『狂銃レクイエム:天使を撃て、硝煙の夜に(前編)』
七海がキーを叩く。また一つ、物語が綴られてゆく。
***
道場の床板には、湿った畳のにおいが染みついていた。虎――研ぎ澄まされた刃のような女戦士は、最初から仰向けに構え、オープンガードで狂介を迎えた。その眼差しは余裕に満ちていた。狂介がアングルを作り、距離を詰めようと足を割ってパスを狙った瞬間。虎の右手が素早く足首を掴み、左脚で内股をすくい上げる。シンプルなシングルレッグXガードへの切り替え――そこから重心を浮かされた狂介の身体が反転し、畳へ背中から落ちた。
「……ぐっ」
視界が一瞬で回転し、息が詰まる。虎の動きに無駄はなかった。本気の仕掛けとは思えない。それでも後手に回る自分を、狂介は痛感する。スイープの流れから即座に足緘へ移行。虎の両脚が狂介の脚を挟み込むように絡み、足首を深く抱えて回す――ヒールフック。外側靭帯が引き伸ばされ、関節がきしむような圧力が走る。狂介は体を捻りながら、トーホールドに対応する回転で逃げを図るが、虎はヒップを切って角度を合わせ、そのまま膝下をコントロール。足首固めへ移行しながら、じわじわとプレッシャーをかけ続ける。狂介は奥歯を噛みしめて耐えた。極まりきらないと見るや、虎はスムーズにアンダーフックを抜き、狂介の背後に回る。そのまま背中へ密着しながら、両脚で腰をフック。バタフライフックから四の字に組み替え、バックテイクを完成させた。
「……っ」
圧倒的な密着。虎の腕がスリーブから入り、下顎をすくってフェイスロックをかける。そこから素早く前腕をスライドさせ、チョークへ切り替える。ラペラや襟は使わず、裸締めの要領で、頸動脈を両側から潰す。呼吸が詰まり、頭が霞む。視界の端がじわじわと暗く染まり始める。狂介は抵抗をやめ、静かにタップした。虎は即座に腕を緩め、ベースを保ったまま身体を引いた。汗がうっすらと光るその顔に、満足げな色はない。ただわずかに眉を寄せ、不満を押し殺したような表情だけが浮かんでいた。畳に両手をつきながら、狂介は荒い息を吐いた。自分の肺がまだ動いていることを確かめるように。
***
虎は静かに技を解いた。そのまま膝を折り、畳の上に腰を下ろす。勝者の所作にしては淡々としていた。いや、表情に浮かぶのは曇りだ。勝ちに満ちた色ではない。むしろ、どこか沈んでいる。
「……やっぱりヤワになってる」
声は低く、乾いていた。刺すような毒はないが、重く落ちる。狂介は片手を畳についたまま、俯いた。額の汗が、ぽた、と落ちる。青ざめた頬に一筋の雫が張りつき、震えた。
「……さあな」
短く吐くだけで精一杯だった。その声さえ、自分の喉から出ているものとは思えなかった。――かつて撃ち抜かれた右腕。いまは動く。何の問題もない。だが虎は、そこを狙ってこなかった。足関節。チョーク。神経も骨も使わない、最短の仕留め方だけを選んだ。最初から抑えていた。八割?いや――五割もなかったかもしれない。それでも、自分は凌げなかった。流れるように捌かれ、封じられ、タップした。畳に背を擦った感触が、まだ残っている。焼きつくように。畳に落ちた汗が、乾いた音を立てた。耳に張りつくほど、その音が際立つ。胸の奥が冷たく締めつけられる。指先の感覚が、鈍くなる。衰えたのか。いや、どこかで“気が緩んだ”のか。答えは出ない。ただ、濁った煙のような思いが、頭の奥にこびりついて離れなかった。
***
虎は額の汗に触れようともせず、ただ腕を組んだ。組んだそのまま、じっと狂介を見下ろしている。眉間には、深く刻まれた皺。そこに一瞬、迷いのような影が走る。だが――次の瞬間、あっさりと顔が綻んだ。
