっくに落ち着いているのに、触れ合った肌だけは、まだ離れようとしない。指先が、指先を絡めとり、視線が、瞳の奥へとそっと吸い込まれてゆく。
「……誠さん」
先に口を開いたのは、七海だった。名前を呼ぶその声に、もう色気や熱はない。ただ、ただ、大好きな人にしか見せない、やわらかなものが宿っていた。誠は、七海のほうに体を向ける。そのまま、額と額を重ねるように、距離を縮めた。
「……なんか、不思議だね」
「はい、なんでしょう?」
「さっきまであんなに激しかったのに、今は、こうして……静かに見てるだけで、なんか、胸がいっぱいになる」
七海は、少し照れたように目を伏せた。けれど、誠がそっと彼女の手を握ると、また視線を戻す。その瞳の中には――微笑みと、愛しさと、どこか涙のようなものも、滲んでいた。
「わたし、誠さんと出会えてよかった……」
「……俺も」
「全部……変わったの。恋って、こんなに自分の全部を変えるものだったんですね……」
「変えたんじゃないよ、七海が……変わっていこうって、決めたんだよ」
「ふふ……誠さんが、きっかけ、だったんです」
頬に触れる指。唇に触れる吐息。それだけで、もう十分だった。静かな室内、ベッドの上。カーテンの隙間から、月の光が差し込んでいた。そしてふたりは――何も言わずに、ただ、ゆっくりと微笑み合った。眠るには、まだ惜しい。けれど、もう何も足さなくても、満ちていた。
***
七海は、誠の胸の音を聞いていた。ゆっくりとした鼓動。自分と同じ熱を宿した音が、体の奥にまで響いてくるようだった。
(……わたし、変われたんだわ。いつからだろう。ずっと自分を押し込めてきた。着飾らなければ愛されないと、どこかで思い込んでいた。でも、誠さんは違った。過去も、いまも。不器用で、人に怯えていた頃のわたしも――ぜんぶ、抱きしめてくれた。その目が、何度もわたしに教えてくれた。“そのままで、いい”って。だから――いまのわたしは、触れられるだけで、強くなれる。大胆に、貪欲に、求めることもできる。だってこの愛には、恥じるものなんて何ひとつないから)
胸の奥が、熱くなる。幸福が、あふれる。この人に出会えたことを、神様に感謝したくなるくらいに。目を上げると、誠が――やさしく微笑んでくれていた。ただ、それだけで、七海は満たされていた。
***
誠が、ゆっくりと身体を寄せた。七海も、何も言わずに目を閉じる。唇と唇が、そっと重なる。深くはない。けれど、これ以上に深いものもなかった。敬意。感謝。慈しみ。そして、どうしようもないほどの――愛。長いキスではなかった。けれど、離れた後にふたりは、自然に、同じタイミングで小さく頷いていた。
(……わかってる)
(……わたしも)
言葉がなくても、そのすべてが伝わっていた。
***
ホテルを出た瞬間、朝の光が少し眩しくて、七海はそっと目を細めた。街は、いつものように人が行き交い、バスの音やパン屋の香ばしい匂いが、穏やかな朝を告げていた。けれど――なにもかもが、少し違って見える。
(……なんだか、映画みたい)
隣には、誠がいた。そして――手を、繋いでいた。ちゃんと、指を絡めた“恋人繋ぎ”。ふと、誰かとすれ違うたびに、胸がくすぐったくなる。知るはずもない。この手の意味を、このぬくもりの理由を――通りすがりの誰も、知らない。それでも、なんとなく、恥ずかしかった。嬉しくて、誇らしくて、でもちょっとだけ照れくさくて。
「……変ですね」
思わず、ぽつりとつぶやくと、誠が横から顔をのぞきこんでくる。
「なにが?」
「ううん、なんでもないです」
笑ってごまかしたけれど、ほんとうは、いろんなことが胸の中で溢れていた。
(わたし、いま――恋人なんだ)
