七海と飛鳥、春の続きを願うこと
ソファに横たわった七海は、目を閉じた。布団の代わりに掛けた薄手のブランケットが、体にふわりと重なる。柔らかいクッションに頭を沈めながら、息をひとつ整える。──帰ってきた。なんてことのない、ありふれた夜。笑って、おしゃべりして、お菓子をつまんで。誰かの髪がふれて、誰かの声が近くで響く。ほんの少し前まで、それがどれほど遠いものだったか。だからこそ、今が、胸にしみるほど愛おしかった。
(このままずっと、続けばいいのに……)
ふと、そんな願いが浮かぶ。でも、同時に、それが夢のように壊れてしまうのではないかという、淡い不安も。──いつか、終わってしまうのだろうか。そんなことを考えながらも、部屋の空気はあたたかかった。誰かの寝息が、穏やかなリズムで重なる。瑞希の、飛鳥の、誠の気配が、音にならずに肌に染み込んでくる。同じ空間にいるというだけで、こんなにも心が落ち着くなんて。きっと、心がほどけていくって、こういうことなんだと思う。まぶたの裏に、やさしい残像がゆらいでいた。柔らかな空気に包まれて、意識はゆっくり、ゆっくりと沈んでいく。ただ静かに、愛のなかへ。
***
夢の中で、七海は春の光を見ていた。引っ越し業者のトラックが去ったあと、部屋の中はまだ段ボールの山だった。窓から吹きこむ風が、カーテンの隙間を泳いでいく。
「……広いな」
誠さんの声が聞こえる。でも、どこか遠い。
「4LDKだもん。ちゃんとみんなの部屋あるし!」
弾むような瑞希さんの声。
(ああ、これ……前にも聞いた気がする)
飛鳥さんが缶コーヒーを開ける音。
「マジでルームシェアするとは思わなかった」
「焦らなくていいですよ」
自分の声が、静かに重なった。場面がふっと滲む。段ボールが消えて、風の色だけが残る。次の泡が弾けて、誠さんがベランダで段ボールを潰している。桜の花びらが舞って、誰かの笑い声が遠くから聞こえる。
(ああ、春だ)
心の奥で呟くと、景色が少し霞んだ。
「Wi-Fiつながんないんだけどー!」
飛鳥さんの声。
「電源は?」
「……あ」
笑い声が波紋のように広がっていく。その笑いの輪郭が、風とともに薄れていった。夜の泡。テーブルの上にはカレーとサラダ。グラスの音、スパークリングウォーターの泡が弾ける。
「新生活に――かんぱーい!」
光の粒が跳ねて、みんなの声がまるで星みたいに散っていく。
(……この光景、好きだな)
夢の中の七海が、そう思っていた。胸の奥が、ふわりと温かくなる。
「まーくんなら社会人やれるよ」
瑞希さんの声。
「わたしもそう思います」
自分の声も重なる。飛鳥さんが
「はいはいもういい」
と言う。その声が残響みたいに部屋を巡った。別の泡。朝のキッチン。トースターの音と、味噌汁の香り。誠さんが慌ただしくネクタイを探していて、瑞希さんが口にトーストをくわえている。
「生きて帰る!」
「サバイバル番組かよ!」
笑い合う声。七海はそれを見つめていた。
(みんな……大人になっていくんだ)
玄関の前。誠さんが靴紐を結び、瑞希さんがヒールを履き、飛鳥さんがスリッパのまま手を振っている。
「まこと、ちゃんと大人になっても、わたしたち忘れんなよ」
「忘れるわけないだろ」
――その瞬間、風が強く吹いて、夢の景色がひび割れた。次の泡は静かだった。リビングのソファで、飛鳥さんがコーヒーを飲んでいる。
「この家、ちゃんと“わたしたちの場所”って感じ」
七海が頷く。けれど、その声はすぐに遠のいていった。音も、光も、匂いも、ひとつずつ溶けていく。最後の泡。カーテンの隙間から朝日が射して、薄く透けた光が、床を撫でていた。誰かが笑っている。誰かが名前を呼んでいる。けれど、もう聞き取れない。七海は、夢の中で小さく呟いた。
(……ありがとう)
泡が弾け、静けさだけが残った。