「そうだ。今日こそ飲みに行こう。わたしの完勝祝いに」
乾いた声だった。冗談のようで、どこか本気にも聞こえる。狂介は畳に片手をつけたまま、顔を上げる。視線が、宙をさまよった。
「……」
言葉が出ない。沈黙のまま、口元だけがわずかに動く。虎は気に留める様子もなく、肩をすくめて続けた。
「その店も再開したんだろう?」
狂介の視線が、ふと泳いだ。そして、わずかに逸れる。
「ああ……裕司の店な」
言いながら、微かに表情が翳った。その声には、確かに何かが滲んでいた。虎はそれを追わない。そのまま、何でもない仕草で畳を軽く叩いた。
「じゃあ決まりだ。あとで落ち合おう。連れて行けよ、そこへ」
動きに迷いはなかった。立ち上がるその脚にも、言葉にも。――押し切られた形だった。狂介は、ほんのわずかに頷いた。胸の奥に、くすぶる煙のような感情を抱えたまま。
***
スーパーの蛍光灯は白々しく狂介の頭上を照らしていた。ドッグフード売り場の棚の前で足を止める。袋のパッケージに描かれた能天気な犬の笑顔。――もう、必要はない。分かっている。短い間だったが、忘れ難い日々があった。レインとの散歩。眠れぬ夜を起こしてくれた小さな鼻先。舐められた匂い。ときどき考える。麗音のことも。本当は死んでいないのではないか、と。死体をこの目で確かめたわけではない。ジュディの話も伝聞にすぎない。もしかすると、夜の仕事に嫌気がさして、誰にも告げず遠くへ消えたのかもしれない。そして今頃は――学校へ通い、友人や恋人を作り、笑い合っているかもしれない。念願だったパフェを頬張って。くだらない代物だ。甘ったるく、胃に重い。だが、あの子にとっては宝石のような夢だった。……分かっている。ただの感傷だ。"死に際を見ていない"というだけで、人間は物語を紡げる。そうであってほしい、と。だが、犬のレインは違う。確かに死んだ。冷たい骸を抱き、火葬されるのを見送った。海に骨を撒き、自らその一片を噛み砕いた。まだあの苦味を思い出せる。それは自分の咎。忘れてはならない罪。罪は味となり、舌に残る。
***
新宿・歌舞伎町。Tビルの前には、今日も観光客が群れていた。映画で名を馳せた怪獣の頭部が、派手なネオンの光を浴びている。スマホのシャッター音が飛び交い、外国語が断続的に飛び交う。歓声、笑い声、カメラのフラッシュ。狂介はその喧噪の端で、ビルの壁に背を預けていた。一本のタバコが、薄く煙を引いている。吐き出す煙が、湿った夜気ににじんだ。ポケットのスマートフォンが震える。画面に表示されたのは、虎からの短いメッセージ。《用事が入った。すまない。埋め合わせはする》それだけ。タバコを指で弾いてアスファルトに落とす。火玉が小さく跳ねて、ゆっくりと消える。胸の内に残ったのは、拍子抜けと、わずかな安堵。不可解なものだった。なぜだ。なぜ、虎と酒を酌み交わすことに――これほどまで、自分は躊躇している?はっきりとした答えは出なかった。ただ、思考の底に一筋の予感があった。酒と女は似ている。どちらも、心の奥に隠した“穴”を覗かせる。暗く、深い、触れてはならぬものを照らし出す。――だからか。自問に返されたのは、ため息のような納得だった。脳裏に、裕司の顔が浮かぶ。あの男なら、もう店のカウンターで笑っているだろう。磨いたグラスに氷を落とし、誰かの人生を傾けている。
「一人で行くか……」
口の中でつぶやく。けれど、足は動かなかった。そのままスマホを取り出し、短く返信を打つ。《今夜は行けそうにない》まもなく、返ってきたのは気の抜けた定型句。《次回に今回分も付けて請求するからな》狂介は鼻で笑った。
