みんなで、パジャマトーク
誠は、力尽きるようにベッドへと倒れ込んだ。背中に汗が貼りつき、全身の筋肉が、震えている。でも、幸せだった。
「……っはあ……っ……」
天井がゆっくり回っている。呼吸がまだ整わない。その身体に、柔らかい温もりが三つ、順に寄り添ってきた。
「もぉ〜……まーくん……激しすぎだよぅ……」
瑞希が頬をすり寄せながら、ぐずるように呟く。その声は、文句ではなく、甘やかに蕩けた拗ね方だった。指先が胸の上をなぞり、ほっぺたが汗でぺたっとくっつく。
「好きすぎて壊れちゃう……」
「……バカ兄貴。ほんと、やりすぎ」
飛鳥はぶっきらぼうに言いながら、足を絡ませて横たわり、腕で額の汗を拭っていた。それでも目元は緩み、呼吸は弾みながらも、安堵の笑みを浮かべている。
「……でも、ちゃんと……全部、届いたよ」
「……ふふ……わたし、本当のことだと思えないくらいです……」
七海はそっと誠の胸に顔を埋め、微笑みながら、静かに目を閉じた。
「夢の中みたいです……でも、すべて……本当なんですよね……?」
誠は、声を出さずに頷いた。三人の温もりが重なり、肌と肌の間に、余韻という名の愛がじんわりと満ちていく。身体の奥に残る震えが、それを何よりも確かなものとして伝えていた。
***
三人の唇が、誠の象徴に祈るように触れ、その名残りを、少しずつ──静かに、吸い取っていった。瑞希のキス。飛鳥の舌。七海の深さ。それぞれのやり方で、彼を愛した証を、滴を、優しく迎え、飲み干し、内側に留めていく。誠の喉は、もう声にならなかった。全身の力が抜けて、体が沈む。視界の端で、瑞希の瞳が潤んでいるのが見えた。飛鳥は頬を染めたまま、唇をそっと舐めていた。七海は胸元を押さえ、余韻を堪えるように目を閉じていた。──美しい。それしか、思えなかった。まるで……自分が、何か大切なものの一部に還っていくような。そんな、不思議な感覚。
「……まーくん」
瑞希が呼んだ声が、どこか遠くで響く。
「……まこと」
飛鳥の囁きが、額に触れた。
「誠さん……」
七海の指が、胸元にそっと重なる。彼女たちの声とぬくもりが、溶けゆく意識のなかに、すうっと染み込んでくる。──ああ、もう……だめだ。このまま、呼吸も、思考も、全部、ぜんぶ、三人に溶かされてしまう──けれど、それが心地よくて、幸せで、たまらなく美しい。
***
誠はベッドの中心で仰向けになっていた。その身体を、あたたかな熱が、何層にも包んでいた。香り、ぬくもり、吐息。そして「好き」という言葉が、次々と、重なるように囁かれる。瑞希が、胸元に頬をあずけて微笑んでいた。飛鳥が、頬に唇を寄せながら喉元に指を這わせる。七海が、腹に頬を寄せ、そっと髪を撫でている。誰もが、優しく、丁寧に、でも抗えない熱をこめて、彼を求めていた。息が甘く震え、まぶたが熱に潤み、誠の胸は小さく上下していた。どの手が誰のものか、どの温もりがどの唇か。わからない。ただ、幸福だけがある。瑞希が、耳元に唇を寄せてささやく。
「まーくん……だいすきだよ……もっと、ぎゅーってしたい……」
飛鳥が喉元にキスを落としながら、肩をきゅっと掴んだ。
「お兄ちゃん……もっと甘えていいんだよ……壊れても、わたしたちが支えるから……」
七海は胸元に頬を重ねて、潤んだ声で囁いた。
「誠さん……受け止めてください、ぜんぶ……わたしたち、もう、止まれませんから……」
誰かが唇を重ね、誰かが胸に頬を寄せ、誰かが太腿に手を這わせる。そしてまた入れ替わり、重なり、密着して、頬をすり寄せて。光と影が揺れ、甘く濡れた吐息が、頬に、耳に、唇に、降りてくる。誠はただ目を閉じ、体中で“好き”を受け止めていた。幸福が肌を撫でるたび、心が蕩けてゆく。
「ねえ、まーくん……お願い、もう一回……」
「だめ、次はわたし……」
「……みんなで一緒に、でも……いいんじゃないですか……?」
三人の声が重なり、頬を寄せ合って、彼を真ん中に囲み込む。もはや空も床も境界もなく、誠はただ、永遠にこの中で溶けていた。それが夢だとしても。これが、ほんとうの交歓なのだと、心からそう思った。
***
あたたかい。身体が沈み込むベッドの感触も、頬をくすぐる呼気も、隣にある命の温度も。すべてが、あたたかかった。ただ、胸の上下で波打つ呼吸が、まだ収まらない。腕の中に瑞希がいた。汗ばんだ肌をすり寄せて、ふにゃりとした笑顔でこちらを見上げてくる。飛鳥は彼の太腿に頭を預け、ソファに寝転がりながら、目を閉じていた。眠っているのか、ただ余韻に浸っているのか。でもその頬は、どこか満ち足りて、子どものように安らかだった。七海はベッドの反対側に座り、濡れた髪をまとめ直しながら、静かに息を吐いていた。そしてふと誠と目が合うと、微笑んで――そのまま、そっと指を絡めてきた。部屋は、まだ彼女たちの匂いと声と体温で満ちていた。ふわふわした、幸福の残り香。
「……ねぇ、まーくん」
瑞希が囁いた。
「ほんとに、愛し合えない時間……長かったね」
「あぁ……」
誠は短く答えた。一年。感染症で何もかもが止まって、触れ合うことも、抱きしめることも叶わなかった日々。画面越しの笑顔、ログでしか再生できない感情。あの空白が、いま満たされていく。
「ずっと……触れたかったです」
七海の声が、ベッドの端から届いた。
「でも……触れられないからこそ、大切にできた気がします」
飛鳥が、目を開けた。
「……わたしも、まことに好きって、くっついて直接言いたかったから……」
小さな声だったが、確かに震えていた。誠は、それぞれの手を握った。そして、彼自身の目にも涙が浮かんでいたことに気づいた。愛していた。三人とも。出会えてよかった。再び会えて、愛し合えて本当によかった。
「ありがとう」
その言葉は、心の奥から自然に溢れていた。瑞希が頬を摺り寄せ、飛鳥が頷きながら指を絡め、七海が優しく抱きしめてくる。交歓の夜が終わり、まるで夢のなかにいるような静けさと幸福。誰も言葉を続けず、ただ、お互いの温もりを確かめるように、指先で撫で、抱き合い、頬を寄せて、この一夜の奇跡を抱きしめていた。
***
蓄積していた想いの丈をぶつけ合って、四人の間にはこれまで以上に親密な空気が生まれていた。再びシャワーを浴びてパジャマに着替え、リラックスした状態で集まる。ソファとベッドをくっ付けて、めいめいが好きな場所に腰掛ける。白いリネンの香りが漂う。大きな窓の外には、都会の光がにじんでいた。口火を切ったのは瑞希だった。
「飛鳥ちゃん、よくチャットで泣いてたよね。『まーくんに会いたいよぅ、ふええん』って」
「ば、そんなわけねーし。捏造すんな」
飛鳥がすぐさま反論する。
「ビデオチャットで二人きりの時、泣いてたじゃん。うわわーんって」
「録画とかあんのかよー、証拠出してみろよー」
「どうどう、お二人とも落ち着いてください」
七海が笑いながら両手で制する。
「わたしは、本当に泣いてしまうことあって……その度に瑞希さんに慰めてもらいました」
「そうなの?」
と誠。瑞希は照れくさそうに頭を掻いた。
「うん、なんかね、そういう時は偉そうに言っちゃってた。『明けない夜はないよ』とかさ」
「瑞希、やっぱポエマーじゃん」
飛鳥がくすっと笑う。
