瑞希と飛鳥の御成門デート、お祭りにたどり着けずにグルグルする
午後二時すぎ。御成門の出口から吹き抜ける風は、もう夏のそれではなかった。涼しくて、どこか乾いていて、ビルの影が少し長い。飛鳥は階段を上がりきったところで足を止めた。人の流れが途切れた一瞬、空の青が目に沁みた。――秋だな。そんな言葉が自然に浮かぶ。スマホを見れば、瑞希からのメッセージ。
>ごめん、五分遅れる!
いつものことだ。もう慣れた。
(どうせまた、服選びで遅れたとかでしょ)
ため息をつくつもりが、少し笑っていた。通知がもう一つ。七海からだった。>誠さん、風邪をひかれたみたいなので……少しだけお見舞いに行ってきますね指先が一瞬止まる。まこと、風邪ひいちゃったのか……。きっと無理したんだと思う。いつかの時も夜までゼミの資料作ってたっけ。思い出すと、胸の奥が少し痛む。そのとき、階段の下から明るい声が響いた。
「飛鳥ちゃーん!」
秋色のスカートがひらりと揺れて、光を反射する。瑞希が小走りで駆けてきた。いつものように、無邪気で、あざとくて、憎めない笑顔。
「おまたせっ、遅れちゃった」
「うん。知ってる」
「ごめんなさい!ねぇ、怒ってる?」
「怒ってない」
「ほんと?」
「……ちょっとだけ。まあ、でも許してやろう」
「可愛い〜!」
笑いながら瑞希が飛鳥の肩を軽く叩く。ほんのり香るホワイトムスク。飛鳥はわざとそっぽを向いた。瑞希がスマホを開く。
「あ、七海ちゃんから来てるじゃん。まーくん、風邪だって!」
「うん。デート中止だよねこれ……」
「うわぁ、それは残念。……でも、七海ちゃんが行ったなら安心だね」
「そうだね、看病するなら七海が適任だよ。どう考えてもわたしたちより役に立つから」
「おう、飛鳥ちゃん珍しく自己評価低いじゃん」
「うるさいうるさいうるさい」
突っ込み合って、それで空気が少しゆるむ。風が頬をなで、木の影が地面を揺らした。誠のことは少し心配だけど、七海がいれば大丈夫なはず。それぞれ七海を応援するメッセージを送る。飛鳥がふと思い出したように言う。
「……ねぇ瑞希、最近、わたしやたらと呼び出されてない?」
「ん?」
「七海とまことがデートの日、だいたいこれでしょ。“飛鳥ちゃん、出かけよ”って」
「まーまー!」
瑞希は両手を振って、笑顔のままごまかす。
「でも飛鳥ちゃんもさ、呼ばれたら絶対来るじゃん。さすが義兄弟!」
「だから違うし」
「はいはい、さびしん坊同士、今日も傷を舐め合おうよ」
「やめて!その自己卑下極まったやつ!」
瑞希がケラケラ笑う。飛鳥は小さくため息をついたが、その顔はどこか楽しそうだった。風に混ざって、遠くの街のざわめきがやわらかく響いた。二人の影が並んで伸びて、秋の光の中で重なっていた。
***
今日は、瑞希が芝公園で秋祭りをやっているらしいから、見に行こうと言い出したのだ。芝公園の入り口に着いたころには、太陽が少し傾きかけていた。木々の隙間を通る風が涼しく、どこか懐かしい匂いがした。
「ねぇ飛鳥ちゃん、こっちの方でいいんだよね?」
「“こっちの方”って何。どの方」
「たぶん、こっちの方!」
根拠のない自信。でもそれが瑞希らしい。飛鳥は結局その背中を追いかける。休日の公園には、家族連れや観光客がちらほら。ランナーの靴音が通り過ぎ、遠くで子どもがはしゃぐ声がする。どこにも“祭り”の気配はなかった。
「ほんとにやってるの?」
「やってるって。……たぶん」
