学食にて、これからの季節を語る
昼下がりの学食は、いつになく静けさに包まれていた。ざわめきや食器の音が響き渡るはずの空間に、今日は妙な余白があった。テラスに近い窓際の席。木肌のテーブルに、七海はひとり腰を下ろしていた。白いシャツの袖を肘までまくり、前に置かれた定食の湯気をじっと見つめている。豆腐と蒸し野菜の定食、小鉢のひじき、味噌汁。窓の外ではキャンパスに植えられた樹木が風に揺れていた。──今日の風は、秋にしても少し冷たい。肌に触れた空気に、自然と両手をこすり合わせたそのときだった。
「七海ちゃーん!」
明るい声が食堂の静けさを切り裂いた。ふと顔を上げると、トレイを抱えた瑞希が、まぶしい笑顔で歩いてくる。サラダに小鉢、色とりどりのデザート。まるで舞台の上を運ばれる小道具のように、彼女のランチは明るく彩られていた。
「七海ちゃんひとりでごはん?すこし黄昏入ってない?」
「え、あ、はい……ちょっとだけ。でも瑞希さんの顔見たら元気になりました」
「ンムフフ。そうでしょう、そうでしょう。スーパー瑞希ちゃんは太陽王とも呼ばれているからねー」
そのやり取りに、七海はつい微笑んで、箸を手に取った。向かいに腰かけた瑞希は、勢いよくストローをアイスティーに突き立て、ひと口飲むと話題を切り出す。
「まーくんのこと、ありがとね」
「え?」
「風邪、看病してくれたでしょ?」
「……あ、いえ。わたしは、少しだけ様子を見に行っただけで……」
そう言いながら、七海は視線を下げた。頬がほんのり赤く染まり、指先がトレイの端を弄る。
「えー、ほんとぉ?“少しだけ”って、同棲ごっことかしてたんじゃないのー?」
「そ、そんなっ、してませんよ……!」
「うそうそ、冗談だってばー。でもさ、七海ちゃんって、そういうとき甲斐甲斐しそうじゃない?」
「も、もう……やめてください」
軽口に、七海は箸の先で味噌汁の表面を静かに揺らした。やがて、七海がそっと顔を上げる。声の調子が、少しだけ優しくなる。
「……瑞希さんたちは、休日なにをされてたんですか?」
「わたしたち?飛鳥ちゃんと御成門のお祭り行ってたの!」
「お祭り、ですか?」
「うん。まぁ、ほぼ迷子で一日終わったけどねー。でも楽しかったよ。ふたりで将来のこと語り合って、誓い合って……」
「誓い合って……?」
七海が目を瞬かせた瞬間、背後から低めの声が割って入った。
「だからー、毎度まいど言うけど、誓ってねーから」
振り返ると、学食のトレイを片手にした飛鳥が立っていた。シャツの襟元を少し緩め、片眉を上げたまま、瑞希をじろりと睨んでいる。
「もう、また変な脚色してる……」
「えー、いいじゃん。物語は盛ってなんぼだよ!人間は想像力で難事を乗り越えてきたんだよ?」
「いやいや……瑞希は盛り過ぎどころか、ないところに煙を立ててるから!」
飛鳥がため息をつくと、瑞希がからかうように笑った。その何気ないやり取りを見て、七海もつい、笑みをこぼしていた。
***
瑞希はストローを指先で回しながら、いたずらっぽく口元を緩めた。氷がグラスの内側を軽く打ち、その音すらも明るい笑いの一部のようだった。
「ねぇ聞いて、七海ちゃん。こないだの飛鳥ちゃんが可愛くてさー」
「また始まった……」
向かいの飛鳥が眉間にしわを寄せる。
「お祭りの帰り道ね、『手、繋いでいい?』って聞いてきたの!もう、飛鳥ちゃん純情可愛すぎ爆弾だったんだから!」
「言ってねーし!」
「言ったよ!ぜったい言った!」
「瑞希の方からだろ、それ!」
「え、そうだっけ?」
「そうだよ!」
「でもさぁ、最後に手握ってきたのは飛鳥ちゃんの方じゃん」
「ち、ちが、ちがうもん!」
「ほらー、なんでそこで可愛くなるのー!もう、可愛すぎて罪だよ」
「やめろっ、そういう言い方やめろ!」