「まだ開催されていない飲み代を請求するとは……あいつは詐欺師か」
ふたたびタバコに火を点ける。夜風が頬をなで、煙を横に流す。揺らめく火先が、ネオンに照らされた街の色に、静かに滲んで消えた。
***
歌舞伎町の夜に紛れ込んだまま、狂介は雑踏のなかをさまよっていた。ジュディの姿はどこにもない。当たり前だ。だが、ほんのわずか、見つかるような気もしていた。笑ったときの顔。犬の匂いを気にして袖を引っ張った仕草。それらがふと蘇るたび、胸の奥に風が吹き抜けるような感覚が残る。空っぽな中身を抱えたまま、ネオンの海を彷徨っていた。いつのまにか、足がゲームセンターの入口をくぐっていた。普段なら、素通りするだけの場所。空気は騒がしく、照明はやたらと明るい。筐体の並ぶ通路を、場違いな男が一人歩く。ふと足を止める。格闘ゲームの筐体の前。無造作に腰を下ろし、スティックを握った。カチリ。ボタンを叩くたび、画面内のキャラクターが喚き、殴り、跳ねる。だが、手元は冴えなかった。指先に力が入らず、リズムがずれていく。あっけなく「KO」の赤文字が画面を染める。渋面のまま立ち上がった、その瞬間だった。
耳を打つ、鋭く乾いた電子音。──銃声のSE。反射的に振り返る。閃光の点滅の向こうに、妙に浮いた影があった。ポニーテール。細い肩、引き締まった二の腕。若い女が、両手でプラスチックの銃を構え、照準を追っていた。目つきは鋭く、遊戯とは思えない緊張感が全身に走っている。迷いのない動き。撃つたびに、腕の筋がわずかに震える。だが銃口はブレず、トリガーを絞る指先に、狂介は見覚えのある“何か”を感じていた。それは、遊びではない。狂介はその場で動けなくなった。銃声が止んだ。画面には「MISSIONCOMPLETE」の文字。女はゆっくりと肩を下ろす。が、その間も一発も外していなかった。命中率100%。細い指から放たれた電子の弾丸は、寸分違わずすべて的を貫いた。画面がフェードアウトし、照明がほんの少しだけ落ち着く。女は小さなガッツポーズを取った。その仕草には、わずかながら無邪気さが残っていた。そのとき、目が合った。射撃の緊張を残したままの瞳。だが、口元がかすかに緩む。
「……やります?」
真顔のまま、だがどこか照れくさそうにそう言った。一瞬、狂介は言葉に詰まる。子供の遊びだ。だが、視線を外すこともできなかった。無言でポケットに指を滑らせ、指先で硬貨を一枚つまむ。それを投入口へ。「カシャン」と鳴った乾いた金属音が、喧噪のなかで妙に耳に残った。画面が明滅し、新たな戦場が開く。狂介は銃を取った。プラスチックの素材感が、妙に冷たく、そして重く感じられた。
***
館内に、また銃声が響き始めた。電子音だ。反動もなければ匂いもない。ただの、演出に過ぎない。狂介は銃を構えたまま、微かな苛立ちを覚えていた。この玩具は、軽すぎる。トリガーに指をかけても、皮膚に伝わる反応があまりに頼りない。銃口はブレ、重さもない。それは、現実味のない“空撃ち”のような感触だった。
「……ちっ」
舌打ちが漏れる。敵影は画面の中で点滅し、次の瞬間には消えている。弾は宙を裂かず、火薬の匂いも立たない。右に現れた敵を撃ち損じた。反射で左に向いたその瞬間、撃ち返される。画面が一瞬にして赤に染まる。──GAMEOVER──冷たく、無機質なフォントが浮かび上がる。まるで、死を宣告されたかのようだった。狂介は銃を降ろした。唇を噛む。実戦なら、間違いなく即死だった。その横で、小さく笑う声がした。
「……ドンマイ」