「また“たぶん”」
「うん、たぶんの精度は上がってる」
「どこ情報それ」
「わたしの嗅覚、お祭りレーダーだよ」
「……一番あてにならないやつ」
瑞希は歩きながらスマホを覗き込んで、何度も地図を回転させる。飛鳥が覗き込むたびに、矢印がくるくると反転していた。
「え、あれ、いま北どっち?」
「こっち」
「え、じゃあ、いまどっち向かってる?」
「さっきからずっと逆」
「うそっ!?えー、なんでー!」
声を上げて笑う瑞希に、飛鳥も思わず吹き出す。ふたりの靴音が重なって、落ち葉を踏む。道の先に東京タワーが一瞬見えて、すぐビルに隠れた。少しだけ風が冷たくなる。頬を撫でる風が、昼よりも乾いていた。しばらくして、ふたりは同時に立ち止まる。見覚えのある横断歩道。同じ自販機。
「……ここ、さっき通らなかった?」
「うそ。マジで?」
「うん。……秋の輪廻」
「なにそれ、こわっ。呪いのループ?」
瑞希は笑いながら頭をかいた。
「でも、こうやって歩くの、けっこう好きかも。なんか……青春ぽいでしょ?」
飛鳥は呆れ顔のまま、でも口元がゆるんでいた。日が少し傾いて、木の影が長く伸びる。
***
歩き疲れた足を、どちらからともなく止めた。ふと見上げた先に、東京タワーが見えた。夕方の光を受けて、鉄骨が赤く滲んでいる。まるで夏の残り火みたいに。
「ねぇ、ちょっと休もう」
瑞希がそう言って、手のひらをひらひらさせた。飛鳥も無言でうなずく。タワーのふもとに近づくにつれて、人の波が濃くなる。外国語が飛び交い、カメラのシャッター音が絶えない。売店のBGM、観光バスの案内、アイスクリームの甘い匂い。全てが、まだ“夏のテンション”のままだった。
「……すご。人、こんなにいるんだ」
「ほんと。なんか、わたしたちだけ季節ズレてない?」
「ズレてる。完全に」
ふたりは笑って、空いたベンチを探す。だがどこも満席で、観光客の笑い声にかき消される。
「ねぇ飛鳥ちゃん、東京タワーって、永遠に八月の空気してるよね」
「八月、っていうより、修学旅行」
「それ、めっちゃ分かる」
笑いながら、瑞希が売店に向かう。すぐ戻ってきたとき、手にはカップアイスが二つ。
「ほら、これ。半分こね」
「子どもか」
「いいじゃん、甘いの食べたら幸せになるでしょ」
木陰の段差に腰を下ろし、ふたりでスプーンを交わす。バニラの冷たさが舌に触れて、熱を奪う。それなのに、頬の内側はなぜか熱い。人のざわめきの向こうで、風がひとすじ抜けた。金木犀の香りが微かに混じる。飛鳥がふと呟く。
「……まーくん、もう寝てるかな」
「どうだろ。まだ熱あるかもね」
短い会話のあと、静けさが戻る。アイスのスプーンを回す音が、やけに大きく響く。人の多い場所なのに、ふたりだけが時間から少し外れていた。飛鳥は空を見上げた。タワーの展望台のガラスが夕日を映して、黄金色に光っている。世界はまだ、あたたかかった。けれど風はもう、秋の匂いをしていた。
***
東京タワーのふもとを離れて、しばらく歩いた。夕方の陽射しは、少し赤みを帯びていた。アスファルトがゆっくり冷めていく。その温度の変化が、季節の変わり目を教えてくれる。
「ねぇ飛鳥ちゃん、“もみじの滝”って知ってる?」
「滝?この辺に?」
「そう。地図に書いてあるの。名前が可愛いでしょ?」
「……まぁ、響きは涼しそう」
「でしょ?ちょっと寄ってみようよ」
「どうせまた、“たぶん”のやつでしょ」