テーブル越しに交わされる声は、まるで音楽のフレーズのようにテンポよく続いていく。ボケとツッコミ、真顔と照れ隠し。その切り返しの速さが心地よく、七海は吹き出してしまう。くすりと笑ったつもりが、いつの間にか声がこぼれていた。胸の奥に、やわらかな熱が広がっていく。懐かしくて、ほっとする感触。笑うふたりを見ているだけで、何かがじんわりと溶け出していくようだった。飛鳥はむっつりと口を結びながら、冷たい水をぐいっとあおる。その隣で、瑞希はけらけらと無邪気に笑い転げていた。ふたりの間を、淡い秋の日差しが優しく撫でていく。──ほんとに、楽しそう。目の前にある光景に、七海はそっと息を吸い込んだ。笑っているはずの自分の胸に、ふと小さな疼きが差し込んだ。その正体は、まだよくわからない。グラスの中で、氷が音もなくかすかに崩れる。そのひとしずくの音だけが、昼の静けさにすうっと溶けていった。
***
笑いの名残がふっと落ち着いたその隙間に、七海が小さく息を吸って、ことばを運ぶ。
「……誠さんから聞きました。卒業までに、選んでほしいって」
テーブルの上で揺れたスプーンが、かすかに音を立てた。さっきまで無邪気に笑っていた瑞希と飛鳥の表情が、そっと止まる。
「……うん」
返事をしたのは飛鳥だった。声は細く、でもまっすぐに響いた。空気が変わる。三人の間に、透明な緊張がすっと差し込む。そのまま間を埋めるように、七海が続けた。言葉を選びながら、それでも心のままに。
「どうなるかわからないけど……わたし、大切にしたいです。誠さんも、皆さんのことも」
言い終えるころには、その声が少しだけ震えていた。それは不安ではなく、むしろ想いの深さそのものだった。誰も何も返さなかった。けれど、胸の奥で波紋のように重なっていく感情は、たしかに同じだった。窓の向こうで、木立が風に揺れる。薄く差し込んだ光がテーブルの上に広がり、氷が静かにきらめいた。
「……まーね」
最初に声を出したのは、瑞希。明るく息をつきながら、いつもの笑みを取り戻す。
「まだわたしたち、二年生だしね。卒業なんて、ずーっと先でしょ?まだ二年間以上あるし」
「四年になったら就職活動で忙しくなるよ。それに卒業までに決めるってことは、明日決めるかもしれないんだよ?」
飛鳥が横目で牽制するように眉を持ち上げる。
「まーくんがそんなすぐに決められるわけないじゃん。きっと卒業式の直前まで引っ張るよ。飛鳥ちゃんも言ってたじゃん、優柔不断なんだからって」
「……それは、そんな気がします」
「七海までひど!みんな、まことの決断力の評価低すぎない?」
「まーくんはあれだよ、夏休みの宿題を最後に慌ててやるタイプ」
瑞希がすかさず言い放つ。
「それは自分の話じゃない?」
「いやいや、こう見えてスーパー瑞希ちゃんは早めに片付けてしまうタイプでしたー」
「自分からこう見えて、って言ってるよこの人」
「そこは意外性の前置きなんだよ、前置き」
また、テーブルの上に笑いが戻ってきた。飛鳥はあきれたように肩をすくめ、七海は静かに笑みをこぼす。
「七海ちゃんも、ちゃんと早めに宿題やる方だったでしょ?」
「はい……でも、自由研究だけ苦手で、ギリギリまで手付かずでした」
「あー、それは分かるー!」
瑞希が身を乗り出すようにうなずく。
「飛鳥ちゃんは色々言ってるけど、きっと最後まで残すタイプだよね」
「そ、そんなことねーし」
「顔に出てるよ飛鳥ちゃん。意外にポンコツだよね。就職のビジョンもわかないんだもんねー」
「やめろー!訳知り顔で肩ぽんぽん叩くなー!」
「うちで雇ってあげてもいいんだよ?」
「なんで雇用側前提になってるんだよ!」
言い合いがどんどん転がって、笑い声がふたたび弾けた。
***
そよいでくる風が、木の葉を優しく揺らしている。
「……夏が終わっちゃったのは寂しいけどさ」
瑞希が、スプーンの柄をゆっくりと指先で回しながら、微笑んだ。
「秋は秋で楽しみだよね。秋刀魚、栗ご飯、柿……いっぱいあるよー」