***
ぼんやりとした夢の名残が、まだ瞼の裏に残っていた。ゆっくりと目を開けると、カーテンの隙間からやわらかな光が差し込んでいた。春の朝の陽射しは、どこか粉雪のように淡く、温かかった。珍しく、七海は最後まで寝ていた。目覚めてもなお、心はまだ夢のなかにいるようで、呼吸は浅く、体はふんわりと重たかった。ソファから身を起こすと、すでにベッドの上にいた飛鳥も、ごろんと仰向けのまま片目だけを開けている。
「……おはようございます」
そう呟くと、飛鳥が口元だけで
「んー」
と応えた。リビングにはすでに人の気配があった。誠と瑞希は着替えを済ませ、そろそろ家に帰るところらしい。キッチンには小さく湯気の残るカップ。わずかに残った紅茶の香りと、昨日の笑い声の余韻が、まだ空間に漂っていた。
「見送りますね」
七海が玄関まで歩いていくと、寝ぼけたままの飛鳥も、パタパタと足音を立ててついてくる。ふたりの背中が見えると、飛鳥がわざと大きな声で言った。
「おまえら、このあとホテルとか行くんじゃないぞー」
「ンムフフ、どうでしょうかー」
瑞希が得意げに笑い、
「朝から煽らないで!」
と、誠が顔を赤くする。なんでもない、よくある、騒がしいやりとり。それがどれほど愛おしいことか、七海はあらためて思う。
「じゃあねー!」
「またね!」
ふたりは軽く手を振ってエレベーターへと消えていった。扉が閉まる音を背に、飛鳥と七海はしばらくその場に立ち尽くしていた。外の空気は少し冷たく、それでも心はぽかぽかとあたたかかった。
***
ふたりは、なんとなく引き寄せられるようにして、同じベッドに腰を下ろした。飛鳥がぽつりと呟く。
「……いっちゃったね」
「いっちゃいましたね」
七海も、それに続ける。少しだけ沈黙。それを破るように、飛鳥がベッドの縁に手を置いて言った。
「瑞希ってさ、暴走台風みたいでさ。いるとうるさいんだけど、いなくなると……」
「少し寂しい?」
「……少しだけね?」
言い終えた飛鳥は、ふんわりと笑う。その表情がどこか子どもみたいで、七海もつられて口元を緩めた。
「いる時に言ってあげたら喜びますよ、瑞希さん」
「ぜったい言わないから」
いーっと顔をしかめて、子どもじみた嫌がり方をする飛鳥。でも、その仕草すらどこか愛おしい。七海はそっと立ち上がり、キッチンへ向かう。しばらくして、湯気の立つカップをふたつ用意して戻ってくると、飛鳥の前にそっと置いた。
「どうぞ」
「ありがと」
飛鳥は両手で包むようにカップを持った。湯気の間から、少し間を置いて。
「昨日は楽しかったよね」
「はい」
「みんなでいっぱい」
「……えっちして」
「それ今回も言うと思ったよ」
飛鳥が呆れたようにカップを見つめる。
「いや確かにしたけどね?その後のワチャワチャも、ほんと、楽しかったなって」
「そうですね。皆さんの思い出が聞けて……」
「これからのネタになりそう?」
「それも、まあ。ありますね」
そう言って、七海は、まるで何かを隠すように、静かに微笑んだ。
***
カップの湯気が静かに立ちのぼる。その白さを見つめながら、飛鳥がぽつりと口を開いた。
「……なんとなくさ、思ったんだけど」
言い淀みながらも、その先を続ける。
「まことは、やっぱり瑞希を選ぶ気がする」
不意に訪れた静寂。七海は、カップに映るゆらぎを指でなぞるようにして言った。
「どうしてそう思うんですか?」
飛鳥は天井を仰いで、考えるふりをして、それから少しずつ言葉を紡ぐ。
「なんだろう、二つあって。……まことにとって、瑞希って最初の人なんだよね。たぶん学校で一番に出会って、一番に好きになって、一番最初に告白されたのも……瑞希なんじゃないかな。まことはいーかげんで、チャランポランで、みんな選べないとか言うやつだけどさ。……土壇場では変に真面目なんじゃないかな。順番で、選ぶんだよ」