「ふふっ、今回は“わりと確かに”!」
根拠のない自信。それでも飛鳥は止めなかった。ほんの少しだけ、静かな場所に行きたい気分だった。木々の間を抜けていくと、空気が少ししっとりしてくる。遠くで蝉の声がひとつ、遅れて鳴いていた。その音が風に溶けて、すぐに消える。階段を降り、木陰の向こうに“もみじの滝”と書かれた小さな石碑が見えた。しかし――滝は、流れていなかった。苔むした岩肌だけが、夕日に照らされて光っている。
「……あれ、滝どこ行ったの」
「……滝、休暇中」
「まさかの働き方改革?」
「うん。水もたまには休みたいらしい」
瑞希が笑う。その笑い声が、止まった空間に柔らかく響く。飛鳥は小さく息をついて、石段に腰を下ろした。
「……なんか、夏がほんとに終わったって感じ」
「そうだね」
「ねぇ飛鳥ちゃん、こうやって季節が変わるのって、ちょっと寂しくない?」
「……寂しいけど、嫌いじゃない。終わりがある方が、ちゃんと覚えてられるから」
「めちゃポエム言うじゃん!飛鳥ちゃん詩人!」
「言わなきゃよかったよ!」
このこのーと飛鳥を押しながら、瑞希は隣に腰を下ろした。頬に当たる風が、やわらかい。木々の隙間から見える空は、もう夕暮れの色をしている。風が吹いて、落ち葉が一枚、足元に落ちた。それがふたりの間にそっと止まる。瑞希がそれを拾い上げて、笑った。
「ねぇ、これ持って帰ろ」
「なんで?」
「今日の思い出。滝が止まってた記念日」
「そんな記念いらない」
「ふふっ、いいじゃん。こういうの、いつか思い出すよ」
「瑞希もポエマーじゃん」
飛鳥は小さく笑った。
***
日が傾いて、風が少し冷たくなっていた。瑞希が地図を拡大して、指でなぞった。
「……あ、ねぇ飛鳥ちゃん。お祭りの会場、こっちの裏っぽい!」
「裏?」
「うん、御成門の裏手。ぜんぜん違う方向行ってた」
「ほらね。だから言ったじゃん」
「言ってたねぇ……ふふっ」
瑞希が笑って駆けだす。その背中が、夕焼けの光に包まれて、少し眩しい。細い路地を抜けた先に、小さな広場があった。提灯が等間隔に吊られ、淡い橙の光をこぼしている。屋台がいくつか並んでいたが、客は少ない。神社の奥から、日本の古いパンクバンドの曲が流れていた。音量だけがやけに大きくて、風に揺れる提灯がそのリズムに合わせて微かに震えていた。
「……え、BGM、これで合ってるの?」
「どうなんだろう、なんかヤケっぱち感あって、悪くない気もする」
瑞希は笑って、焼きそばの屋台を覗き込む。店主が少し疲れた顔で、鉄板の上をゆっくり混ぜていた。
「人、すくないねー」
と瑞希が声をかけると、
「ほんと、まいっちゃうよ」
と男は笑って返した。並ばずに焼きそばを買って、唐揚げとたこ焼きもひとつずつ。二人で分けるには多すぎる量。でも、そんなことはどうでもよかった。広場の隅に、石段があった。ふたりはそこに腰を下ろす。薄くなった空の色と、提灯の橙が混ざって、肌の上にあたたかい影を落とす。
「……なんか、さ」
瑞希がふと呟く。
「こういう小さいお祭り、落ち着くね」
「うん。静かでいい」
「派手じゃないけど、ちゃんと夏の残り香がする」
飛鳥は唐揚げをひと口食べて、うなずいた。
「……あんまり人いないのに、ちゃんと音楽が鳴ってるの、いいね」
「たしかに。なんか……がんばってる感じする」
二人で笑う。笑いながら、瑞希が焼きそばのパックを差し出した。
「飛鳥ちゃん、これ食べる?熱いから気をつけて」