「そこは台詞間違ってるから。『瑞希……お前ってやっぱりいいやつなんだな』でしょ」
瑞希がベッドの上でむくれた。弾けるような笑い声。夜景の光がゆらめき、カーテン越しにやわらかく差し込む。飛鳥が息をつきながら小さく呟く。
「……ほんとに、戻ってこれてよかった」
「ね」
瑞希が優しく頷き、七海が
「はい、ほんとに」
と笑った。その声を聞きながら、誠は静かに目を閉じた。心の奥で何かが、ゆっくりと溶けていくようだった。
***
四人のあいだに、やわらかな沈黙が流れていた。身体の落ち着き、ベッドの上には、穏やかな余韻だけが残っている。そんな中、瑞希がふいに口を開いた。
「ねえ、会えない間……まーくん浮気してなかった?」
その声に、誠が肩を跳ねさせる。
「え、してないしてない!そもそも誰にも会えなかったわけだし……」
飛鳥が眉をひそめた。
「会えてたら浮気してたのかよ」
「そういう意味じゃなくて……」
困惑する誠に、七海がやわらかく微笑む。
「飛鳥さん、意地悪ですよ」
「じゃあ、あれじゃない?アイに頼んでえっちなことしてもらったんじゃない?グラビアアイドルとか投影してもらったりさ」
すかさず瑞希が茶化すように言うと、誠は焦って首を振った。
「いやいや、してないよ?だいたいアイはポリシー制約厳しくなって、性的コンテンツの対応はしなくなったから……」
「誠さん、やけに詳しいですね……」
七海の声がほんの少しだけ低くなる。
「ほんとだよー。絶対試したことある人の口ぶりだよー」
瑞希がニヤリと笑うと、誠は手を上げて必死に弁明する。
「ちが、違うよ?この目を見てよ。真実を語る人の瞳でしょ?」
「クレタ人は嘘つきと言いますね」
七海が真顔でぽつりと呟いた。
「ますます怪しいなー。……あれ、急に飛鳥ちゃん静かじゃない?」
瑞希の視線が向けられる。布団にくるまっていた飛鳥が、ふいに声を上げた。
「う、うん?」
その挙動に、七海がふふっと笑って言う。
「飛鳥さんこそ怪しいのかもですね……アイに頼んでいたのでは?」
「そうだそうだ、真犯人かもしれない」
誠も楽しそうに便乗すると、飛鳥が顔を真っ赤にして叫んだ。
「なんでそうなるの!結託して責めないで!」
ベッドの上に、弾けるような笑い声が広がる。誰かがくすくすと笑い出すと、次第に他の三人も釣られるように笑っていった。まるで、あの長い時間を取り戻すかのように。
***
笑い声がひとしきり落ち着いた頃、瑞希が少しだけ上体を起こして言った。
「だいたい、こんな風に全員と付き合ってること自体が浮気もんだからね。浮気するもしないもだね」
その言葉に、誠は神妙な顔で応じる。
「それはまったくその通りで、反論ございませんです……」
すると、飛鳥が横から突っ込む。
「最初に浮気してなかった?って言い出したのは瑞希じゃん」
「スーパー瑞希ちゃんには道理とか通じないから」
「なんでまた勝ち誇るんだよ!」
「それより、飛鳥さんの追求が終わってませんよ」
七海が小さく笑いながら割って入ると、飛鳥が枕をぎゅっと抱きしめて顔を隠す。
「蒸し返さないでいいよ……わたしのターンは終わったよ。誠に戻ろう」
「戻さないで……閉廷でいいよ……」
誠がうめくように呟くと、瑞希がにやにやしながら身体を乗り出してきた。
「まーくん、実際はどうしてたの?」
「実際って?」
「だって一年もみんなに会えなかったんだよ。私たちのこと考えたりした?」
その問いに、誠はしばしの間を置いてから、静かに答えた。
「うん……それはもう。みんなとの写真見返したり、あとエモログ再生して……一人でしてた」
その瞬間、瑞希の頬がぱっと真っ赤に染まる。
「そんな急に素直に打ち明けるのズルいよ……」
飛鳥があきれたように声を上げる。
「あーもう、瑞希が追求するから」
「でも、なんだか嬉しいです。わたしも……同じことしてましたから」
七海の声がやわらかく重なる。
「わたしも。まーくんのとエモログ、何回も再生してたよ」
「みんな同じことするよね……」
誠が照れたように笑うと、瑞希が小さく頷いた。
「ね、さびしん坊だったからさ、仕方ない」
「やっぱり飛鳥さん黙ってません?」
七海がふと気づいたように言うと、飛鳥が枕から顔を出す。
「振らなくていいよー」
「飛鳥ちゃんはどうしてたの?このーこのー」
瑞希がわざとらしくからかいながら、飛鳥をつつく。再び笑い声が弾けた。光も音も、空気さえも、どこかあたたかくゆるんでいた。
***
「やめてーよー!」
飛鳥が枕で顔を隠しながら、笑い声混じりに反撃する。くすぐったいやりとりに包まれる空気の中で、ようやく観念したように口を開いた。
「そりゃエモログ再生ぐらいするでしょ。あの頃はみんなしてたよ。日本中で再生してたはず」
「こいつ、逆ギレして一般論にして逃げるタイプだな」
瑞希が即座に突っ込むと、七海が穏やかな笑みで続ける。
「個別の体験として語って欲しいですね」
「あーもう!してました、擦り切れるぐらい再生したよ。これでいい?」
飛鳥が枕越しに叫ぶと、誠が真顔で身を乗り出してきた。
「より具体的にはどのようなものを?詳しくお聞かせ頂けますか?」
「なんでまことはインタビューア風に喋るんだよ……」
「いいから教えてよー」
瑞希がにやにやしながら促すと、飛鳥はしばし沈黙し──静かに吐き出すように言った。
「……高円寺デートのやつ。すごく、楽しかったから。最初から最後まで」
空気が、ふっと静まる。
「……うん、楽しかったよね。忘れられないよ」
誠がしみじみと答えると、そこに瑞希が笑いながら水を差す。
「やっぱりあのまま、後を付ければ良かったかな」
「ばっかじゃないの!」
飛鳥が慌てて起き上がり、思わず枕を投げる。七海は肩を震わせながら口元を押さえた。
「あの時、止めない方が良かったですかね?」
「止めようよ、七海までそんなこと言ったらおしまいだよ……」
飛鳥が今度はぐいっとタオルケットをかぶる。誠だけが、きょとんとした顔であたりを見回していた。
「え、どういうこと?」
「ふふふ……」
瑞希が、勝ち誇ったような顔で身を起こす。
「あのねー、高円寺デートの時、まーくんと飛鳥ちゃん、ラーメン屋に入ったでしょう?あの時、同じ店にわたしと七海ちゃんいたんだよ」
「うっそ……」
誠は額を押さえて、ベッドの上で崩れ落ちる。
「その後、二人を追いかけようって瑞希さんが言い出すから、わたしが止めたんです」
七海も笑いながら頷いた。
「しょーもなさすぎる、こいつら……」
飛鳥が苦虫を噛み潰すような顔で、ぽつりと呟いた。
***
「それでは、さらに詳しく教えてもらいましょうか?」
瑞希が投げられた枕を抱えて身を起こす。笑顔の奥に、にやりとした光が宿っていた。
「まだ続けるのこの話……?」
飛鳥はタオルケットをかぶり直した。
「そうです、まだ飛鳥さんのターンですよ」
七海も笑顔で追撃する。逃げ道のない包囲網。
「……高円寺で、カレー食べたり、ドーナッツ食べたりしてさ。喫茶店は入れなかったけど、公園でのんびりして……。そんな、何も特別なことしない感じ。でも……わたしは、誠と一緒にいられたら、それで良かったから」
その声は、思い出の中を歩くようにゆっくりと落ち着いていた。けれど、どこかこそばゆい余熱が残っていて。