少し笑いながら、でもその笑みの奥に、何かを隠すように。
「ほら、雛鳥ってさ、最初に見たものを親だと思い込むとか……言うでしょ?それ、それだよ」
敢えて軽々しく紛らわすような言い方。けれど、その言葉には、どこかで深い覚悟のようなものが滲んでいた。
「……なんてね。結局、自分は選ばれないんじゃないかって、その不安を納得させるために考えた適当な理屈なのかも。順番なら仕方ないなーって、思いたいだけ。だって、あたしがまことに告白したの、一番最後だから」
笑いながらも、飛鳥の視線はどこか遠くを見ていた。
「でも、それもたぶん嘘でさ。……本当は、瑞希は特別なんだと思う。誠は、どうしたって瑞希が好き。一番、好き。それには敵わない……そんな気がするんだよね」
しばらくの間、七海は何も言わず、そっと飛鳥の横顔を見つめていた。やがて、少しだけ空気を変えようとするように、言葉を差し出す。
「……あの人はニュータイプだから、みたいなことですか?」
それが、精一杯の冗談だったことを、飛鳥はちゃんとわかっていた。
「反応し辛いツッコミ方するねい、きみー」
そう言いながら、飛鳥は笑って、七海の肩を軽く肘でつつく。
「すみません、瑞希さんに影響されたのかも……」
ふたりは顔を見合わせて、ふっと笑い合った。その笑いには、苦さも、温かさも、やさしさも、すべてが混ざっていた。
***
カーテンの隙間から春の光が差し込み、白いシーツに揺れる影を落としている。七海が、おどけたように言った。
「えーと、でも今更ですが、わたしは選ばれないってことですか?」
飛鳥は肩をすくめる。
「そだねー」
「ちょっと、軽くないですかー飛鳥さん」
小さく笑いながら、七海が指で飛鳥の肩をつんと突く。飛鳥はわざとらしく身をよじって、お茶のカップを落としそうにする。
「危ない危ないっ」
「なんでかって言うとね?」
七海が目を細めると、飛鳥はふふっと笑ったまま答える。
「七海が選ばれたら、より寂しいから」
ふざけているような口調のまま、でもその言葉には、すっと通る芯のようなものがあった。七海は一瞬だけ、ぽかんとした顔をしてから、唇をすぼめた。
「……なんですかーそれ?」
「いや、ほんと。瑞希が選ばれても寂しいよ?でも七海が選ばれたら……わたし、たぶんもっと、寂しい。そんな気がするだけー」
何気ない風を装いながら、けれど、ちゃんと伝わるように。飛鳥の横顔には、茶化すような笑みの奥に、ほんの少し照れた気配があった。七海はそれをわかっていて、少しだけ目を細めた。
「……あれですか?瑞希さん風に言うと、“さびしんぼう同士、傷を舐め合う相手がいなくなるから”ってやつ?」
「まー、そうとも言えるのかな?」
飛鳥は小さく笑って、カップを揺らした。
「飛鳥さん、ひどーい!」
七海の声はわざとらしく明るかった。でもその明るさごと、ふたりのあいだには、やさしい余韻が残っていた。
***
「……瑞希のことも、本当は大好きなんだよ」
ぽつりと、飛鳥が言った。
「でもね、七海の方が……少しだけ、大好きなの」
その言葉は冗談混じりのようにも聞こえたけれど、語尾がやけに静かだった。七海は笑いもせず、ただうなずいて受け止めた。その
「少しだけ」
に込められた、わずかな逡巡と、たしかな情熱。軽く言ったふうに見せながら、飛鳥はきっと何度も心の中で考えたのだと、七海にはわかった。
「だからさ。七海が選ばれたら……二重の意味で寂しいの」
飛鳥は、カップを見つめたまま続ける。
「めちゃくちゃな論理で、わがままでしょう?」
その声には、自分自身への皮肉と照れが滲んでいた。七海は、ゆっくりと息を吐く。
「……本当ですね。賢い飛鳥さんとは思えぬ杜撰さですね」