「ん、ありがとう」
「あ、待って、紅しょうが多めに入れちゃったかも」
「いいよ、好き」
「ふふっ、ちょっと意外」
笑いながら、ふたりの肩が少し触れた。夜風が通り抜けて、髪がかすかに触れ合う。ほんの一瞬、飛鳥は顔を上げる。提灯の光が瑞希の横顔を照らしていた。明るくて、やさしくて、ちょっと寂しそうだった。パンクバンドの直線的なビートが公園に響く。音は少し遠く、風に混ざって揺れていた。提灯の灯りが、秋の夜気の中でふわりと揺れる。人の少ない祭りの光が、どこかで終わりかけの花火みたいに見えた。
***
焼きそばのパックがほぼ空になって、瑞希がたこ焼きをつまんだ。熱さに顔をしかめながら、ふーふーと息を吹きかける。
「ん、これ、うまっ」
「さっきから三回は言ってる」
「だってほんとにおいしいんだもん」
笑いながら、ふたりの間を風が抜ける。提灯の灯りがゆれて、夜がすこし深まった。少しして、飛鳥がぽつりと口を開いた。
「ねぇ、瑞希はさ……将来どうしてるとか、考える?」
「んー?あれ?就職とかそういうこと?」
「まぁ、そんな感じ」
瑞希はたこ焼きの舟を見つめたまま、唇の端を上げる。
「そうだねぇ。スーパー瑞希ちゃんは、賢くて可愛くて愛嬌あるから、なんにでもなれるんじゃないかな?国民的女優さんとかー、ニュースキャスターでお茶の間の人気者、あるいはスーツの似合うバリキャリ総合職とかもありかも?声がいいから声優とか?」
「……おめーはそれでいいや」
「冷たいなー!せっかく夢見てんのに」
瑞希が笑って、たこ焼きをもう一つつまむ。飛鳥は小さく肩をすくめた。
「七海ちゃんは、やっぱり作家かな?」
「うーん、どうかな。本人は“働きつつ書けたら“って言ってた」
「やっぱり現実的だね……そういうとこしっかりしてる」
「あなたが夢見がち子だからね」
「ひどい!いぶりがっこみたいな言われ方!」
瑞希がわざとらしく両手を掲げる。いちいちオーバーなんだよ、と飛鳥は睨む。
「そういう飛鳥ちゃんは?」
「……わたしは、なんか、特になりたいものとかないんだよね」
「え、そうなの!てっきり“意識高い仕事に就くぞ!”ってタイプかと思ってた」
「ううん、違う。特にビジョン浮かばないんだ。意外に、わたしなんてそんなもの。就職浪人とかして、そのまま定まらず引きこもってたりして」
「あらー今日はほんと、珍しく自己卑下するじゃん。わたしの自信、分けてあげようか?」
「あなたはありすぎなんですよ!」
「いひひ」
瑞希が楽しそうに笑う。たこ焼きの爪楊枝をくるくる回しながら、ふと声を落とす。
「ねぇ、七海ちゃんね、前に言ってたんだ。“飛鳥ちゃんに編集者になってもらいたい”って。二人三脚でお仕事できたら幸せ、って」
「……七海が?」
飛鳥の手が止まる。唐突に胸の奥が熱くなった。驚きと、それ以上に、じんわりと広がる嬉しさ。
「嬉しいけど……でも、そんな才能、私にはないよ」
「またまた〜。どうした今日の飛鳥ちゃん、ネガティブちゃんじゃん」
瑞希が笑いながら、飛鳥の頭をぽんぽんと撫でた。
「やめろよー」
嫌そうに言いながらも、飛鳥は動かない。提灯の灯が髪に反射して、やわらかく光っていた。その光の下で、ふたりの笑い声が小さく溶けていった。風が通り抜けて、夜空がほんのり冷たい。遠くのスピーカーから、まだパンクバンドの声が響いていた。
***
笑い声がひとしきり落ち着いたあと、ふたりの間にゆるい間が流れた。唐揚げの袋が風でかすかに鳴る。飛鳥が、ふと思い出したように顔を向けた。