肩をすくめた少女の笑みは、無邪気。だがその無邪気さが、逆に挑発のように見えた。“同情される側”であることに、狂介は胸の奥に微かな熱を覚える。女の笑い声は、陽気だった。だが、狂介の胸に残ったのは、静けさだった。ポニーテールが揺れる。彼女は「由香」と名乗った。職業は看護師だという。狂介はわずかに眉をひそめた。その年齢には見えない。童顔だ。制服を着せれば学生にしか見えなかった。年齢を訊ねると、にこにこと笑って「ちゃんと成人してます」と返ってくる。軽やかで、屈託のない口ぶりだった。その声の調子に、ふと麗音の面影が過る。顔立ちは違う。背格好も違う。だが、“気配”のようなものが、どこかで似ている気がした。──バカな。ただの感傷だ。狂介はそう自分に言い聞かせた。由香は、ゲーム機のほうを指差す。茶目っ気のある顔で言った。
「二人プレイの方が楽しいんですよ。付き合ってくれません?」
断るつもりだった。こんな場所に、長居する理由はない。だが、言葉は喉の奥で霧散し、気づけば頷いていた。女の笑みが、ほんの少しだけ、子供のように見えた。
***
次に挑んだのは、レースゲームだった。ハンドルを握った瞬間、狂介は眉をひそめる。実車の重量感も、路面からの反発もない。ステアリングは、まるで紙細工のように軽かった。足元のアクセルペダルもスカスカで、反応が頼りない。エンジン音はスピーカーから空しく響くばかりで、鼓膜に響くべき迫力がない。画面の中で、マシンは右へ左へ踊る。制御の利かないまま、ガードレールに激突した。画面いっぱいに火花が散り、車体は弾かれるようにクラッシュする。その横を、由香のマシンが滑るように駆け抜けた。
「やったー!」
小さな拳が空を突く。勝ち誇ったような笑顔。頬が赤らんでいた。狂介は黙って画面を見つめたまま、低く呟いた。
「……ハンドルが軽すぎる」
言い訳にすらなっていない。自分でも苦笑するほど、情けない独白だった。
「負け惜しみですね」
由香が声を立てて笑う。軽やかで、響きに嫌味がない。挑発にも聴こえるはずの台詞が、どこか心地よかった。狂介は渋い顔のまま、ふっと息を吐いた。硬く凍っていた胸の奥が、ゆっくりと溶けていく感覚があった。
「次、あれやりましょう」
由香が指差す。そこにはまた別の筐体が光っていた。二人はゲームからゲームへと渡り歩く。夜の時間は、さざ波のように流れていった。次は、実際のバイクを模した大型筐体だった。跨がった瞬間、狂介の顔がまた曇る。車体は軽すぎる。スロットルは滑らかすぎて、実車のような粘りも振動もない。よくできた玩具。──だが、所詮は玩具だった。スタートのカウントと共に、モーター音が鳴り始めた。由香の身体が動き出す。細い腰がリズムよく揺れ、膝と肩が一体になってバイクを操る。ハンドルさばきは迷いがない。機械と溶け合うような身体の動き。狂介は、その滑らかなフォームに思わず目を奪われた。慌てて体勢を立て直し、スロットルを回す。だが画面の中のマシンは蛇行し、カーブを曲がりきれず、コースアウト。警告音が響く。後輪が跳ねるように画面から飛び出し、赤い「クラッシュ」の文字が点滅した。その間にも、由香は鮮やかにヘアピンを抜け、一直線にゴールへと駆け抜けていた。
「やった!」
由香の声が弾ける。汗に濡れた髪が、微かに揺れる。無邪気な笑顔。だが、その顔には確かな誇りが宿っていた。狂介はわずかに間を置き、ボソリと呟く。
「……悪くない腕だ」
その短い褒め言葉に、由香は得意げに笑った。
「お父さんがバイク乗りだったんです。免許取る前にも、こっそり教えてくれて」