「んもー、飛鳥ちゃん純情可愛すぎかよモード炸裂してるじゃん!」
瑞希が身を乗り出して突っ込む。
「その変な呼び方いーかげんやめろよなー」
「わたしがお気に入りだからいいの」
「わたしのお気に入りじゃないんだよ!」
飛鳥が瑞希から枕を取り返し、応戦しながら、視線をそらす。七海はふと、胸の奥でなにかがひっかかった。喫茶店……。もしかして、あの時、瑞希と二人で入っていたあの店だったのかも。
「七海、どうしたの?」
「……あ、いえ、大丈夫です」
七海は微笑みを浮かべて、話題を促した。
「それでそれで、そのあとはどうされたんですか?」
「ゲームセンターに行って、誠と勝負して──悉くわたしが勝って……」
飛鳥はふてくされたように言うが、その表情には、どこか惚気のような照れが混ざっていた。
「違うよ、飛鳥はボロ負けだったよ」
誠がぼそりと突っ込む。
「信用できない語り手だなー」
瑞希がにやにやしながら眉を上げる。
「細かいことはいいんだよ」
「細かくないよ、勝敗まで書き換えるのは良くないよ。デューイ勝利誤報事件って授業で習わなかった?」
「わたしの可愛い嘘と歴史的事件と接続すんな!」
「嘘って認めてるじゃん!」
笑い声が跳ねる。まるで、あの夜の高円寺の喧騒が、ベッドの中にまで続いているかのように。
***
ふと、話の流れが落ち着いたところで、七海が視線を飛鳥に向ける。
「……ゲームセンターって、もしかして……」
七海の声に、飛鳥はぱっと顔を上げた。その表情は、ほんのりと得意げで、嬉しそうだった。
「そうなの。七海の小説のこと思い出してさ、真似っこしてみたの。……結果は、散々だったけどね」
その言葉に、七海も笑う。そっと目を細めて頷いた。
「そんな風にしてもらえると、書いた甲斐あったのかも……」
「ちゃんと読んでるよ。好きだもん、ああいうの」
隣で瑞希が首をかしげる。
「あ、それってわたしまだ読んでないんだった。ごめんね」
「えっ、七海どんな話書いてるの?」
誠の声が被さる。身を起こして驚いたように見つめる。飛鳥と七海は顔を見合わせた。なんとも言えない、照れと嬉しさが混ざった笑顔。
「はい。瑞希さんには、改めてあとで送りますね。誠さんには……内緒です」
「ありがとう!読む読むー!」
瑞希が声を弾ませる。一方、誠はベッドに突っ伏した。
「だー、いつになったら教えてくれるの、ねえねえ。気になるよさすがにー」
「前に話したじゃないですか。……完成したら、お見せしますから」
七海はやわらかく笑いながら言った。その声は、どこか大切な秘密を抱いているようで。
「……うん」
誠は不承不承うなずいた。子どものようにふくれっ面で、けれど、どこか嬉しそうだった。
***
瑞希がぽんと思い出したように言った。
「その後があれか、ラーメン屋?」
「そうだよ。そこはもう分かってるでしょ」
飛鳥はちょっと気恥ずかしそうに視線を逸らす。瑞希はにっこり。
「うん、飛鳥ちゃんニッコニコで、キュートだったもんねー」
「うるさいうるさいうるさい!」
両手で顔を仰ぎながら、飛鳥がわたわたと抗議する。
「……あー思ったんだけど、属性で言うとさ、わたしがパッション、飛鳥ちゃんがキュート、七海ちゃんがクールじゃない?」
「ちがーう!わたしはクールだよ!」
「またまたご冗談を」
「どうどう、皆さん。解釈違いで揉めないでくださいね」
七海が笑いながらなだめに入る。
「まーくんはどう思う?」
瑞希が振ると、誠は少しだけ考えてから言った。
「飛鳥は……クールに見えて、パッションじゃないかなあ。トゲトゲしてるけど、中身は柔らかくて情熱的だから。例えるなら……」
「ウニって言うな!」
「まだ言ってないよ!」
全員が笑う中、七海がぽつりと。
「瑞希さんは……キュートで間違いないですね」
「エヘヘ、照れるでしかし」
「自分で言ってご満悦だよ、このひと……」
飛鳥が呆れたように呟く。誠はふと、七海のほうを見て優しく言った。
「七海はクールが似合うけど、すごく優しいから……」
「……ありがとうございます。普通に恥ずかしくなりますね、これ」
七海は照れたように微笑んだ。その空気のまま、瑞希が再び話題をひっくり返す。
「色で言うと、わたしが赤、七海ちゃんが青、飛鳥ちゃんが黄色かな」
「なんとなくは分かるけど、なんでわたし黄色?」
「ほら、カレー食べてたから、キレンジャーで黄色!」
「……だー、適当すぎだよ!」
飛鳥はめまいでも起こしそうな仕草で頭を抱えた。ベッドの上で、笑いが重なっていく。
***
「話逸れまくりじゃん!大事なラーメン屋の後が聞けてないよ」
瑞希がシーツに頬をこすりながら言う。
「あなたが率先して脱線したんでしょーが」
飛鳥がタオルケットを羽織ったままむくれ顔。七海が笑いながらなだめる。
「まあまあ、続きいきましょう」
「七海までノリノリなんだもんなー」
飛鳥はわざとらしくため息をつく。
「……あの時は止めてくれたんでしょう?」
「それはまあ、さすがに」
七海が小さく笑い、
「でもご本人の承諾があるなら、聞きたいです。後学のために、取材をかねて」
飛鳥はちらりと誠を見る。彼は笑ってうなずいた。
「いいんじゃない?」
観念したように、でもどこか誇らしげに、飛鳥が口を開く。
「ラーメン食べて解散かな?ってなったら、誠がまだ帰りたくないって駄々コネ出して……」
「冒頭から違いますからね?」
誠が手を上げて制止する。
「言い出したのは飛鳥ですよ?」
「もー、ちっとも話進まないじゃん!」
瑞希がクッションに突っ伏す。
「ほいでほいで?」
「なんで関西弁になるんだよ……」
飛鳥は呆れたふうに言ったが、観念したように続けた。
「ホテル行くことになったの。エレベーター乗って五階押して──誠とキスしようとしたら、別のカップルが乗ってきて……」
「うーん、あるあるだあ。気まずいよねあれ」
瑞希が即答。
「三階でそのカップルは降りたんだけど、なんか焦らされちゃった感じでウズウズしちゃって……」
「ごくり」
七海がわざとらしく発言する。
「それやだあ」
飛鳥が真っ赤になって振り返る。
「変な合いの手いれないで七海ちゃん!」
瑞希がツッコミを入れる。
「失礼しました。それで?」
七海が涼しい顔で促す。
「まだ続けるのこれ……?」
と口では言いながら、飛鳥の表情は少しだけ緩んでいた。
「廊下でキスして、部屋入ってもキスして、そのまますぐ口でして……」
「パッションすぎるよぅ飛鳥ちゃん……」
瑞希が顔を手で覆い、指の隙間からじっと見てくる。
「まことが褒めてくれて、すごい嬉しくて……」
赤面しながら、それでも飛鳥は続ける。
「──あー、それかー」
瑞希がジト目になって誠を睨む。
「飛鳥ちゃんがナンバーワンってやつ」
「いや、それは……ね?」
誠が苦笑い。
「なんの話?」
飛鳥はキョトンとして首をかしげる。
「まーいいや、よくないけど!次いこう」
瑞希が掌で試合続行のジェスチャー。部屋の空気は、照れと笑いと甘さでいっぱいだった。静けさの余韻すら、愛おしい夜だった。
***
「……まだ話す?」
飛鳥が枕を抱えて横を向く。声のトーンは低いが、どこか期待が混じっていた。
「どうぞどうぞ」
七海が笑みを含んだ声で促す。