「……ていうか、七海がそんな話、どこで出したの?」
「ん?ああ、それねー」
瑞希は髪を指でいじりながら、わざと勿体ぶるような声を出す。
「こないだ、ふたりで中野とか高円寺あたりをデートしてて、その時に話したの」
「……えっ、高円寺?」
「そうなの〜!」
瑞希の声が、まるで“とっておきの爆弾”を投下するみたいに弾んだ。
「飛鳥ちゃんとまーくん、ラーメン屋で楽しそうにしてたよねぇ」
「は、はぁ!?なにそれ!あそこ、いたの!?」
「いたよ〜。L字席の隅で見守らせて頂きました」
「なんで声かけてくれなかったん……いや、声かけなくていい!見なくていいから!」
「照れるな焦るな〜。飛鳥ちゃんてば、まーくんと二人きりだからテンション三割増しでさ、めちゃくちゃ可愛かったよね~」
「やだもう……!」
飛鳥が顔を真っ赤にしてジタバタする。瑞希は笑いながら追い打ちをかける。
「ちなみにね、あのあと“このままホテルに消えるんじゃないか、現場押さえよう!”って提案したら、七海ちゃんに止められました〜残念」
「当たり前だよ!悪趣味泥棒猫め!」
「どんなもんだい!」
「なんで勝ち誇ってんの!?」
ふたりの声が重なって、屋台の人が思わず笑った。風が提灯をゆらし、BGMの音が少しだけ大きくなる。その笑い声の中に、秋の夜の涼しさと、ほんの少しの温かさが同居していた。
***
屋台の灯りが少し落ち着いて、人の声も遠くなった。風が通り抜けるたび、提灯がゆらゆらと揺れて、光の輪が地面を撫でた。たこ焼きの舟を片付けながら、飛鳥がぽつりと呟いた。
「……さっきのさ、未来の話だけど」
「うん?」
「瑞希は、まこととの未来予想図とか……あるの?」
瑞希はすぐに顔を上げ、目を輝かせた。
「よくぞ聞いてくれました!あるよー。結婚して子供に恵まれて、楽しい家庭を築くの」
両手を広げて、誇らしげに言う。
「わたしそっくりの可愛い子をめちゃくちゃ甘やかしてあげるんだ。お誕生日は手作りケーキでお祝いするのー。きっとかしこに育つから、卒業生代表とか選ばれるかもー。想像するだけで泣けてきちゃうね」
「……」
飛鳥は、一瞬だけ言葉を失う。瑞希の家庭環境が複雑だったことを、彼女は知っているから。その“理想”が遠い願いから来ているのかもしれないことを。言葉を探していると、瑞希が笑って続けた。
「あれだよ?わたしの過去とかあんまり関係ないからね。ただ、まーくんと幸せな家庭ができたらいいなーってぐらいの話」
飛鳥は視線を落として、若干歯切れ悪くうなずいた。
「……そっか」
提灯の光が二人の間に淡く落ちる。沈黙が少し続いてから、瑞希が笑って尋ねた。
「そういう飛鳥ちゃんはどーなのよ」
「わたし?」
「うん。未来予想図。まーくんとどうなりたいのよ。ほら言ってみ、うりうり」
「……わたしは、子供とか苦手だし、結婚とかあんまり実感湧かないから」
飛鳥は少し息をつき、言葉を選んだ。
「まことと一緒にいれたらいいなって。それで十分」
瑞希が一瞬だけ目を丸くして、それから声を弾ませる。
「でたー、飛鳥ちゃん純情可愛すぎる問題!」
「なにそれ」
「はいはい、よしよし〜」
瑞希が手を伸ばして頭を撫でようとするが、飛鳥がサッと腕でブロックした。
「やらせねーから!」
「つまんな〜い!」
「うるさい!」
本気ではない、じゃれるような取っ組み合い。ふたりともふざけ疲れたように、同時に息を吐いた。
