飛鳥、愛された後に湯船に浸かりながら未来を思考する
カーテンの隙間から、都市の光がゆらめいていた。ベッドに横たわるふたりの呼吸は、まだほんのり熱を残している。重なった体をほどき、肩を寄せ合うようにして、シーツのなかに落ち着いた。飛鳥がぽつりと呟いた。
「……ねえ、わたし……最後、まことのこと……お兄ちゃんって、呼んでた?」
誠は笑いそうになりながらも、真面目な顔でうなずいた。
「うん。言ってた。ちゃんと聞こえてたよ。すごく可愛かった」
「……やだあ……っ」
飛鳥は小さく身をよじって、シーツに顔を埋めた。細い肩が揺れるたびに、恥ずかしさが伝わってくる。
「もう、言わないって決めてたのに……最後の最後で……」
声がくぐもっていた。それでも、観念したようにため息をついて、顔を横に向けた。
「でも、やっぱり……まことって、わたしにとって……お兄ちゃん、なのかも」
視線が合う。その目は、どこまでも素直で、どこまでも可愛かった。
「本当のお兄ちゃんじゃないのはわかってるよ。でも……好きになった人が、たまたま兄に似てただけで。だから……わたしにとっては、二番目の“お兄ちゃん”……かな」
誠は、何も言わずに手を伸ばし、飛鳥の髪を撫でた。しっとりとした髪が指に絡みついてくる。撫でられるたびに、飛鳥は目を細めて、嬉しそうに喉を鳴らすような息を吐いた。そのまま、ゆっくりと身体を寄せてくる。猫のように。甘えるように。するすると頬を胸元にすりつけてきたかと思うと、また唇が触れた。そして、耳元で囁く。
「……お兄ちゃん。……好き。……だいすきなの。ほんとに……好き……」
その声が、胸の奥をくすぐった。誠は思わず微笑んで、ぎゅっと彼女を抱き寄せた。
「うん。俺も、好きだよ。飛鳥のこと……ぜんぶまるごと好きだ」
飛鳥の指先が、胸元をくいくいと掴んできた。
「ずるい……そんなふうに言われたら、また好きって言いたくなる……」
「言えばいいよ。何度でも」
飛鳥は照れくさそうに笑って、もう一度、くるっと身体を丸めた。
「お兄ちゃん……」
小さな声だった。でもその響きは、誠の心を震わせるには十分すぎた。やわらかく、しなやかに。すり寄ってくる飛鳥の身体は、まるで甘えた子猫のようだった。でもそこに宿っているのは、間違いなく彼女の恋心だった。こんなふうに誰かに甘えられること。こんなふうに、誰かを甘えさせられること。そのすべてが、愛しくて、奇跡のようで。ふたりはまだ、言葉もなく、ぴたりとくっついていた。まるで、朝が来るのを拒むように――この甘く、やさしい夜を抱きしめていた。
***
ふたりの体温がようやく落ち着いてきたころ、飛鳥が小さく顔をしかめた。
「……なんか、わたしたち……汗だくだよね……」
腕をあげて、髪の裏側を扇ぐ。照れたように笑って、誠の胸元に額をくっつけた。
「すごい……しっとり。誠の胸まで汗が伝ってる……」
誠は笑って、わざと飛鳥の首筋に顔を近づけた。そして、深く吸い込むふりをして、いたずらっぽく囁く。
「でも……飛鳥の匂い、俺は好きだよ。ちょっと火照った、いい匂いがする」
「えっ、なにそれ……やだあ……」
飛鳥が顔を赤くして笑いながら、シーツに潜ろうとする。でも、すぐに反撃するように誠の胸に顔を近づけて――今度は逆に、くんくん、と嗅ぐような仕草。
「……男の人の匂い……する。……えっちな匂い、するーっ」
「ちょ、それ、俺の台詞なんだけど……やだあ~」
誠が照れくさそうに飛鳥の真似をすると、飛鳥は笑いながら、ぽすっと胸を軽く叩いた。
「もー、バカ……」
そして、少し間を置いてから、まるで思いついたようにぽつりと提案した。
「ねえ……お風呂、入ろっか?」
その声が、ほんのりと甘かった。気恥ずかしさよりも、安心感が混ざったような、やわらかな声だった。誠は、ふっと肩を揺らして答える。
「うん。二人で一緒に、でいい?」
その一言に、飛鳥はまったく迷わず、すぐに返した。
「うん……一緒に入りたい」
ふだんなら少し照れて笑うような場面だった。でも今の飛鳥は、どこまでも素直で、愛らしかった。誠はその姿に、思わず胸の奥がきゅんと音を立てるのを感じた。