頬を赤くしながら、視線を逸らす。小さく笑ったその顔が、妙にあどけなかった。その声の柔らかさが、狂介の胸に妙な余韻を残す。まるで、そこだけ季節が違うような気さえした。外の空気は、夜の排気ガスとネオンの匂いに満ちていた。ざわめき、光、喧噪。だがその喧騒のなかで、由香という存在だけがどこか異質に見えた。無邪気で、清らかで。まるでこの都会の闇に舞い降りた、小さな天使のようだった。時間が経っていた。ゲームの筐体もまばらに光を落とし、夜が深まっていく。由香は腕時計を見て、軽く肩をすくめた。
「これから夜シフトで、仕事なんです」
言葉は軽やかだった。別れ際にしては、あまりにもあっさりしている。
「今日は楽しかったです。またどこかで――」
言い切ると、くるりと振り返って笑った。その仕草は、どこか戦士のような凛とした力を秘めていた。小さな背中が、ネオンの海へと溶けていく。ひとつ、またひとつ、灯りのなかへと紛れていった。狂介は黙ってその背を見送る。胸の内に、不可思議な温もりが残る。言葉にならない何か。──悪い夜ではなかった。そう呟いて、ポケットから煙草を取り出す。火をつけた。闇の中に、小さな赤が灯った。
***
午後の陽光がアスファルトに跳ね返っていた。狂介はヘルキャットのステアリングを無言で握りしめ、首都高を漫然と流していた。どこへ向かうつもりもなかった。ただ、無為な時間を燃料に変えて走っていた。カーステからはモダン・ジャズが漏れていた。だが、今日は妙に耳についた。指先でダイヤルをひねると、ラジオの中に軽薄なDJの声が割り込んできた。ゲストの女が笑い声を上げている。弛緩しきった空気が、苛立ちを誘った。そのときだった。右のサイドミラーに、重たい影が差した。黒いバイクが、速度を合わせて並走してきた。川崎のNinjaZX-10R。千ccクラスのフルカウルマシン。マットブラックの外装が、夜を纏った獣のように路面に影を落とす。ライダーは全身を黒革で固めていた。顔はフルフェイスのヘルメットに覆われ、目すら映らない。だが、気配があった。生身の殺気。ナイフのように鋭く、熱を持った殺意が、並走車線から突き刺さってくる。
狂介の全身が粟立った。ライダーの右手が、ゆっくりと腰のホルスターに伸びた。抜かれたのは、グロック17。ポリマー製の9mmオート。現場の殺し屋が好む、手堅く、無慈悲な道具だった。その銃口が、ピタリとこちらのこめかみを捉えていた。一拍遅れて、狂介の血が熱を取り戻した。たるんでいた神経が、鋼の鎖のように締まる。戦闘のスイッチが、音もなく入り込んだ。*狂介の足が、ブレーキペダルをかすめた。わずかにフロントが沈み、Ninjaが前に出る。その瞬間、ステアリングを切った。マシンが斜めにスライドし、車体がバイクのラインを遮る。タイヤが甲高く悲鳴を上げた。黒いライダーが即座に回避に出たが、狙いは狂った。その隙に、狂介の右足がシフトを一段落とし、アクセルを踏み抜く。HEMIのV8が怒声のような咆哮を上げ、後輪が白煙を撒いた。車体が、路面を食いちぎるように前へ躍る。ミラーの奥に黒い影が追い縋り、銃声が混じった。乾いた音とともに、リアガラスに蜘蛛の巣のようなひびが走る。だが、狂介は構わなかった。グリップに伝わる震えだけが、今は頼りだった。目前に、トンネルの入口が迫る。境界線のような明暗のグラデーションに差し掛かる直前、狂介は急ハンドルで軌道を外した。大型トレーラーの死角へ、ギリギリのタイミングで滑り込む。黒いライダーの視界から、逃れた。冷たい汗が全身に滲む。血に刷り込まれたアクセルワークで殺し屋を振り切った。だが殺意に気付くまでの致命的な鈍さ。苦い味が残った。