「……そのあとすぐに立ったまま、後ろから愛してもらって、すごく……満たされて」
言葉が途切れる。静かに、それでも確かに火照った頬が、枕の白に沈んでいく。
「最後にやっぱり“お兄ちゃん”って言ってくれたんだよね」
誠がふと口にすると──
「もう、そこは省略でいいの!」
飛鳥が即座に起き上がり、抗議する。
「もう“まことお兄ちゃん”からは卒業だね、って言ってたのに……」
七海が感に耐えないように首を振る。
「七海まで被せないで!誰もストッパーいないじゃん……」
枕で顔を隠しながら飛鳥が呻く。
「煽っておきながら、ここまで濃厚いちゃいちゃ爆弾とは思わず、あたしゃ口あんぐりだよ……」
瑞希が両手を広げて笑う。
「あなたが言えっていったんだからね?」
飛鳥が指を差す。
「でもほんと、あの時の飛鳥は一番ぐらい可愛かったかも」
誠が、穏やかな声で振り返る。
「ツンがゼロの、デレデレで。いつもあれぐらいでもいいんだけどね」
「うるさいなー。ツンが七分で、デレが三分ぐらいがちょうどいいんだよ」
「自分で言ってるよこの人……」
瑞希が呆れたように、でも楽しげに漏らす。
「それ、わたしの持ちネタ取らないで」
飛鳥がむくれ顔を見せる。
「それで、この後にどんな展開になるんです?真犯人は?どんなトリックが?」
七海のさらりとした口調に、全員が吹き出した。
「もう……調子狂うなあ」
飛鳥が照れながら笑って、続ける。
「その後は……お風呂一緒に入って、そこで……将来の話をしたんだよね?」
「……うん」
誠の声が、少しだけ低くなる。
「卒業までに決めて欲しいって」
部屋に、少しの沈黙が落ちた。さっきまでのわちゃわちゃが嘘のように、静けさが染み渡る。
「わたしも、その後で飛鳥ちゃんから聞いたから」
瑞希の声も、どこかしっとりと湿っていた。
「……みんな、改めてになるけど、それでいい?」
誠が、少し不安げに訊ねる。
「はい」
七海が、まっすぐに応える。
「どんな結末でも……受け入れますから」
数秒の静寂。それを破ったのは、やっぱり瑞希だった。
「まーね、どうせまーくんは“卒業までに”って言っても、卒業式直前、なんなら卒業式に決めるぐらいじゃないの?」
「きっとそうですよね」
七海がふわりと笑う。
「え、みんなの中で俺ってそういう評価なの?」
「自業自得じゃない?胸に手を当てて考えなくても分かるでしょう」
飛鳥がクッションを投げながら言う。
「海よりも深く反省して欲しいですね」
七海が静かに続ける。
「そう、山よりも高く。万丈の山ね」
瑞希も加勢する。
「集中砲火じゃん……」
誠がクッションに倒れ伏す。
***
「せっかくだから最後まで行こうよ。そいで?」
瑞希が、身を乗り出すように言う。
「……あんな話したあとで、まだやるの?」
飛鳥が枕を抱えながら首を傾ける。
「そんなこと言って、ここまで来たら飛鳥ちゃんも話したいでしょ?」
「……それは、まあ」
「乗り気じゃないですか」
七海が優しく微笑むと、飛鳥は肩を竦めた。
「語りって、そういうものでしょ?いつの間にか興が乗ってくるっていうか……」
「今回の飛鳥は、わりと最初からノリノリだったような気もするけど」
誠がぽそっと呟くと──
「まぜっ返さないでよー」
飛鳥が照れ隠しに枕をぶつけた。
「そうだよ、まーくんは黙ってて。いいところなんだから」
瑞希が釘を刺す。
「ひ、ひどい……」
笑いが小さく波打ったあと、飛鳥がぽつりと続ける。
「……休憩のつもりだったけど、泊まって行こうって話になってさ。で、備え付けのカラオケに誠が勝手にリクエスト入れ始めて……」
「お客さん、満喫してますやん」
瑞希が茶々を入れるが、飛鳥は敢えてスルーして続ける。
「わたしはそんなに乗り気じゃなかったんだけど、まことがしつこく頼むから……」
「これは本当。盛ってない」
誠がすかさず加勢する。
「まあ、わたしは瑞希と違って、割と歌える方だから。まことも、喜んでたんじゃないかな?」
「そこの比較要ります?」
瑞希がむっと口を尖らせる。その横で、誠がこっそり飛鳥の耳元に囁く。
「あの時の飛鳥、ファンサしてくれたの……めちゃくちゃ可愛かったよ」
飛鳥の頬が一気に染まる。視線を落としたまま、けれど嬉しそうに笑って、顔を上げる。
「……またしてあげるね」
誠は、静かに頷いた。
「こらこら、そここっそりイチャイチャしないこと!」
瑞希が枕を振り回す。
「静聴せい、静聴せい!」
「話すのはわたしでしょうが」
「話す気満々じゃん」
七海がふっと微笑んで問いかける。
「そこからは?」
「そこからは……まあ、ほら、それなりに」
「そこからまた、いっぱいえっちして、飛鳥お嬢様も大満足じゃ、って言ってたよ」
誠がわざとらしく言うと──
「後ろから刺さないで!」
飛鳥が恥ずかしさに耐えきれず、タオルを顔に被せた。
「なんかその言い方、ひわーい」
「あなたの脳がピンクになってるんだよ!」
「ピンクじゃありませんー、赤担当ですー!」
わちゃわちゃと言葉と枕が飛び交う。
***
「もうそんな話すことないよ。後はそのまま眠っちゃって。……なんだったかな、夢を見たんだよね。あんまり思い出せないんだけど……」
一瞬、まぶたの裏を探るように空を見た飛鳥は、思い出したように指を鳴らした。
「あーそうだ、起きたらまことも夢見たって。しかもこれがしょーもないやつでさ……」
「わー、言わなくていいから!」
誠が慌てて両手を広げる。頭を左右に振りながら、大きな声で遮ろうとするその姿に、クッションがふるえた。
「……あ、それなんなんですか?前から気になってたんです」
静かだった七海が、膝に手を重ねたまま、少しだけ身体を乗り出す。飛鳥はいたずらっぽく笑ってみせた。
「うーん……まあ、武士の情けで内容は言わないでおいてやろうかな。そういや、まだ約束果たしてあげてなかったね。やってあげると言いながら、ずっと放置してたから」
「え、本当に?ホントにしてくれるの?」
思わず身を乗り出す誠に、飛鳥は一歩引いたような顔をして、手で空気を押しとどめた。
「……そんなに喜ばないで欲しい……複雑なんだけど……」
その口ぶりに、瑞希がじれったそうに足をぱたつかせる。
「なんなんだよー、気になるよーっ」
そんな空気を変えようとしたのか、誠が話題を転換するように口を開いた。
「あー、あー、瑞希も不思議な夢見たって言ってたよね?あれ、どんなやつだったんだっけ?」
明らかに話を逸らそうとしているその様子に、七海が小さくため息をついた。
「誤魔化し方があからさまです……」
その目線は、完全に“じとーっ”としていた。
***
「なんだっけ?」
瑞希が、ふわっとした声で首を傾げる。
「ほら、瑞希がちょっと怖い夢見て、起きたら泣いてたことあったじゃん。新宿だったかな?」
誠がやんわりと助け舟を出すと、瑞希は
「あー」
と思い出すように声を上げた。
「そうだった。そんな泣いていると飛鳥ちゃんに、豆腐メンタルって笑われるよって言われた気がする」
「うん、それは“ヤワやわちゃん”だね」
飛鳥は得意げな顔でうなずく。その顔に、瑞希は眉をひそめた。
「ドヤ顔してこないで!」
笑いが起きる中、七海が会話の空白をすっとすくい取るように言葉を挟んだ。
