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飛鳥、夢に見る、しあわせのかたち

 シーツの上、ふたりは静かに横たわっていた。熱が引ききらない肌と肌が、ぴたりと寄り添っている。ベッド脇のライトが淡く滲み、柔らかな影が壁に伸びていた。誠はそっと飛鳥の頬に指を這わせ、微笑む。

「満足いただけたでしょうか、お嬢さま」

 その声音に、飛鳥がふふっと笑った。芝居がかった口調で、わざとらしく顎を引く。

「うむ、大満足じゃ」

 誠が吹き出し、飛鳥もつられて笑った。笑い声が、カーテンの隙間から洩れる夜風に乗って消えていく。

「苦しうない。褒美をとらそう。……もそっと近う寄れ」

 細い指が、誠の顎を引き寄せる。ふたりの距離が、そっと、零れる吐息ほどになった。次の瞬間、飛鳥の唇が触れる。舌先がやわらかく伸びて、誠の唇をなぞる。遠慮も、急ぎも、どこにもなかった。ただ、深く、愛おしさに導かれるままに。彼女の舌が、静かに交わりを求める。重なった唇のあいだから、呼吸と熱が溶け合っていく。誠は目を閉じ、すべてを受け入れた。腕の中で、飛鳥の体温が確かに伝わってくる。彼女の心が、やわらかな舌の動きとなって、誠の奥へと届いていた。やがて、キスがほどける。けれど、顔の距離は離れない。飛鳥のまなざしが、潤んだ光を湛えていた。

「……まこと」

 その一言が、胸の奥で小さく弾ける。愛されていること。愛していること。そのすべてが、言葉よりもはっきりと、唇を通じて伝わっていた。誠は、飛鳥の髪をそっと撫でる。それは祝福のようであり、祈りのようでもあった。ふたりの夜はまだ終わらなかった。言葉も、体温も、想いも――すべてが繰り返し、溶け合っていくようだった。

 

 ***

 

「……いっぱい愛してくれて、ありがとう」

 飛鳥の声は、まどろみのなかで溶けかけていた。首をすり寄せるようにして、ぬくもりを確かめる。誠はその額にキスを落としながら、優しく応える。

「こちらこそだよ。……ほんとに」

 飛鳥が、そっと手を伸ばす。その指先が、シーツの間に眠る象徴を撫でた。慎ましく、いたわるように、名残惜しそうに。

「あーあ。わたしにも、これがあればいいのに」

 誠は笑って、彼女の指をそっと握った。

「どうして?」

「……もっと、誠を喜ばせてあげられるんじゃないかなって。わたしみたいに……」

 そう言ったあとの、飛鳥の頬がほんのり赤く染まる。目をそらし、照れたように唇を尖らせるその仕草が、たまらなく愛しい。

「そんなことないよ。もう、十分どころか……何もかも、飛鳥からもらった」

 言葉の代わりに、ふたたびキス。まぶたを閉じて、唇を重ね、吐息を溶かす。ぬくもりが揺れて、微かな音と光が、ふたりの輪郭をやわらかく包んだ。その途中で、飛鳥が小さく欠伸を漏らす。

「はぅ……ごめんなさい……」

 目元を手で覆いながら、申し訳なさそうに笑う。

「いいよ。さすがに、疲れたね」

「うん……」

 少しの間をおいて、誠がそっと呟く。

「……なんでだろうね」

 飛鳥は枕に顔をうずめながら、小さく肩を震わせた。笑いを堪えているのが、背中越しでもわかる。

「……いっぱいえっちしたからだよ!言わせるなー……ばか……」

 その声に、誠は吹き出しながら、ふたたび彼女を抱き寄せる。飛鳥も腕を回し、くすぐったそうに顔をうずめてくる。ふたりの呼吸が、ゆっくりとひとつになる。シーツの重みが心地よく、窓の外では夜の風が静かに揺れていた。世界のすべてが遠ざかり、肌と肌だけが、最後に残された現実のようだった。目を閉じる。もう言葉はいらなかった。小さな幸せが、静かに、眠りへと溶けていく。

 

 ***

 ***

 ***

 

 ――夢を見ていた。やわらかな光のなかで、笑い声が響いていた。誰かがテーブルを囲み、誰かがソファに腰を下ろし、誰かがキッチンで湯気を立てていた。広いリビング。白いカーテンが風にゆれ、壁には手描きのポスターが貼られている。

「今日のお風呂掃除当番、誰だっけ?」

 瑞希が首を傾げて尋ねる。

「瑞希さんですよ」

 七海が穏やかに微笑みながら指摘する。

「うそうそ、え、やば……」

「もう俺がやっといたよ」

 台所から誠の声。エプロン姿でスポンジをすすぎながら、肩越しにこちらを見るその笑顔に、何もかもが満ち足りている気がした。

「まことが甘やかすからさー、ダメだよ!」

 飛鳥が笑いながら突っ込むと、瑞希が舌を出した。

 