「……じゃあさ」
瑞希が少しだけ柔らかい声で言った。
「わたしの可愛い子を一緒に育てるとか、どう?飛鳥お姉ちゃん、って呼んでもらってさ」
飛鳥は一瞬驚いたように目を見開き、それから儚げに笑った。
「うん、瑞希の子供ならきっと可愛いよね。……そう出来たらいいなって、わたしも思うよ」
風が止まり、空気が少し重たくなる。瑞希が、ばつの悪そうな笑い方をした。
「……あんまり現実的ではないよね。夢見がち子だよね、わたし」
「うん、それはそう」
すこしだけ、寂しそうな笑い方だった。
***
飛鳥は、ぽつりと口を開いた。
「……こないだの高円寺のデートの時にさ」
「うん?」
「まことに言ったんだ。卒業までにどうするか、誰を選ぶのか決めて欲しいって」
瑞希は笑わずに、静かに聞いていた。いつもの軽口が消えて、目の奥が真っすぐになる。飛鳥は視線を落として、少しだけ肩をすくめた。
「さっき言ったけど、わたしは結婚も子供もいらないんだ。でも、それってわたしのエゴだからさ。誠の気持ちで、決めて欲しいって言った」
風が提灯を揺らす。オレンジの灯がふたりの頬をゆっくり撫でていく。瑞希はしばらく何も言わなかった。目を伏せたまま、指先で紙コップをいじる。やがて、思案するように口を開いた。
「……じゃあさ――」
「瑞希」
飛鳥が小さく遮った。あえて軽く、でもどこか揺らぐ声で言う。
「“結婚も子供もやめる”とか言わないでね?わたしのせいで、そんなのしんどくなるじゃん」
瑞希は顔を上げた。目の縁が、少しだけ潤んでいた。もしもこのまま三人の関係が続けられるなら――そんな考えが頭をかすめる。けれど、それは口に出してはいけない種類の願いかと思う。飛鳥は、それを見抜いたように、わざとぶっきらぼうに言った。
「それにさー、まことが瑞希選ぶとは限らないでしょ?」
「え?」
「ていうか、わたしに夢中だろうし」
唐突な冗談。そのわざとらしさに、瑞希は思わず吹き出した。優しい茶化し方だった。涙が笑いに変わる瞬間。
「そうだね。飛鳥ちゃんは可愛いから」
「なんだよー、その返し。調子狂うだろ、そんなの」
「ふふっ」
ふたりは笑った。提灯の灯りが、風に揺れて重なり合う。笑い声が消えたあと、短い沈黙。夜の匂いが濃くなり、遠くの街の明かりが滲んで見えた。瑞希は胸の奥に、言葉にならない痛みを抱えたまま、それでも笑っていた。――この瞬間を、きっと忘れたくない。飛鳥は、その横顔をちらりと見て、何も言わずに焼きそばの容器をたたんだ。
***
夜が降りてきていた。屋台の灯がまばらに残る会場を、ゆるい風が抜けていく。パンクバンドの音はもう遠く、代わりに虫の声がかすかに混ざる。
「……まー、やっぱりぜんぶ、まことが悪いよ」
「へ?」
「最初に“三人とも選べない”とか、虫のいいこと言ってさ。優柔不断にしてきたツケが回ってきたってことだね」
「飛鳥ちゃん、打って変わってしんらつー」
「全部ほんとのことじゃん?」
瑞希は肩をすくめて、笑いながら紙コップを揺らした。中の氷がカランと音を立てる。
「そうなんだけどさ。でも、そうだったからこそ体験できたこともあったと思うよ」
「……」
「三人でいられて、もっと仲良くなれたっていうか」
飛鳥は何も言わずに頷いた。その沈黙に、同意と寂しさが混ざっていた。風がまた吹く。夏の匂いはもうない。少し冷たい空気が、頬をかすめていった。ふたり同時に、無言で東京タワーを見上げた。光が滲んで、街のざわめきが遠くに聞こえる。