「……ほんとに、かわいいな。飛鳥って」
言葉に出すと、飛鳥は一瞬だけ目を逸らしてから、また視線を戻して、ふわりと笑った。その笑顔は、まるで湯気のようにやわらかく、ふたりのあいだに、またひとつぬくもりが灯った。
***
湯に浸かったまま、飛鳥は誠の胸にもたれていた。小さな背中が温かく、肩甲骨の線が湯面に淡く浮かんでいる。誠はそのまま腕を回し、彼女の細い身体をやさしく包み込んでいた。目の前にあるのは、濡れた黒髪を首筋にまとわせた飛鳥の横顔。首は細く長く、まるで陶磁器のように白くて、湯気のなかでほのかに光っていた。耳の先が少しだけ尖って見えて、儚さと神秘を帯びていた。飛鳥がふいに、背にもたれたまま声をかけてきた。
「……まこと、なに考えてるの?」
囁くような甘い声。誠は思わず笑みを浮かべ、息をのむ。そして、素直に言葉を落とした。
「……飛鳥って、エルフみたいだなって思ってた。細くて、儚くて……すごく綺麗で」
飛鳥の肩がぴくりと震える。湯の中で小さく膝を抱え、首をすくめるようにして答えた。
「……やだ……そんなこと言わないでよ……」
けれど頬はほんのりと赤く染まり、うつむいたまま、それでもどこか嬉しそうに笑っていた。
***
「……耳まで細くて長い。やっぱりエルフみたいだ」
誠がぽつりと口にすると、飛鳥の頬が一気に赤く染まった。
「な、なにそれ……っ」
慌てて顔を逸らしながら、早口でまくしたてる。
「それはTRPGとかライトノベル以降のイメージだから!元々の指輪物語のエルフはもっと大人っぽくて、背も高くて、賢者みたいなトーンなんだよ。儚い美少女じゃなくて、どっちかっていうと超然的な戦士で――」
湯気の中で、飛鳥の声が滑らかに重なっていく。誠はただ黙って聞きながら、その必死さに思わず笑みを浮かべた。背後から腕をまわし、そっと抱き寄せる。
「……もう、やめろってば……っ」
湯面に波が揺れ、飛鳥の小さな身体が誠の胸にすっぽりと収まった。
「そうやって、早口で語ってる飛鳥が……可愛いんだよ」
囁くと、飛鳥は湯気の中でじたばたと暴れた。
「やめろーっ、ばか、やだってば……っ」
けれど本当は、声の端に笑みが滲んでいた。頬を紅く染めながら、逃げるふりをして、それでも誠の腕から離れようとはしなかった。胸にすり寄るその小さな背中は、言葉よりも正直に――
「ほんとは嬉しい」
と語っていた。
***
湯船のなかで、飛鳥は誠の胸にもたれたまま、指先でお湯をすくっては落としていた。湯気がふたりの髪にまとわりつき、しっとりとした空気の中で小さな水音が響いている。誠が、ふと尋ねた。
「……そういえばさ、飛鳥、シェアハウス調べてるの?」
飛鳥がビクッと肩をすくめる。首をひねって振り返り、目を丸くした。
「な、なんでそれ知ってるの!?誰から聴いたの!?」
誠は笑いをこらえきれずに肩を揺らした。
「瑞希から聞いたよ。……同棲とか抜け駆けは許さん、って言ってたよ?」
飛鳥は一瞬、苦虫をかみつぶしたような顔をした。そして、小さな声で毒づく。
「あの……お喋り猫型ロボめ……」
その言い方があまりに真剣で、誠はつい吹き出してしまった。飛鳥は頬をふくらませ、しばらく黙っていたが、やがてしんみりと口を開いた。
「……別に、同棲とかじゃないの。本当はね、七海と、あと瑞希と一緒に住めたら楽しいかなーって……ちょっとした想像で調べてみただけ」
指先でお湯を弾きながら、補足するように続ける。
「べつに……まことと住みたくない、とかじゃないからね?全員一緒に暮らせたら、それが一番いいに決まってる。でも、なんかちょっと非現実的なのかなーって……」
誠は、飛鳥の頭をやさしく撫でながら、いつもの軽口を封じた。ちゃんと聞くトーンで、静かに答える。
「……うん、わかってる。飛鳥の考えてること、ちゃんと聞いてるよ」
飛鳥は湯船の中で小さくうなずいた。顔を隠すように、また誠の胸にもたれかかる。湯気がふたりを包み込み、しんみりとした空気のなかにも、やさしいぬくもりが残っていた。