 ***

 

 ――小さな女の子がいた。瑞希にそっくりな、大きな瞳とふわふわの髪。誕生日ケーキの前で両手を組み、目を閉じて願いごとをする。そして、ふーっと息を吹きかける。揺れる炎。みんなが拍手し、笑い合う。グラスがぶつかり、テーブルにごちそうが並び、炭酸の泡が静かに弾けていた。部屋中が幸福で満たされていた。

「飛鳥おねえちゃん!」

 その子が言った。何のてらいもなく。当然のように。その声が、飛鳥の胸を締めつけた。ああ、いま――これは、かけがえのないものだ。言葉にできないくらい、尊い。

 

 ***

 

 場面が滑る。カメラがそっと横にスライドし、時間が流れ始める。別の部屋。グランドピアノの前に座る七海。しなやかな指が鍵盤をたどると、澄んだ旋律が空気を満たす。その足元では、フレンチブルドッグが目を細め、音に耳を傾けていた。リビングに戻ると、瑞希がまた言っている。

「今日の夕方、レインの散歩当番、誰だっけ?」

「だからー、瑞希だってば!」

 飛鳥が突っ込むと、瑞希がうわっと叫びながら笑い、ふたりの声が重なる。

 

 ***

 

 場面がまた滲む。幼稚園。小さな舞台の上、つっかえながらも懸命にセリフを言う少女。小学校の運動会。そのなかに、瑞希によく似た女の子がいて、こっちに向かって手を振る。白い体操服の子どもたちが全力で走る。みんなで旗を持ち、声を張り上げて応援している。飛鳥も思わず立ち上がっていた。卒業式。静かな講堂で、その少女が壇上に立ち、代表として卒業証書を受け取っていた。大きくなっていた。美しく、凛として。ふと――その肩越しに、こちらを振り返った気がした。まるで、

「ありがとう」

 と言うように。その瞬間、飛鳥の胸に、まばゆいほどの喜びが流れ込んだ。……そして、同じだけの、言いようのない喪失感も。

「こんな可能性も、あったのかもしれない」

「あるいは……これから、あるのだろうか」

 夢は、静かに揺れていた。笑顔の余韻を残したまま。決して触れられないほど、やさしく遠ざかりながら。

 

 ***

 

 ――夢は、まだ続いていた。シェアハウスの小さなダイニング。白い湯気が立ちのぼり、土鍋のなかから甘い味噌の香りが広がっている。七海がエプロン姿で、落ち着いた手つきで豚汁をよそっていた。髪をゆるくまとめた横顔は、どこまでも穏やかで、家そのものがあたたかく感じられるほどだった。テーブルに座る飛鳥は、湯気を眺めながら、わざとらしく指で小さな合図を送る。それは、ふたりのあいだでしか通じない符牒。言葉にはしない。けれど

「今夜はふたりきりで」

 と告げる仕草だった。七海は手を止めて、ゆっくりとこちらに目を向けた。そして、ごく自然に微笑んだ。頷くことも、声に出すこともない。ただその笑みだけで、すべてを分かち合っていることが伝わってくる。――飛鳥の胸に、温かな光が広がっていった。

 

 ***

 

 ――また場面が変わる。今度は飛鳥がひとりだった。夜の街。仕事帰りに小さなケーキ屋に立ち寄り、ショーケースの奥から、自分の誕生日にふさわしい一切れを選ぶ。袋を下げて歩く帰り道は、軽やかだった。風が頬を撫で、ネオンが滲んで、見慣れた地元の景色が少し特別に思える。部屋に戻ると、好きな紅茶を淹れた。カップから立ちのぼる香り。棚からはお気に入りのアルバムが流れ出し、柔らかな旋律が部屋を満たす。ケーキのフォークを入れると、甘さが口いっぱいに広がった。決して悪くない。むしろ、こうして自分で選んだ時間に囲まれるのは、贅沢だと思える。仕事も順調で、毎日は楽しい。明日もまた、笑って過ごせるだろう。――それでも。どこかに、ほんのすこしだけ、切なさが残っていた。甘さの底に忍ぶ、かすかな苦味のように。それは夢のなかでさえ、言葉にはならず、胸の奥に静かに沈んでいた。

 

 ***

 ***

 ***

 

 夢の底から、ゆっくりと浮かび上がるように。まぶたの裏に、ほの白い光が差していた。外はまだ朝焼けには遠く、ホテルのカーテンの隙間から、淡いグレーの空がのぞいている。かすかに身じろぎをして、誠の腕の中にいる自分を飛鳥は思い出す。