「ねぇ、飛鳥ちゃんさ」
「うん?」
「……お台場でデートしたことあったでしょ?」
「デートじゃないけどね」
「もう!話の流れに合わせようよ〜!」
飛鳥が苦笑する。
「はいはい」
瑞希は少し身を乗り出して、懐かしそうに言った。
「将来のことは分からないけど、今はここにいるよ――って、あのとき言ってくれたでしょ?」
「そんなキザなこと、わたし言った?」
「言ったよ!」
瑞希の声が弾む。思い出を掘り出すような明るさだった。手を伸ばして、飛鳥の頭に触れようとする。だが、飛鳥がサッと腕を上げてブロックした。
「やらせねーから」
「もー、素直じゃないなぁ」
「……あれはさ、ビュッフェで飲んで酔っ払ってたから」
「ビュッフェにアルコールはなかったよ!」
「そうだっけ?」
「そうですー」
二人のやりとりがまた笑いに戻る。灯りの下で、笑顔がやわらかく照らされた。瑞希は少し息を整えて、飛鳥をまっすぐ見た。
「……あれ、すごく嬉しかったよ。きっと忘れないと思う」
「またキザなことを……ポエマーじゃあるまいし」
飛鳥が顔を逸らす。でも、その頬はほんのり赤い。
「ねぇ、飛鳥ちゃん純情可愛すぎ小町だからねー」
「は?なにそれ」
「こうしてやる〜!」
瑞希が隙をついて、飛鳥の頭をわしゃわしゃと撫でまわした。髪がくしゃくしゃになって、飛鳥が悲鳴を上げる。
「こいつ、やりやがったな!」
「ふふっ、ざまぁみろー!」
「やめろっ、ほんとやめろー!」
ワチャワチャしながら、ふたりの笑い声が夜風に溶けていく。提灯がかすかに揺れ、秋の光が二人を包んでいた。風はもう冷たい。でもその夜の空気は、どこか優しく、ふたりの間に確かにあたたかさを残していた。
***
祭りの音が少しずつ遠くなっていく。公園を出て、二人は並んで歩いていた。芝公園の木々の隙間から、東京タワーの光がちらちらと覗く。遠くからまだ人の笑い声と、後片づけのざわめきがかすかに聞こえる。夜の風はもう秋の匂いだった。ほんの少し冷たくて、でも心地よい。瑞希がふいに声をあげる。
「ねぇねぇ、今頃さ……」
「まことと七海、えっちしてるかも」
「うわー、わたしのネタ先に言われた!」
「毎回やられるのも癪だしね」
ふたりの笑い声が、夜道に響いた。信号の赤がふわりと二人の頬を照らす。
「まーでも、まーくん風邪ひいてるのに、さすがにそれはないかな?」
「どうかなー。来週の七海が風邪ひいてたらガチかな」
「やだあ、飛鳥ちゃん、そういうこと言う子じゃなかったのにー!虫も殺せない子だったのに!」
「あなたに育てられた覚えはないよ!」
ふたりとも笑いながら、肩をぶつけ合った。夜の空気が、笑いに混じって少し揺れる。
「ね、手、つないでもいい?」
「なにそれ。しかもこのタイミングで?」
「いいじゃんいいじゃん」
「……仕方ないな」
飛鳥が唇を尖らせ、少しだけためらってから、手を伸ばす。瑞希の手がその指先に重なった。思っていたよりも、あたたかかった。冷えた夜気の中で、そのぬくもりがはっきりと伝わる。瑞希が微笑んだ。
「ふふふ、ちょっとくすぐったいかも」
「なんだよー、やめるか?」
「やめないー」
笑いながら、二人はそのまま歩いた。東京タワーの灯が、頭上で静かに瞬いている。風が吹いて、髪が少し乱れる。でも、もう寒くなかった。笑い声が遠ざかり、夜の中に溶けていった。