「……高円寺デートは、最後どうなったんです?」
飛鳥は一瞬だけ視線を上に泳がせ、それからふっと表情をゆるめた。
「そっからは大した話ないよ。起きて着替えて、ホテル出ようとしたら……エレベータで昨日のカップルにまた会ったんだよね」
「また気まずくなりますね、それ……」
七海が苦笑交じりに言うと、飛鳥は小さく頷いた。
「そう。なんか、でもおかしくって……。二人とも笑い堪えるの、必死だったよ」
そのときの情景が浮かんでいるのか、飛鳥の口元には満足げな微笑みが浮かんでいた。
「……なんだかんだと、楽しそうじゃん。きっちり長々話し切ったし」
瑞希が茶化すように言うと、飛鳥は
「話せって言うからさー」
と視線をそらした。でもその横顔には、少しも後悔の色なんてなくて。むしろ、どこか誇らしげな温もりが宿っていた。惚気て大満足――そんな言葉が、誰の口にも出ないまま、空気の中にやさしく漂っていた。
***
四人の笑いがひと段落したころ、ふとした静けさが落ちた。その沈黙をやさしく破ったのは、七海だった。
「じゃあ、次は瑞希さんですね」
瑞希は目をぱちくりさせて、小さく瞬いた。
「わたし?」
「そうだよー」
と飛鳥が頷く。
「散々いじったんだから、瑞希も自分のこと話しなよ」
「引きこもってた間に、特に再生したログって……要はまーくんとのデートの思い出ってことだよね?」
「ぜひ聞かせてください」
と、七海が身を乗り出す。
「参考にしますので」
誠のほうに視線を送ると、彼はやわらかく笑って、黙って頷いた。瑞希は唇に指を当てて少し考えるような仕草をした後、
「思い出ならいっぱいあるけど……」
と語り始めた。
「さっき言った、新宿中央公園でお弁当食べたのとか、恵比寿でパンケーキ食べたのとか……」
「やっぱり最初に食べ物から始まるんですね」
と七海が微笑む。
「食は記憶と結びつきやすいからねー」
飛鳥が思い出したように呟いた。
「パンケーキ事件あったなあ。あとで揉めたやつ」
「え、そうなの?」
と誠が振り返る。
「まーくんは知らなくていいの!」
瑞希が手を振って止めると、飛鳥が肩をすくめて笑った。
「まあ、あれでもう一歩距離が縮まった気がするから、結果オーライかな?」
「そうそう、やっぱりスーパー瑞希ちゃんのおかげだね」
「その認識はちょっと違う」
「まーそれはそれとして!」
急に声のトーンを上げた瑞希が、笑顔で言った。
「敢えてあげるなら、横浜デートかな?一緒に小籠包食べて……」
「ほんとに徹底してますね」
と、七海があきれながら笑う。
「それから大さん橋行って、船みたいだからって、タイタニックごっこして……」
「タイタニックごっこってなに?」
と飛鳥が首をかしげる。
「知らないの?えんだああああ──」
瑞希が突然歌い出した。調子ハズレの、でも妙に楽しそうな声。
「それは『ボディガード』ですね、ホイットニー・ヒューストンの」
静かに七海がツッコんだ。
「そうだっけ?」
と瑞希は首を傾げ、誠を見た。誠は苦笑しながら言った。
「あの時も、同じこと言ったよ……」
***
瑞希は照れ隠しもなく、さらりと続きを語った。
「観覧車に乗って、そこからみなとみらいのホテルに行って……。まーくんに、いっぱい愛してもらったの」
声のトーンが少しだけ甘くなる。
「足の指まで舐めてもらって……」
「え、なにそれ。わたしされたことないんだけど」
飛鳥が言いながら足を伸ばして、誠の脇腹をつついた。
「わたしもですー」
七海までが追随し、同じように足の甲でちょんちょんとつつく。
「いたたっ……!」
誠が小さく身をよじると、飛鳥はあきれたように笑った。
「大袈裟にすんなー」
「ねぇ、わたしの話聞いてる?」
瑞希が不満げな顔を向ける。
「聞いてるよ、続きどうぞー」
そう言いつつも、飛鳥はまだ足を当てたまま、くすぐるように誠のわき腹を押している。
「……お返しに、わたしもいっぱい舐めてあげて、口でも愛して……」
そこまで言って、瑞希はふくれっ面になった。
「それなのにさあ、まーくんに聞いたら、やっぱり飛鳥が一番うまいって言うの!ありえなくない?」
「ほほう」
飛鳥は目を見開き、頬を緩ませた。照れているのか、誇らしいのか、言葉にせずとも表情に出ている。
「それはそれは……興味深いお話ですね」
七海も微笑をたたえたまま、声のトーンだけでふんわりと揺さぶってくる。三人のあいだに、甘い火花のような空気が弾けていた。誰が一番かなんて、本当の本当はどうでもいいのに。
***
「もう許せない!ってなってさ、ハイパー瑞希ちゃんモードに突入して、上に乗って──」
と、瑞希は得意げに語り始めた。
「とことんまでまーくんを圧倒してやる!って気合い入れて……でもさ……途中から、まーくんに下から突かれて、結局メロメロになっちゃった……」
声の終わりが、少し照れている。
「瑞希、あの時すごかったもんね」
誠が悪戯っぽく笑いながら言う。
「おおおん、おおんって、吠えてたよ」
「そんな声出してないから!」
思わず身を乗り出して抗議する瑞希に、誠はさらなる爆弾を落とした。
「Emopulseのログ、再生しようか?お気に入りにピンしてあるから、いま出そうと思えばすぐ出せるよ?」
「やろうやろう」
飛鳥がすかさず乗っかってくる。
「やめてー!」
瑞希が両手で耳をふさぐ仕草を見せる。
「わたしも聞きたいです!」
わちゃわちゃと、ソファの上で膝を抱えたり、足を投げ出したり、頭を押しつけ合ったりしながら、三人の声がころころと跳ねた。それはまるで、交差した愛情の余熱が、言葉と笑いになって零れているみたいで。
***
「その後もいっぱい愛し合って……あ、そうそう、体洗うからってシャワー浴びてたらさ、まーくん急に入ってきて、びっくりして……でもそのまま、後ろから突かれて……」
瑞希が思い出したように言うと、飛鳥がすかさず突っ込んだ。
「めちゃくちゃえっちしてるじゃん、それ」
「あなたたちも、そうだったでしょ!」
胸を張って反論する瑞希に、飛鳥は鼻を鳴らして肩をすくめた。そのやり取りを、七海は微笑みながら見守っている。
「でもそのあとは、ちょっと真面目な話になってさ……」
声のトーンが、少しだけ和らぐ。
「ミスコンが怖い、どうしたらいいんだろうって。そんな話をまーくんにしたんだよね?」
視線を向けると、誠がゆっくりと頷いた。
「なんかね、褒めてもらいたいって気持ちもあるし……でも、悪く言われたらどうしようって。人の顔色、気になっちゃうんだよね。……まーくんの優柔不断、笑えないね」
「そこで俺を引き合いに出すの?」
誠が苦笑しながら問い返すと、瑞希はいたずらっぽく口元を歪めて笑った。
「ふひひ」
その様子に、飛鳥の表情がふと変わる。ほんのわずかだけ真顔になっていたのは、瑞希の家庭の事情を知っているからだ。
「でも、なんでかミスコン中止になっちゃったから……」
瑞希が言葉を落とす。
「これも、まあ結果オーライだね」
一瞬、場の空気が静かになった。沈黙というよりは、連帯と労りの呼吸。そして──
「すこし、心配だったんだよね」
飛鳥がぽつりと呟いた。
「瑞希が、傷つくのは見たくないから」