声には笑みを含ませたが、ふざけてはいなかった。そしてそっと手を伸ばし、飛鳥の身体を横から抱き寄せた。思いがけない動きに、飛鳥はカップを持ったまま、わずかに驚いたような顔を見せたが、抵抗はしなかった。七海の腕が、優しく背にまわる。飛鳥は片手を上げて、そのまま七海の手に添えた。言葉はもう必要なかった。やさしく寄り添ったふたりの肩が、春の光の中でほんの少し震えていた。
***
飛鳥がぽつりと呟いた。
「……七海がお台場のナイトプール行ってた時さ、瑞希とわたしもお台場にいたのね」
「はい、二人でデートされたんですよね」
七海が優しい声で言う。
「……デートじゃないから。ご飯食べてただけ」
そう告げる飛鳥の声はどこか遠く、目線もふわりと泳いでいた。
「その時にさ、瑞希に“ずっと友達でいてくれる?”って聞かれたんだ」
七海は黙って聞いていた。
「で、わたし、“将来はわからないよ”って、言っちゃった。瑞希は笑って返してくれたけど……」
指先で、飛鳥はソファの縁をなぞった。
「でも、昨日みたいに話せるならさ。──ずっと友達でいられるんじゃないかな。そうも思ったの。無理なのかな?」
七海は静かに頷いた。飛鳥の身体を、そっと横抱きにしたまま。
「……わたし、名古屋から上京してきたって話、しましたよね」
「うん。名古屋のお嬢なんだよね」
「ちがいますってば!もう……。それは置いといて……」
「ごめんごめん。続けて」
少しだけ笑いながらも、七海は話し出す。
「高校の時、友達は少なかったんですけど……一番仲の良い子がいて。オタク友達で、一緒にゲームしたり、漫画貸し合ったり」
「へえ、七海の青春って感じ」
「……大学は別々になったけど、“仲良しでいようね”って約束して。文通っていうほどじゃないけど、メールも定期的にしてて」
「うん」
「このお部屋にも、一度遊びに来てくれたんです。昔と変わらない感じで、たくさん笑って、じゃあねって言って──」
七海はそこで少し言葉を切り、優しく飛鳥を揺らした。
「その後、二、三回メールのやりとりをして……それっきり、自然と途切れてしまいました」
「……喧嘩したの?」
飛鳥が真剣な声で問う。
「いえ、別に」
しばらく、ふたりの間に静かな空気が流れる。
「何があったわけでもないのに、距離ができて、疎遠になってしまう。そういうことも……ありますよね」
飛鳥のまなざしが、少しだけ柔らかくなった。
「お兄さんも……そうだったんじゃないですか?」
「うん。そうだね。喧嘩したわけじゃなかったのに」
七海は、そっと目を細める。
「住むところが変わったり、生活が変わったり……ただそれだけで、会う頻度って変わっちゃいますもんね」
そして、七海は横抱きにしたまま、飛鳥の体をゆっくりと左右に揺らした。
「……そんなものって、言ってしまうと冷たく聞こえるけど、人間にとって“距離”って、やっぱり今でも大きいのかもしれません」
飛鳥は何も言わなかったが、七海の手にそっと自分の手を重ねた。その温もりが、言葉の代わりだった。
***
七海がそっとハグを解く。立ち上がり、カップを手にとってキッチンへ向かう。すすぎながら、やわらかく声をかけた。
「アイ、音楽をかけて」
「了解しました」
返事とともに、部屋の空気に短音のピアノが流れ始める。淡く、ひんやりとしたアンビエント音楽。響きの粒が宙に浮かび、音の影が床に落ちる。飛鳥はその音に、しばし耳を傾けたまま黙っていた。七海が戻ってくると、彼女の隣に腰を下ろす。
「その人とはもう、完全に音信不通?」
飛鳥が問いかける。七海はひと呼吸置き、静かに頷いた。
「そうですね。メアドも変わったのか、もう届かなくなりました。絵が上手くて……どこかで同人誌とか描いてるんじゃないかなって。時々、名前で検索してみたりします」
「そっか……」
飛鳥はどこか遠くを見つめたまま、呟く。
「彼女とのメールに……えっちな、ど下手くそな小説とか送ってたので……発掘されたら、わたし、たぶん卒倒します」