***
再び、道場にて。畳に背をつけた狂介の上に、虎が素早くベースを固めて覆いかぶさる。ガードを組み直そうとする狂介の脚を、虎は左手でフレームを潰しながら内側から切り裂くように差し込み、スピーディにレッグウィーブパスへ移行。腰を深く沈め、重心を流しながらスネを畳に落とす。――パスガード完了。そのままニースライスからサイドポジションを奪い、狂介の上体をクロスフェイスで固定する。肩が喉元にめり込み、肺が縮むような圧迫感が胸を襲った。
「……ぐっ」
狂介がわずかに呻いた瞬間、虎は素早くアンダーフックを切り、キムラグリップを確保。体を一気に反転させながら、右脚を頭上に回して飛び込む。――アームバー。正確には、サイドからのスピンアームバー。極まりは一瞬だった。腕の関節に電流のような痛みが走る。逃げ場はない。狂介は苦悶の表情を浮かべながら、無言でタップ。虎は即座に腕を離し、静かに立ち上がる。畳に寝たままの狂介の胸が、大きく上下していた。荒い息だけが、道場の空気を震わせていた。
***
床に落ちた汗が、戦いの名残を告げる。だが、勝者の表情に喜びはなかった。むしろ――苛立ち。
「右腕は、もう治ってるはずだ」
低い声が室内に落ちた。
「今日は左を狙った。それでも、このザマか」
狂介は座り直し、タオルで顔を拭った。曖昧に頷く。
「ああ……」
それ以上は言わない。言えなかった。体が重いのではない。魂の芯が、冷えていた。虎は腕を組み、少しの間を置いてから言った。
「昨日は、悪かったな。行けなくなった。……今日こそ飲もう。お前の顔を見ながら、一杯やりたい」
狂介は顔を上げた。だが目の焦点は、どこか別の場所に置き去られていた。
「……やめておく」
「理由は?」
時間が止まる。道場の空気がわずかに軋んだ気がした。狂介は、まるで関係のない事を呟くように言った。
「……気分じゃない」
虎が鼻で笑った。肩をすくめるように背を向ける。その背中を、狂介は無言で見つめていた。心のどこかに、ぽっかりと空洞ができている。その正体を、まだ掴めずにいた。
***
地下駐車場は、昼でも夜のようだった。天井の蛍光灯が無機質に点滅し、コンクリートの床を青白く染めている。狂介は無言のまま歩き、停めてあった車の前で足を止めた。ドアノブに指をかける――その瞬間だった。背中に、氷の刃のような気配が突き刺さった。
「――動くな。手を挙げろ」
声はくぐもり、乾いていた。人間の温度を持たない、機械のような響き。狂介は即座に反応し、両手を上げたまま、ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、黒ずくめの影だった。タイトなライダースーツ。顔を覆うフルフェイスのヘルメット。黒いグローブの手に握られていたのは、グロック17。銃口は真っ直ぐ、狂介の鼻先に向けられていた。揺れる銃口のわずかな振動が、指の緊張を物語っていた。あと一つ、筋肉が動けば――引き金は落ちる。狂介は声を発さない。ただ、冷たい銃口を見つめ返す。数秒の沈黙。次の動きは、相手からだった。グローブの指先が、ヘルメットのロックを外す。バチンと小さく音がして、黒い面が跳ね上がる。
***
――現れたのは、由香だった。ポニーテールの輪郭は変わらずとも、瞳の光は違っていた。ゲームセンターで見せた無邪気な笑顔は、影も形もない。そこにあったのは、憎しみだった。深く、暗く、濁った憎悪。*狂介は驚かなかった。心のどこかで、こうなる展開を――予想していた節すらある。由香の顔は、怒りで歪んでいた。あの夜、軽口を叩きながら笑っていた“無垢な女”は、もういない。いたのは、復讐の化身だった。