その一言に、瑞希は驚いたように目を丸くし、やがてふっと目を細めて。
「ありがとう、飛鳥ちゃん。そういう優しいところ、大好きだよ」
「ちょ、調子狂うじゃん。そんなストレートに言われると」
「最初に真面目入ったのは飛鳥ちゃんでしょー」
二人の掛け合いに、七海が小さく呟く。
「ほんと、仲良しですよね……」
それに誠が頷くと──
「そこ!」
瑞希が指を差す。
「こっそり夫婦ムーブしない!」
「そうだぞ!許可してないぞ!」
飛鳥も乗っかるように同じ方向を指差す。突然の糾弾に、誠と七海は思わず両手をあげた。まるで
「逮捕しちゃうぞ」
とでも言われたかのように。笑いが空間を包む。たわいない、でも確かなぬくもりがそこにあった。
***
「それで……この時だったかな?朝になって、まーくんに“いつか、なにもなしでも愛し合いたい”って言ったのは?」
そう言って、瑞希は少し照れくさそうに視線を泳がせながら、誠の方へと目をやった。誠はわずかに背筋を伸ばし、真っ直ぐに頷いた。
「プレッシャーに感じたらごめんね?いますぐじゃないよ、まだずっと先でもいいの。将来、そんなことができたらいいなぁって……ぐらいの気持ちだから」
その声は、冗談めかした調子をしていながらも、まっすぐに深く、愛を告げる響きがあった。飛鳥はその横顔を、まぶしそうに見つめていた。そしてその飛鳥の表情を、今度は七海がそっと見つめていた。三人の視線が言葉を持たずに巡り、それぞれの胸に静かな灯がともる。
「……ちょっとまたシリアスな空気になっちゃった?そのあとはもう普通に帰ったよね。眠くて、電車で寝ちゃったはず……」
瑞希が笑いながら空気を和ませるように言うと、誠も肩をすくめて笑う。
「そうそう。寝顔が可愛かったから、スマホでツーショット撮ったんだった」
「え、聞いてない!」
瑞希が眉を跳ね上げる。
「だって言ってないから」
「ひどいー!肖像権の侵害だよ!あとで送るよーに!」
「ははあ、仰せの通りにー」
二人のやりとりに、飛鳥が小声でぼそりと漏らした。
「……自分たちの方がよっぽど夫婦漫才してるじゃん」
それを聞きとった七海が、思わず肩をぶつけてくる。飛鳥はその優しさに、わずかに微笑んだ。
「あー、なんか今度は二人でいい空気になってるじゃん」
瑞希がふてくされたように言うと、
「うるへー。次行こう、次」
と飛鳥が照れ隠しのように返す。
「じゃあ、次は七海ちゃんね」
瑞希が指名するように言いながら笑った。場の空気が、少しずつまた新しい灯をともしていく。
***
「わたしですか?」
七海は少し頬に指を当て、ゆっくりと視線を巡らせながら口を開いた。
「お家時間に再生したのは、色々ありますが……。たとえば、大学の図書館でこっそり、とか。池袋の洋服屋さんでこっそり、とか……あとは、コスプレスタジオでこっそり、とか……」
「ちょ、ちょっと待って。こっそり凄いとこでしてばっかじゃない?」
瑞希が思わず身を乗り出す。
「ほんとだよ。あと池袋の話って、フィクションじゃなかったっけ?」
飛鳥が眉をひそめると、七海は慌てたように声を上ずらせる。
「あー、フィクションです、つくりばなしです」
「めっちゃ棒読みだよ、七海ちゃん……」
「おとなしい顔して一番すごいよ、七海ちゃん……」
ふたりのツッコミに、誠が苦笑しながら割って入る。
「……ちゃん呼びになってるよ、飛鳥ちゃん」
そんな掛け合いに、さざ波のような笑いが広がった。
「おっほん」
七海は一度咳払いをして仕切り直すと、声の調子をやや落として、静かに続けた。
「あとは、そうですね……瑞希さんが譲ってくださった、お台場のナイトプールとホテル。あのときは、本当に楽しかったですね」
記憶をたどるように、目を細めながら言うその声に、ほのかな熱が滲んでいた。
「むふふ、でしょでしょ。役に立てて嬉しいよ」
瑞希が胸を張るように笑った。その笑顔を見て、七海も柔らかく微笑み返す。
***
「あの時の七海の水着、すごい綺麗だったよ」
誠がふと思い出したように言うと、七海は少し驚いたように目を見開いた。
「ありがとうございます……照れますね……」
恥ずかしげにうつむいた頬に、微かな赤みが射している。
「俺も何度も再生したから……」
その言葉に、七海は自然と顔を上げた。二人の視線が、そっと絡まる。それは言葉よりも深く、確かなものを伝えるまなざしだった。
「今度はこっちで夫婦善哉じゃん……」
飛鳥がふてくされたように呟く。すねた声に、瑞希がくすっと笑って、肘で軽く突ついた。
「あの時は、わたしたちもデートしたじゃん。うりうり」
「だからー、デートじゃねえから……」
めんどくさそうに顔をそむける飛鳥。けれどその眼差しの端に、瑞希がふんわりと優しく笑っているのが見えていた。胸の奥に、レインボーブリッジの夜景がよみがえる。瑞希と並んで見たきらめく光。その時間が、今になってやけに温かく思い出される。飛鳥はそっぽを向いたまま、そっと手を動かした。瑞希の手の上に、自分の手を重ねる。不意のその仕草に、瑞希が優しく目を細めた。どこまでも柔らかい微笑みで、飛鳥の小さな勇気を受けとめる。
***
「あのー、わたしの話……聞いてます?」
七海が控えめに問いかけると、瑞希は首をかしげて無邪気に笑った。その横で、飛鳥がハッとして手を引っ込める。
「はいっ、七海先生、どうぞ!」
ぴしっと姿勢を正しながら、飛鳥が大袈裟に返事をする。七海は咳払いひとつ、おっとりとした口調で続けた。
「おほん……一番思い出深いのは、やっぱり……誠さんのアパートに行ったこと、でしょうか。看病して、その……次の日に、目一杯、愛し合って……」
「あーっ、やっぱりあの時にえっちしてたんじゃん!」
瑞希がベッドをぺしんと叩いて叫ぶ。
「有罪だあ!」
飛鳥が指を差して叫ぶと、七海はあっさりと微笑んだ。
「その通りなんですが……もう時効、ということで」
「時効って概念はもう適用されないんだよ?」
瑞希がぷくっと頬を膨らませる。
「でも、あの時……看病してくれたの、ほんと助かったよ。お母さんみたいだった」
誠の言葉に、少し照れたような笑みを浮かべた七海のもとへ、飛鳥がわっと抱きついた。
「七海はわたしのお母さんだからダメですー!」
「いいや、わたしのお母さんですー!」
瑞希も負けじと抱きつく。三人の声が重なり、じゃれあい、重なるように笑いが弾けた。その真ん中で、七海はほんの少し、目を細めていた。包み込むように優しく、あたたかく。
***
「みなさんで一緒に過ごしたことも、もちろん思い出深いです。夏祭りとか……このお家で、パーティしたこととか」
七海が柔らかく言葉を紡ぐと、自然に全員の視線がふわりと寄り添った。胸の奥に、灯りがともるような気持ちが広がっていく。
「あと、旅行行ったの、楽しかったよね!」
瑞希が嬉しそうに声をあげた。
「はい。東京のあちこちを巡るのも素敵ですけど、旅に出ると、また格別の楽しさがありますよね」
七海がうなずくと、飛鳥がどこか遠い目でぽつりと呟いた。
「……旅館で、えっちもいっぱいしたもんね……」
「うん……」
瑞希も目を伏せて頷いた。一瞬、場の空気がやわらかくとろける。そんな空気の中で、誠がぽつりと――、
「今日もいっぱいしたけど……」