それが、どうしようもなく嬉しくて。この“日常の景色”の中に、自分の一番大切な気持ちが、ちゃんと馴染んでいるのが、くすぐったくて。通りを渡るとき、朝の風が頬を撫でた。髪が少し揺れて、ふと誠の視線を感じた気がして、そっと、下を向く。
(……だめです。見つめられると、また思い出しちゃう……)
あの夜のこと、名前を呼ばれたこと、自分のなかが満たされていったあの感覚。そう思うだけで、まだ身体がほんの少し、熱を帯びてしまう。けれど――誠は、何も言わずに手を握り直してくれた。それだけで十分だった。駅前のロータリーが見えてくる。バスが出発する音、誰かの自転車のベル、朝のざわめき。街の空気は、いつものように透明で、でもどこかやさしい。七海は立ち止まった。サンダルの音が止まる。
「……もう少しだけ、歩いてたいなって思っちゃいました」
ほんのつぶやきのように呟くと、隣で誠が、小さく笑って、うなずいてくれた。その笑顔が、この朝の光よりも、眩しかった。
(……大丈夫)
(この手がある限り、わたしはきっと、変われる)
ふたりの手は、まだ繋がれたまま。周りの世界が少しだけ騒がしくなる中、ふたりだけは、静かに時を歩いていた。いつもの街を、“ふたり”として歩く。たったそれだけのことが――七海には、世界でいちばん大切に思えた。
***
駅の改札を抜けたあとも、誠は当然のように隣を歩いてくれた。ホームへ向かう通路。薄い蛍光灯の光。すれ違うサラリーマンたちの流れ。何気ない朝の構内なのに、手を繋いだまま歩くだけで、胸の奥があたたかくなる。
「……中まで来てくれるんですね」
「うん、せっかくだし」
たったそれだけの言葉が、どうしようもなく嬉しくて、七海は思わず、視線を伏せた。エスカレーターを上り、やがてホームに出る。上り方面の電車は、ちょうど到着の直前だった。黄色いラインの向こうに、風が吹いてくる。ドアが開いて、朝の空気がいっせいに流れ込んだ。
(ああ……もう、行かなきゃ)
そう思うのに、身体は自然に動いてくれない。
「……」
「……気をつけてね」
誠の声が、背中から優しく届く。思わず、七海は振り返った。すぐそこにいる、愛しい人の顔が、はっきり見える距離。
(――いま、帰りたくない)
そのわがままが喉まで出かけたけど、代わりに、小さく笑った。
「……はい。また、すぐ会えますよね?」
「もちろん」
それを聞いて、少しだけ安心して、足を踏み出す。電車の中へ。振り返ると、誠がホームの外側に立っていた。もう手は繋いでいないのに、その距離が、とても近く感じられる。
「……」
手を振った。小さく、でも確かに。誠も、同じように手を振ってくれる。ドアが閉まり、ガラス越しに、視線が重なった。ふいに、胸がきゅっとなる。ホームがゆっくりと流れていく。誠の姿が、少しずつ遠ざかる。視界の端に吸い込まれていく。
(……もう見えない)
それなのに、なぜか、目をそらせなかった。電車が動き出して、しばらくしても、胸の奥に熱が残っていた。手のひら。髪の香り。唇に触れた感触。その全部が、肌の奥に焼きついていた。
(……好き)
改めて、心の中でそうつぶやく。それは、ただの確認じゃなかった。いまこの瞬間――「また会いたい」と願ってしまう自分がいること。たった数分の別れに、どうしようもなく胸が痛くなること。その全部が、“本物”だと、証明してくれていた。七海は、窓の外を見つめながら、そっと目を閉じた。涙は出なかった。でも、心が静かに震えていた。
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ふいに、画面が淡く滲む。あの春の丘。花びらが、声もなく散っていた。四つの影のうち、ひとつだけが選ばれる。残りのふたつがどんな顔をしていたか――フィルムは、まだ映さない。光がほどけ、また現在へ戻っていく。