「それでも東洋一と謳われた殺し屋なの?」
由香の声が、低く刺すように落ちた。狂介は視線を逸らさず、淡々と返す。
「そんなに有名人とは思わなかった」
その一言に、由香の目がぴくりと震えた。内側から、怒りが燃え上がる。
「わたしが誰か分かる?」
「由香。看護師と名乗っていた」
「違う!」
叫びと同時に、グリップを握る手が締まる。
「分からないでしょうね。あなたが殺してきた、数多いる男たち。その誰かの娘よ。思い出せもしないはず。あなたにとっては、朝食べたトーストほどの価値もないんだから」
狂介の声は低かった。冷笑でも皮肉でもない、ただ乾いた呟きだった。
「朝は食べない派だ」
それが火種だった。次の瞬間、由香の表情がはじける。銃を持ったまま、殴りつけてきた。グロックのグリップが頬を打ち抜き、顔がはじかれた。骨がきしみ、口の中に血の味が広がる。鼻腔の奥に痛みが抜け、額がかすかにしびれた。だが――狂介の目は変わらない。
「銃で殴るのはおすすめしない。……ゲームとは違う」
皮肉ではなく、事実だった。由香は無言で銃を構え直す。瞳は凍りついたように冷たい。
「ふざける時と場所ぐらい、学ばなかったの?」
狂介は、血の混じった唾を飲み込み、表情を崩さず返した。
「授業は退屈で、聞き流してきたからな」
「もう一度入学すべきね」
由香の瞳が、ほんの一瞬、笑みすら失った。氷のような声が落ちる。
「もっとも――そんな機会は、もう訪れないでしょうけど」
銃口が、ふたたび動く。ゆっくりと、確実に、命をなぞるように。
「――昨日、連絡が来たの。組織から。あなたを“処理しろ”って。正式な指令だったわ。どれだけ、嬉しかったと思う?ずっと夢見てたの。父殺しの相手に銃を向けるこの瞬間を。まさかゲームセンターで会ったあなたがその対象とはね」
由香の指が、カチリと引き金にかかった。
***
狂介は唇に残る血を舐め、目を細めた。声は低く、あえて噛んで含めるように言った。
「安全装置は外したか?」
由香の目に、侮蔑が走る。口元が冷たく歪んだ。
「素人と思わないで。ここまで来るのに訓練を積んできたの。銃も、バイクも。そうでなければ、組織の一員にはなれない」
「もったいないな。看護師のほうが似合うと思うが」
「あなたの趣味に合わせる気はないわ」
狂介は肩をすくめ、鼻を鳴らした。
「時間をかけすぎじゃないか?プロなら手早くやるべきだ」
由香の顔に影が射した。憎悪の色が、頬の奥からじわじわと滲み出る。
「ここまで来るのにどれだけの時間がかかったか、分からないでしょうね。せっかくなら――いたぶって殺したいのよ」
「人を撃ったことはあるのか?」
由香の目がわずかに揺れた。答えが、一拍遅れる。
「初めてよ。……最後にするつもり」
「いい心がけだ」
「余裕ぶらないで。命乞いしなさいよ」
「したら見逃してくれるのか?」
「安心して。命乞いの途中で殺してあげるから」
狂介の目元がわずかに笑った。
「いい趣味してる。俺もよくやる。いや、やってきた」
由香の瞳が細くなる。競馬場のゲートに立つ競走馬のような、緊張と殺気の閃き。
「そうでしょうね」
狂介の右手が、ほんのわずかに腰のあたりへと沈みかけた。その動きに、由香の目が鋭く反応する。
「無駄な足掻きはしないことね」
由香の声は冷たく、金属のように響いた。
「ワイズクラックを重ねれば、騎兵隊が駆けつけてくれると思ってるの?あるいは銃を持った天使。――そんな救いの手は、どこにもいないわ」
「いるさ。ここに一人な」
獰猛な声が地下駐車場の闇を裂くように響いた。