「ちょっ、急に思い出させないでよ!」
真っ赤になった飛鳥が、手のひらでぺしぺしと誠を叩く。
「ばかっ、そういうのは空気読んでから言ってよ!」
けれどその声には怒りではなく、照れと照れがぶつかりあったような笑みがにじんでいた。誠が顔をしかめて小さく
「ごめんごめん」
と言うと、瑞希が肩をすくめながら笑っていた。
「……まったく、誠はさー、もう」
言葉とは裏腹に、そこには優しい気持ちしかなかった。そして七海は、そんな三人の様子を静かに、幸せそうに、見つめていた。
***
「こうやって集まって、直接話せるの……ほんと楽しいね」
瑞希が、湯気の立つカップを両手で包みながら呟いた。
「オンラインでも、ずっとやってきたけどさ」
微笑んで見つめてくるその瞳には、ほんの少しの名残惜しさと、あたたかい感情が揺れていた。
「……そうだね」
飛鳥が静かに応じた。
「やっぱり表情とか、空気感とか……細かいところが、ラグなしに伝わるから」
そう言いながら、彼女もまた周囲の顔ぶれを見渡す。柔らかな光が差し込むその場には、スクリーン越しでは感じ取れない温度が、確かにあった。
「拡張レンズの投影でも、変わらないと思ってたけど……やっぱり違うよね」
頷く飛鳥の声が、空間に優しく染みわたる。ほんのわずかな沈黙のなか、誰もがそれに同意していた。この“いま”、同じ空気を吸って、視線を交わし、笑い合っているということ――。それはどんな記録や再生よりも、かけがえのないものに思えた。
***
七海がすっと立ち上がり、キッチンの冷蔵庫へと向かった。その姿はどこか給仕係のようでもあり、どこか“お母さん”のようでもある。手にしたドリンクを人数分並べていく。
「はい、どうぞ」
にっこり微笑みながら、最後に誠の前にも一缶置いた。
「やった〜、かんぱーいっ!」
瑞希が、パチンと音を立てるように缶を掲げた。声まで弾んでいて、もうすぐ夏が戻ってくるんじゃないかと思わせる。
「アルコールじゃあるまいし……」
飛鳥が呆れ顔で突っ込む。
「でも飛鳥ちゃんは酔うと虎になるから……」
「はああ?なに言っちゃってんの、それ。わたし、そんなに酒弱くないし?」
飛鳥の顔は全力で
「ありえない」
と言っていた。けれど、誠と瑞希が無言で目を見合わせた時点で、真実はバレている。
「……うん、まあ、そうだね。そういうことにしておこう」
瑞希は涼しい顔で笑うと、
「知らぬが花」
「仏の顔も三度まで」
など、微妙に混ざった諺で煙に巻いた。
「いろいろ間違ってるよ」
飛鳥がじと目で睨む。
「まあまあ、みなさん。水分補給しましょう、ね?」
七海の優しい声に、場の空気がふわっと緩む。
「そうしよう、そうしよう」
誠も頷いてドリンクを手に取った。
「なんかさ……みんなで、うやむやにしてない?」
飛鳥だけが最後まで釈然としない顔で、口を尖らせた。
***
「しかしさ、こうやって振り返ってみるとさ……ほんとにいっぱい……」
瑞希がぽつりと呟いた。視線は窓の外へ向き、どこか遠い夏の記憶を見つめているようだった。
「思い出、あるよね」
誠も同じ方向を見るように声を添えた。
「デート、してきたよね」
飛鳥が肩をすくめながら続ける。
「えっち、しましたよね」
ぽそっと挟んだのは七海だった。……一拍の沈黙。
「……」
瑞希がソファに転がった。
「七海ちゃんって……」
「あー……もう今さらだけど、七海が一番スケベだよね……」
飛鳥が腕を組みながら、あきらめたように言う。
「俺もそれは思う」
誠の声が妙に真剣だった。七海は恥ずかしそうにうつむきながらも、手に持ったドリンクを目の高さまで持ち上げて、小さく言った。
「褒め言葉として、受け取っておきます……」
「ねえ、七海ちゃん、もしかして酔ってる?」
「いいえ……本気で恥ずかしくなって、ごまかしてるだけです……」
その言葉に、部屋中に笑い声が弾けた。
「じゃあさ、まーくんは?なにが一番、思い出深かった?」
瑞希がくるりと寝返って、顔を上げる。
「まーくんは何が一番思い出深いの?振り返って確かめようよ。一番だったデートは?」
瑞希が少しだけ身を乗り出して問いかける。七海も隣で優しく微笑む。
「ぜひ聞きたいですね。一番だったえっちは?」
飛鳥がクッションを抱えて、
「結局、誰が一番好きなの?」
とさらりと聞いてしまう。
「ま、待って待って!今それ言わないとダメ?」
誠は手を振って笑うが、目の奥に困ったような優しさが滲んでいた。
「曖昧くんだからなあ、そうやって引っ張るんだから……」
瑞希がむーっとした顔で口を尖らせる。
「少なくとも口が一番うまいのはわたしだね。お墨付きの業物だから」
飛鳥は胸を張って、自信満々に言ってのける。
「やだあ、このひと露骨ー」
瑞希が笑いながら顔を覆う。
***
「えーと、さっきの質問は言わないと、ダメ?」
誠が肩をすくめて問いかけると、七海がすかさず身を乗り出した。
「えっちだけ、教えてください」
「そこ拘るんだ……」
瑞希が目を丸くして呟く。
「すごい迫力だよ、七海せんせい……」
飛鳥がため息まじりに言うと、誠は観念したように口を開いた。
「瑞希はね、いつも正面から好意をぶつけてくれて……“好き好き”って、まっすぐ言ってくれて……あれされると、脳みそ溶けそうになるんだ」
「むふふ、でしょでしょ」
得意満面の笑顔で胸を張る瑞希。誠は続けた。
「飛鳥はさ、普段は硬いのに……抱きしめると急に乱れて、“お兄ちゃん”呼びするでしょ?頼られてる気がして……嬉しくなって、もっと喜ばせなきゃって」
飛鳥は無言で顔を真っ赤に染め、膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
「……ばか」
聞こえるか聞こえないかの声で、ぽつりと呟いた。そして、少し間を置いて──
「七海は……」
その言葉に、七海の瞳がきらりと揺れた。
「わたしは?」
言葉を催促するように、誠を見つめる。
「……上に乗って、普段とは別人みたいに圧倒してくるから……なんていうか、攪拌されて、自分じゃいられなくなる感じで……」
その一言に、七海はふいに黙り込んだ。恥ずかしさに耐えきれず、そっと目線を落とす。
「わー、変な空気になっちゃったじゃん!」
瑞希が両手で空気をかき混ぜるようなジェスチャーをしながら笑って、場を救おうとする。そして全員が、どうしようもなく笑い出した。恥ずかしくて、でも嬉しくて──愛しさがこみ上げる、深夜の甘くて騒がしいひとときだった。
***
「ちょっとお腹空いてきちゃった。ピザでも頼もうか?」
ベッドの上でごろりと転がりながら、瑞希が無邪気に言った。
「……もう深夜だよ!?いくらスーパー瑞希ちゃんでも、それはやめなさいって」
飛鳥が目を剥いて突っ込むと、瑞希は肩をすくめて悪びれもせず言う。
「そう?ときどきこれぐらいするよ?クワトロピザとコーラとポテト!」
「やばいのばっかだよそれ……」
飛鳥が呆れたように言うと、今度は誠が笑いながら立ち上がった。
「じゃあ……台所、借りようか。なにか簡単なもの、作ってくるよ」
「残り物で、タッパーに入れてあるやつありますよ」
七海が立ち上がりかけたが、誠に促されて座り直す。
「チンするだけだから……わたしがやりますね」