「全部食べ物ばっかじゃん」
飛鳥が眉を寄せて、あきれたように呟く。
「ほんと、前も言ったけど、なんでそんなに食べてそのスタイル維持できるんだろうね……」
「ンムフフ。スーパー瑞希ちゃんだからですー」
「相変わらず意味わかんない」
肩の力が抜けたような笑いが重なった。その音は、まだ少し夏の名残を引きずっているように、軽やかだった。七海はそっと箸を揃えながら、穏やかに口を開いた。
「また皆さんで旅行にも行きたいですね」
「行きたーい!」
すかさず瑞希が手を挙げる。
「……うん、行きたいね。前の旅行、楽しかったもんね」
飛鳥の声は、照れたような色を帯びていた。
「あれ、飛鳥ちゃん、顔赤いよ?えっちなこと考えてない?前回のこと思い出していた?うんうん、あの時は凄かったもんねー」
「ちげーよ!」
ぱしん、とテーブルを叩く飛鳥の動きに、笑いが弾ける。
「それでさ、冬になったら、やっぱり鍋だよね!うーん、楽しみー!」
「食べ物しか出てこないのか、このひとは……」
「またうちでパーティとか、しませんか?」
七海の提案に、飛鳥が頷く。
「クリスマスにみんなで集まるとか……」
「すてき!やろうやろう!」
瑞希の声が跳ねる。
「もしクリスマスに七海ちゃんとまーくんだけデートとかだったら、また寂しん坊同士で傷を舐め合うところだったよ」
「わたし呼び出す前提なのかよ……」
「呼ばれなかったらそれはそれで寂しいでしょ?」
「……それはまあ」
「珍しく素直で、飛鳥ちゃんやっぱり純情可愛い問題じゃん」
「うるさいうるさいうるさい」
楽しげな笑い声が、テーブルの上で跳ね回る。誰かが食器を重ねる音と重なって、空気がほんのりとあたたかくなった。七海はその光景を眺めながら、微笑を浮かべる。
「まあまあ……いずれにしろ、“お楽しみはこれからだ”ってことですね」
「そういうこと!」
「だね」
瑞希が嬉しそうに手を叩く。飛鳥も小さく頷いた。窓の外では、季節の変わり目を告げる風が木々を渡っていく。空の色が、ゆっくりと淡い金に変わりはじめていた。光が差し込んで、三人の頬をやわらかく染める。誰も言葉にはしなかったけれど。──この時間が、長く続いてくれますように。そんな祈りが、透明な空気の中に、ふわりと溶けていった。
***
三人は席を立ち、各々トレーを手に取った。食器を重ね、肩を並べて返却口へ向かって歩き出す。
「ね、やけに学食、空いてない?」
瑞希が何気なく視線を巡らせながら首をかしげる。
「最近ずっとこんな感じだよ」
飛鳥が少し気だるげな調子で返した。
「学食に限らず、ゼミも欠席してる方、多かったですね」
七海の言葉には、わずかに心配の色が滲んでいた。
「ねー。なんか、風邪流行ってるみたい」
瑞希がトレーを持ち直しながら続けた。
「まーくんは軽くてよかったけど。みんなも気を付けないとね」
「七海は大丈夫なの?」
飛鳥がちらりと目を向け、探るように問いかける。
「え、ピンピンしてますよ?」
「ふーん」
「えっ……あ!わたし、なにかカマかけられてます?」
「いやあ、どうかなあ?」
瑞希が口元に含みを残した笑みを浮かべる。飛鳥が少し前へと体を傾け、七海の顔をじっと覗き込んだ。
「な、なんですかもう……!」
七海の頬が見る間に赤く染まっていく。その様子に、瑞希がお腹を抱えて笑った。
「七海ちゃんも、やっぱり可愛いよね」
「もー、いじわるです……」
照れたように目を伏せながらも、七海も微笑む。カシャン、とトレーを置く音が小さく響いた。それが、広い食堂の中に澄んだ金属音のように残った。窓の外では、風が少しだけ強まっていた。舗道の端でひとひらの落ち葉が舞い、ふっと空に吸い込まれていく。それでも、三人の笑い声は消えずに続いていた。食堂の奥へと向かうその背中に、まるで、この時間だけが永遠のままであるかのような、やわらかな余韻を残して。