***
湯船のなかで、飛鳥は誠の胸にもたれたまま、指先でお湯をすくってはこぼしていた。その小さな動作が、波紋になってふたりの身体のまわりに広がっていく。湯気の膜がゆらぎ、誠の頬に彼女の髪の香りが移っていた。しばらく沈黙が続いたあと、飛鳥が口を開いた。
「……ちょっとね、思考実験してみたの」
誠は、息を呑んで、聞く姿勢を整えた。
「わたしたち、自分と七海と瑞希、それにまこと。一緒に暮らしたら?って。難しいかもだけど、無理じゃない気も最初はしたの。嫉妬したり、喧嘩したりもするけど、やっていける気もしたんだよね。でも、将来のこと考えると、やっぱり難しいのかもって」
彼女の指が、お湯をすくいあげ、誠の胸元にぽとりと落とす。その水滴が流れるのを見つめながら、飛鳥は続けた。
「わたしはね、本当言うと、まことがいればそれでいいの。結婚とかしなくてもいい。制度だからね、した方が色々都合良いとは思うけど……」
声が小さくなり、肩がすくむ。でも彼女は目を逸らさずに言葉を紡いでいった。
「わたしは、まことと一緒になりたいだけ。もし、まことが誰かとくっ付いて、でも一緒に暮らせるなら……それでもいいとか考えたの。えーと古い言葉で言うとお妾さん?同居するお妾さん、だね。でもこれはわたしのワガママだから……。そんなの嫌だ、って考えもあるだろうし」
誠は返事をせず、ただ背中に手を置いて、指先で湯気をなぞった。飛鳥はその手に小さく身をゆだね、またつぶやく。
「あと一番は子供のことかな。これも、わたしいなくてもいいの。なんか、実際そうなったら変わるかもだけど、自分と似た子供とかやだなーとか思っちゃう。そんな気持ちで子供産めない気がする。誰かの子供を育てるとか、そっちの方がまだ出来そう……考え甘いかな?」
お湯の表面を見つめる瞳に、ゆらゆらとした光が宿っていた。湯気のなかで囁きが続く。
「だから、これも繰り返しになるけど、まことが誰かを選んで、結婚して、子供がいて、それでもいいとすら思ってる。わたしも一緒に居られるなら……そう、思ったけど」
声がいちど途切れ、湯の音だけが響いた。
「ちゃんと話したことないけど、たぶん瑞希は、ふつうの家族を求めていて、結婚して子供が欲しいんじゃないかな。七海は……どうだろう。あと、さっきの話って、わたしはいいけど、子供はそんなの望まないよね……。お母さんがいて、同じ家に妾さんもいる。特殊な家庭なんです、って大人は自分で選んだからいいけど、子供にそれを押し付けるのは違う気がする。まして他人の子供に」
そして、飛鳥は最後に小さく笑って、でもその声はかすかに震えていた。
「……やっぱり、まことは誰かひとりを選んで欲しい。卒業までに誰か決めて、きっぱりして欲しいって思うんだ。今の状態はすごく楽しいけど、いつまでも続けることは出来ないから。あれだよ、瑞希を選んでね、とか言ってないからね?わたしは勿論、わたしを選んで欲しい。まことと一緒になりたいから……。でも、それはまことの気持ちが決めることだから」
湯気の向こうで、誠は小さくうなずいた。飛鳥の髪を撫で、湯の中で指を絡める。その仕草ひとつひとつに、ちゃんと聴いている、という答えがこめられていた。
***
湯船のなかで、湯気がゆらめいていた。静かな水音がふたりの呼吸と混じり、部屋全体が柔らかく包まれていた。誠が、少ししんみりと口を開く。
「……決めないとだよね。こうしてみんなといる毎日が楽しくて、つい甘えてきたけど……」
飛鳥は小さく振り返り、そのまま誠の首に腕をまわして抱きついた。濡れた髪が誠の頬に触れ、ぬるりとした温もりが移ってくる。
「……まだ先のことだからね」
わざと明るい声で、唇をかすかに噛んで笑う。
「そんなに深刻にならなくていいよ?まだまだ、みんなでしたいこと、いっぱいあるし」
誠はその瞳を見つめ、ゆっくりと頷いた。そして、湯気のなかで優しく唇を重ねる。
「……そうだね。飛鳥、ありがとう。……大好きだよ」
飛鳥はその言葉に、小さく息を呑み、胸に頬をすり寄せるようにして、囁く。