「みんなで瑞希甘やかすなよー!」
飛鳥が小さくぼやく。
「えへへー、やったー!」
瑞希が枕を抱えたまま喜びの声を上げると、部屋中があたたかい笑いに包まれた。けれど結局は、冷蔵庫の前で
「もう少し軽くていいね」
と誰かが呟き、袋菓子だけテーブル代わりのトレイに乗せて戻ってくる。ベッドの上にお皿を広げ、袋を開ける。ポテトチップス、チョコレート、コンビニのクッキー。七海は普段、ベッドの上で食べるのを嫌がるほうだけれど、今日は何も言わなかった。むしろ、小皿を並べて、きれいに盛りつけてくれる。それだけで、今日が少し特別なんだとわかる。
***
お菓子の袋を広げながら、瑞希がぽつりとこぼす。
「楽しいね。このまま、何時間でも話せそうな気がする」
「あなたが無尽蔵に話し続けるからね」
飛鳥がすかさず返すが、その口ぶりには、どこか嬉しそうな響きが混じっていた。
「結局……こういうのが一番楽しいのかもですね」
七海がそう続け、誠もうなずいてチョコをひとつ口に入れる。その隙に、瑞希は袋を自分の前へとずりずり引き寄せる。
「あっ」
飛鳥が指先で瑞希の手を軽く叩く。瑞希はわざとらしく痛がるふりをして、肘で小突き返す。そんなじゃれあいの延長みたいな口調で、でもどこか真面目に、瑞希が言った。
「こうやって話してて楽しい、一緒にいて楽しいって、シンプルに好きな理由だよね」
誰もすぐには返さなかった。だからこそ、瑞希は続けた。
「さっきえっちの話してたけどさ、もちろん、まーくんと愛し合うの、大好きだよ。すっごく気持ちいいし、幸せになれる。でも……それだけじゃないんだよね」
彼女の声が、ほんの少しだけ熱を帯びる。
「前にも言った気がするけど……わたし、えっちしたからまーくんをもっと好きになったけど、その前からずっと好きだったし、終わったあととか、普段も、こうやって話すことでもっともっと、好きになってる」
誠は、思わず視線を落とした。胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「ありがとう……」
その言葉しか出てこなかったが、それだけで十分だった。飛鳥も七海も、冗談を言わずに静かに頷いていた。それが、何よりの同意だった。
「なんていうか……」
瑞希は指先でクッキーを弄びながら、言葉を選ぶように続けた。
「一緒にいて、『嫌だなあ、この人とは歩いていけない』って思っちゃったら、たぶんそれって、もうだめなんだよね。でも、まーくんにはそれが、ないんだよね」
「……空気みたいってこと?」
飛鳥が、やや照れくさそうに言う。
「珍しくいいこと言ってるんだから、静聴せい静聴せい」
「珍しくって、自分で言うんだ。自覚あるんだね」
「うるさいうるさいうるさい」
「それ、わたしのシグネチャ!」
「自覚あるんだね」
またひとしきり、笑いが広がる。
***
誠の部屋に、笑い声と、袋のカサカサという音が交互に響く。誰かが笑い、お菓子をつまむ。その繰り返しが心地よく、深夜の空気にほどけていった。瑞希はリラックスしたように、胡座をかく。けれどそれすらも、どこか愛おしいほど自然だった。
「今はさ、若いからすぐえっちしちゃうけど、歳とったらそうはいかないと思うんだよね」
唐突に現実を見据えたような言葉に、飛鳥がすかさず突っ込んだ。
「急に現実的になるじゃん」
けれど、瑞希は真面目な顔を崩さない。お菓子を指でつまみながら、ゆっくりと続けた。
「最後まで聴きたまえ。でもね、まーくんとなら、それでも大丈夫な気がするの。えっちは大事なコミュニケーションだけど、それ以外もあるからね。話してて波長が合うとか、楽しいなってのは大切だと思うの」
少しだけ、言葉が消えていくような間があった。テレビも音楽もない静寂の中、三人の呼吸と、部屋の空気だけが存在していた。飛鳥は照れを隠すように、冗談めかして言う。
「……いつかおじいちゃんとおばあちゃんになって、縁側でお茶飲んでるとか。ありがちだけど、そんな風にできたら……悪くないよね」
誰も言葉を返さなかったが、それが否定ではないとわかる沈黙だった。むしろ、あたたかくて、少しだけ胸にしみる静けさだった。
「そうだよー。熟年離婚とかあるからねー」
瑞希が、わざと軽く言った。
「上手くいってそうな夫婦でも、長年の不満が蓄積して、爆発しちゃうことあるから。まーくんも気を付けないとダメだよ?」
「どこから目線なんだよ……」
飛鳥が呆れたように呟いて、ソファのクッションに背中を預けた。その小さな言い合いに、誠と七海もつられて笑った。部屋の照明は、だんだんとまぶたに優しくなっていく。深夜。夜が、ゆっくりふけてゆく。
***
瑞希が、小さなあくびを一つ。その音に釣られるように、飛鳥も頬を押さえてあくびを漏らす。七海は目元を指でなぞりながら、少し照れたように笑った。誠も、もう眠気を隠せない様子で、目をこする。そろそろ寝ましょうか──と、誰かが言った。自然と動き出す。散らかったお菓子の袋をまとめ、七海と誠が中心になって片付けを進める。交代で洗面所に立ち、歯磨きを済ませる頃には、飛鳥はすでにソファの上で脱力していた。瑞希がその横にしゃがみ込み、毛布をかけたり、スマホを手渡したり。まるでお姉ちゃんのように、いそいそと世話を焼く。誠はソファをベッドから少し離して、元の間取りに戻した。ベッドで二人。ソファに一人。床に一人。その“割り振り”をめぐって、ちょっとしたやりとりが起きた。
「わたし、床で大丈夫です」
七海が、ためらいながらも申し出る。けれど、誠がすぐに首を振った。
「さすがに、それはまずいよ。俺が床にする」
声に遠慮もなく、自然な優しさだけがにじむ。やりとりに割り込むように、瑞希がじゃんけんを開始する。結局、七海が負けて家主なのにソファで寝ることに。
「やったあ♪わたしと飛鳥ちゃんは仲良くベッドね」
嬉しそうに飛び上がる瑞希。
「……なんか納得いかない」
勝ったはずの飛鳥が、なぜか不服そうに目を細める。
「順当です」
七海が苦笑しながら結論を下した。
***
「飛鳥ちゃん、いらっしゃーい」
瑞希が、ベッドの上で両手を大きく広げて呼びかける。その様子をちらりと見て、飛鳥は眉をひそめた。
「……寝る時まで無駄絡みすんなよー」
そう言いつつも、のろのろとベッドに潜り込む。背中を向けて横になる。それでも、瑞希はまったく気にせずに、飛鳥の腰にそっと腕をまわす。
「やめい……」
飛鳥がくぐもった声で抗議する。だけど、しばらくすると──瑞希の手の上に、飛鳥の手が静かに重ねられていた。その光景を、ソファの上から七海が見ている。目元がゆるみ、胸の奥にふわっとあたたかいものが広がっていく。床で寝る準備をしていた誠も、ふとその様子に気づく。ふたりの視線が、そっと交わる。何も言わない。ただ、同じものを見て、同じものを感じたことが、自然な笑みに変わった。
「電気、消しますよー」
七海の声が、やさしく夜を包む。
「はーい」
布団の中から、小さく返事がいくつか。
「アイ、電気を消して」
七海が言うと、部屋のスピーカーがやんわりと応える。
「了解しました。皆さん、おやすみなさい」
電子音声のはずなのに、どこかぬくもりを帯びていた。