「……ん、おはよ」

「……おはよう」

 誠の声は、まだ少しぼんやりしていた。寝起きの顔が近くにある。あたたかくて、くすぐったい。

「……なんかさ、不思議な夢を見た気がするんだけど。あんまりちゃんとは思い出せないんだよね……」

 飛鳥がぽつりと言うと、誠は

「うん」

 とだけ相槌を返した。

「まことは?夢、見た?」

 少し間を置いてから、誠がこそっと言った。

「……うん。あのね、飛鳥がさ、ふたなりになってて、俺を……愛してくれる夢だった」

「はああっ!?」

 飛鳥が、バッと顔を上げた。

「なにそれ!?なんの夢!?」

「いやいや!昨日さ、飛鳥が“わたしにもあればいいのに”って言ってたから……それが引っかかってたのかも……あるいは自分の奥底にある願望なのか……」

「……んもー、なんでこんな人を好きになったんだろう……」

「ごめん!ほんとごめん!忘れてください!」

 誠が土下座しそうな勢いで謝ると、飛鳥は枕をぽふんとぶつけた。それから少しだけ間をおいて、視線を外しながら、ふいに呟いた。

「……今度、やってあげよっか?」

「……え?」

「ほら、大人のおもちゃでそういうの、あるんでしょ?本物じゃないけどさ……」

「――ほんとに!?」

 誠の瞳がぱっと輝いた。

「なに目輝かせてるんだよーっ!」

 飛鳥はまた枕をぶつける。でも、その顔は少し赤くて、どこか照れているようだった。くだらない。でも、たまらなく愛しい朝だった。

 

 ***

 

 柔らかな眠気の余韻を残したまま、ふたりはベッドからゆっくり起き上がった。浴室の洗面台で顔を洗い、順番に髪を整える。まだ少し赤みの残る頬を誤魔化すように、飛鳥は持参していたポーチから化粧道具を取り出し、手早く仕上げた。やがて、シーツの上に畳んであった私服に袖を通す。見慣れた服装に戻ると、不思議と

「ふたりだけの秘密の時間」

 が包み紙の中にしまわれていくようで、少し照れくさかった。

「……じゃ、そろそろ出よっか」

「うん」

 ベッド脇の壁に備え付けられた清算機に、誠が手を伸ばした。表示された料金を見て財布を出そうとしたとき、飛鳥が先に小さな紙束を差し出す。

「ほら、これ」

「いや、いいよ。俺が出す」

「だめ。割り勘ね」

 誠が首をかしげると、飛鳥は照れ笑いしながら言った。

「だって……わたしたち、二人で愛し合ったんだから」

 あまりに可愛い言葉に、誠は思わず受け取ってしまう。精算機が小さな音を立て、清算終了のランプが点く。ふたりは荷物を手にして部屋を出る。廊下は静まり返り、ただカーペットの柔らかな足音だけが響いていた。

 

 ***

 

 支度を終え、部屋を出ると、廊下は静かで少し冷えていた。ふたりは並んでエレベータに乗り込む。密室。誰もいない。互いにちらりと顔を見合わせる。今なら――キスできる。でも、もしかしたら途中で誰かが乗ってくるかもしれない。その想像が頭をよぎり、唇は近づきかけて止まる。

「……」

 やがて、誠が少し体を寄せ、飛鳥も目を閉じる。あと少しで唇が触れる――そのとき。エレベータが三階で止まった。扉が開く。入ってきたのはカップル。行きにすれ違った、あの二人だった。一瞬、空気が固まる。視線を交わさないようにして、黙ってフロアランプを見つめる。誠も飛鳥も、肩が小さく震えていた。一階に着き、外に出ると、朝の光と空気が頬を撫でた。扉が閉まった途端、ふたりは同時に笑い声を洩らした。

「……なんか、気まずっ」

「ほんと、それ。もうちょっとで……」

 言いかけて、お互いまた吹き出す。リアルで、ちょっと恥ずかしくて、でもどこまでも楽しい。そんな余韻を分け合いながら、ふたりは肩を並べて歩き出した。

 

 ***

 

 【DM:飛鳥→誠】

 

 今日は……ありがとう。ほんとに、ほんとに楽しかったよ。ゲームも全然勝てなかったし、カラオケも途中から変なテンションだったし、お風呂も……いっぱい、話しすぎちゃったかも。忘れてほしいような、忘れないでほしいような……。やっぱりずるいよね、わたし。……でも、全部、ぜんぶ、幸せだった。いっぱい愛し合えたこと、恥ずかしいけど、ずっと身体に残ってて……。また火照ってきてる気がするんだよね。ばかみたい。あのね、わたし、まことのこと、だいすき。甘えてばっかりでごめん。でも、ほんとに嬉しかったの。……明日も、ちゃんと隣にいて。見ててくれないと、やだ。ずっと、やだから。おやすみ、お兄ちゃん。

 

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