「わたしも……まことのことが好き。本当の気持ちだよ。この先、二度と出会えない人だと思ってるから」
誠は微笑んで、彼女の髪をそっと撫でる。その指先の温もりが、答えの代わりだった。飛鳥はまぶたを伏せ、静かに唇を重ねる。そして、かすかな声で続けた。
「……わたしの一度きりのロマンチック・ラブだから」
湯の音がふたりの言葉を包み、肌と肌の間に残った熱がじんわりと広がっていく。甘くて、せつなくて、どこまでも優しい時間が、湯気の膜の中でゆっくりと流れていた。
***
さっきまで未来のことを語っていたふたりは、しばらくのあいだ、何も言わずに湯船に浸かっていた。言葉はなくても、全身が語っていた。ぬるくなりかけた湯のなかで、肌と肌がやさしく触れ合い、呼吸のリズムだけが交わってゆく。誠がふっと小さく息をつき、現実に引き戻すように、ぽつりと呟いた。
「……それはそれとして、もうお風呂あがって、ホテル出る?」
湯気越しに、飛鳥がぱちりと瞬きをして、口元を尖らせる。
「急に現実的すぎ。さっきまで、わりとしんみりしてたくせに」
「だって、当初の休憩時間、そろそろ超えるし……」
湯の中で腕を伸ばして、誠がゆるく肩をすくめる。飛鳥はちょっとだけ考えるふうに目を伏せ、すぐに頬をふくらませた。
「もういいよ、泊まっていこうよ」
目線を戻したとき、湯気の向こうでそっと微笑む。
「……そうすれば、もっと、ずっと一緒にいられるでしょ?」
その声のやわらかさに、誠の胸があたたかくなる。目を細め、唇に熱をふくませて、ささやくように応える。
「……つまり、いっぱい、愛し合える?」
飛鳥の瞳が、ふわりとほどける。笑顔がそのまま、唇へと流れていき、小さくうなずいた。
「うん、そういうこと」
頬を染めたまま、すこし背を伸ばして近づいてくる。ふたりの唇が、湯気のなかでゆっくりと重なった。とろけるような音が、静かに水面を揺らす。はねたしずくが、指の先を伝い、湯の中でひとつに溶けていく。その最中、飛鳥がふいに目を伏せ、小さな声で呟いた。
「……もう、したくない?」
わずかに震える声。けれど、そこには甘えと祈りが混じっていた。誠は胸をつかまれたように、息をのむ。こんな顔、されたら、もうたまらない。
「したいに決まってるよ」
即答だった。言葉の熱がそのまま伝わるように、もう一度、唇を寄せた。飛鳥が、ほっとしたように微笑む。
「……良かった。大好き」
キスが重なり、唇がぬれ、まぶたの奥が熱くなる。湯気に包まれたバスルームは、まるで別世界のようだった。ふたりの世界だけが、そこで続いていた。静かで、あたたかくて、やさしくて――愛おしさのぜんぶが、ただ湯のなかに、満ちていた。
***
バスルームから出ると、ホテルの空調がひやりと肌を撫でた。ふたりは肩にバスタオルをかけ合い、並んでドライヤーを使い、ゆっくりバスローブに袖を通す。湯気の匂いを残したままの髪が、まだほんのり熱を帯びている。誠がミネラルウォーターのボトルを開け、飛鳥に手渡す。飛鳥は受け取りながら「ありがと」と小さく笑い、喉を潤す。しっとりとした唇に水滴が光り、誠の胸にまた小さな波が立った。
「せっかく泊まりだし。のんびりしようか」
誠が軽い調子で言うと、飛鳥はバスローブの袖口を弄びながら目を伏せ、こくりと頷いた。
「うん……たまには、いいかも」
テレビをつけると、ホテルの備え付けのカラオケメニューが現れた。誠が面白そうにリモコンをいじり、画面をスクロールしていく。
「ねえ、これカラオケ機能あるよ。やってみようよ」
「えー……わたし、カラオケってあんま好きじゃないんだけど」
「大丈夫、俺が盛り上げるから」
誠が勝手に曲を入れる。画面には、どこか懐かしいアイドル風のラブソングのイントロ。飛鳥は目を丸くして、半ば呆れながら笑った。
「……わたしが、これ歌うの?」
「歌って。お願い」