照れ隠しのように笑う七海。飛鳥は少し目を細めた。
「その頃から、してたんだね……」
少し呆れたような声だったが、そこには優しい響きも混じっていた。七海はいたずらっぽく笑った。やがて、飛鳥が言う。
「やっぱり、大学生ってのは大きいかもね。すぐ集まれるから。お兄ちゃんとも最近メールするけどさ、言ってたのが住むとこが近くても、結婚とかすると生活リズムが変わって……一緒に遊ぶ機会って、やっぱり減るんだって」
「……そうですね」
七海もまた、遠くを見るような目をしていた。
「学生で、自由な時間があるから。こうして笑い合っていられるのって、きっと今だからなんでしょうね」
ふたりのあいだに、音楽の残響が、静かに広がっていた。それは、まだ言葉にならない気持ちの隙間を、そっとなぞるように。
***
飛鳥が、ふと呟くように言った。
「今は、夏なのかもね」
七海が首をかしげる。
「春なのに?」
「ううん……私たちにとって、ってこと。一番楽しい季節なのかもしれないなって」
静かな声に、少しだけ詩が滲んでいた。七海は目を細めて、やわらかく笑った。
「飛鳥さんも、やっぱりポエマーですね」
くすっと笑うその声に、飛鳥は顔を赤らめた。
「いらんこと言ったよ!」
恥ずかしさをごまかすように、勢いよく立ち上がる。七海はくすくすと笑いながら、ゆっくり腰を浮かせた。
「朝ごはんにしましょうか?」
「そうしよう、七海ママお願い〜」
「はいはい、飛鳥さんは寂しがり屋で甘えん坊ですからね」
そう言って、七海はゆったりと台所へ向かう。ピアノの音はまだ静かに鳴っていて、水音と重なっていく。窓の外から射し込む陽の光が、ゆっくりと床を染めていた。──暖かい空気が、部屋いっぱいに流れていた。
***
リビングのソファに、飛鳥は背中を沈めていた。片脚を抱えるようにして座り、視線はキッチンの奥へ。そこには、七海の背中。エプロンの紐が腰にきゅっと結ばれ、白いパジャマの裾がほんの少し揺れている。鍋に向かって、ゆっくりと木べらを回していた。
「世の男の大半はさ、七海みたいなタイプが好きだと思うんだよね」
声をかけると、少しだけ手が止まった。
「そうなんですか?」
振り返らずに返ってきた声は、相変わらずの丁寧さと、微かな照れ。
「うん。なんだかんだでさ、男ってやつは保守的だからね。七海みたいにお淑やかで、料理が得意で、風邪となれば甲斐甲斐しく看病してくれる……そういう“古き良き理想の女の子像”って、いまだに刺さると思うのよ〜」
木べらの音が、ことことと穏やかに響く。七海は肩越しに笑った。
「誰から聞いたんですか、それは……」
「例えばさ」
飛鳥は少し身体を傾け、天井を仰ぎながら続ける。
「文明が滅んだ未来とか無人島でも、七海がこうやって料理作ってる後ろ姿とか見たら、男はイチコロよ。“七海さんて家庭的なんだな……”って思って、すっ転ぶよ」
それを聞いて、七海はくすりと笑いながらも、ゆっくりとスープの味見をする。
「でもわたし、えっちな小説とか書いてて……お淑やかからは程遠いとは思いますが」
「うん、それは引かれる可能性高いと思う」
「……持ち上げておいて、最後は落とすんですね!」
「こういう上げ下げが、まだAIには難しいんだよね〜。感情の緩急ってやつ?」
しゃらん、と鍋の縁を木べらがかすめた音がして、七海は小さく息を笑いに混ぜた。
「……アイ、明るい曲をかけて」
「はい。春のお昼にぴったりなプレイリストを再生します」
リビングのスピーカーから、軽快なイントロが流れ始めた。モータウンの往年のヒット曲。軽やかで、心をほんの少し跳ねさせるようなリズム。
「……まだもうすこしだけ、こんな感じでもいいよね」
その声に、鍋の向こうで七海の笑みがふわりとこぼれたような気がした。外では、日差しがベランダの手すりを照らしていた。