眉をひそめながらも、飛鳥はマイクを受け取った。指先がほんの少し震えていたけれど、それは照れくささという名の緊張。ふうっと息を吐いて、曲が始まるのを待つ。イントロが流れ出す。キラキラと光を散らすような電子音に、飛鳥は目を伏せ、そっと声を重ねた。最初は、小さなささやき。まるで誰にも聞かせたくない秘密のような歌声。けれどメロディが進むにつれ、言葉が次第に熱を帯びていく。感情がほぐれ、まつ毛の奥に、淡い灯りがともる。隣で誠が、子供のように手拍子を打っていた。リズムも少し外れ気味で、でもその笑顔はまっすぐで、どこまでも優しい。飛鳥はちらりと視線を向けたあと、肩をすくめるように微笑む。そして――サビの手前で、ふいに、彼女は指を伸ばした。まるでアイドルがファンに手を振るみたいに。マイクを持たない方の手で、まっすぐ誠を指差し、にこっと笑ってみせた。それは、ファンサービスというにはあまりにも甘い、ひとりの恋する少女が、たったひとりの人に向けた、全力の愛情表現だった。誠は、息を呑んだ。その瞬間、世界が少しだけスロウに見えた気がした。ああ。――俺、この子に恋してる。ほんとうに、ほんとうに、好きなんだ。胸の奥が、ぽうっと熱くなる。飛鳥の歌声が、光と一緒に肌をすべってゆく。曲が終わるころには、彼女の頬はほんのり紅潮していた。
「もう、次はまことが歌ってよ」
マイクを差し出す手の先、バスローブの裾がふわりと揺れ、濡れた髪から滴る雫が、絨毯の上に静かに落ちた。ただそれだけのことが、眩しくて、夢のように、綺麗だった。
***
曲が終わったあと、誠もマイクを受け取り、飛鳥と交代で歌う。次は懐かしいデュエット曲を選び、ふたりで声を重ねる。最初は笑い混じりだったけれど、重なった声が思った以上に心地よくて、つい真剣になってしまう。
「……まこと、ちゃんと歌えてるじゃん」
「そっちこそ、声きれいだよ」
茶化し合いながらも、どこかくすぐったい。音楽のリズムに乗りながら、目と目が合うたびに、笑顔がこぼれる。次の曲が始まったとき――飛鳥が歌い出したその横顔に、誠は我慢できなくなった。マイクを握る唇に、ふいに口づけを落とす。
「んっ……ちょ、歌ってるのに……」
飛鳥は驚いたように目を見開き、すぐに頬を赤らめた。でも、やられたらやり返すみたいに、今度は自分から唇を重ねてくる。
「……やったな」
声は小さく、でも瞳は楽しげに揺れていた。歌う、キス。また歌う、またキス。繰り返すうちに、曲よりも唇の温もりの方が大事になっていく。いつしか、歌声は消え、残ったのは重なり合う吐息だけ。マイクはテーブルに転がり、テレビの画面にはカラオケのテロップが虚しく流れている。けれどふたりはもう歌わない。
「……飛鳥」
「……まこと……」
名を呼ぶたび、唇が触れ合い、離れることを忘れていく。キス、キス、またキス。とろけるような水音がバスローブ越しの胸元に響き、甘い熱がじわじわと広がっていく。音楽は遠ざかり、部屋の空気はふたりだけのものに変わっていった。官能の予感が、唇から全身へとゆっくりと波紋のように広がっていく。
***
唇を重ねたまま、ふたりは立ち上がった。絡んだ手が離れず、寄り添う身体が自然にベッドの方へと導いていく。テレビの画面にはまだカラオケのテロップが流れていたが、もう視界に入らない。すべては、互いの吐息と体温だけに塗り替えられていた。ベッドに腰を下ろすと、飛鳥のバスローブの裾がふわりと広がった。誠はその布地をそっと撫で、指先で帯を解いてゆく。飛鳥は小さく息を呑み、誠の肩をぎゅっと掴んだ。
「……まこと」
名前を呼ぶ声が、震えと熱を帯びていた。誠は答える代わりに、また深く唇を重ねる。バスローブが少しずつ滑り落ち、湯上がりの肌が白く光を受けた。飛鳥もまた、誠の胸元に手を伸ばし、布越しの温もりを確かめながら、同じようにローブを外していく。指がかすかに震え、触れるたびに呼吸が早くなる。
「……やだ、ドキドキしてきた」
囁く声が甘く揺れる。誠はその頬を撫で、額にそっと口づけを落とした。ふたりの衣擦れの音が、静かな部屋にやさしく響く。落ちていく布、熱を帯びていく肌。まるで一枚ごとに、羞恥と理性を剥がしながら、愛の奥へと近づいていくようだった。視線と視線が絡み合い、もう言葉はいらなかった。




