みんなで、夏の終わりのお祭りに
赤坂の坂道を、ゆるやかな風が抜けていく。昼の熱気を残しながらも、どこか秋の気配を混ぜた風だった。誠は、神社へと続く石段の下に立っていた。提灯が連なり、白い紙の灯がひとつひとつ、夜の輪郭をやわらかく照らしている。その光の粒が、まるで時間の欠片みたいに、彼の胸に滲んでいった。
「まーくん!」
呼びかけとともに、軽やかな下駄の音。浴衣姿の瑞希が、手を振りながら駆けてくる。淡い藤色の浴衣に、白い帯。髪をまとめたうなじから、うっすらとした香水の匂いが流れてきた。
「ねえ見て、これ似合う?帯、ちょっと緩くてさ……」
「似合ってる。たぶん、今日いちばん浮かれてる人だと思う」
「失礼なっ。こういう日は浮かれていいの!」
瑞希が笑う。その笑顔の明るさが、祭りの灯よりもまぶしかった。
「悪い、待たせた?」
振り返ると、飛鳥がゆっくりと石段を上がってきていた。白地に藍の花模様の浴衣。片側だけを飾り紐で結んでいる。その姿が、夜風に溶け込むように涼やかだった。
「別に、ちょうどだよ。似合うね」
「……ありがと。でも、浴衣なんてさ、歩きづらくてしょうがないよ」
照れを隠すように口元をそらす。その仕草に、瑞希がすかさず笑う。
「歩き方がぎこちないもんね~」
「うるさい」
飛鳥が顔を赤らめる。それを見て、誠の胸の奥がふっと温かくなった。
「すみません、遅くなりました」
最後に現れたのは七海だった。淡い水色の浴衣に、金魚の帯飾り。その静かな色合いが、夕闇に揺れる提灯の光を受けて、柔らかく溶けていた。
「おお……さすが完璧だね」
「ありがとうございます。……でも、少し、照れますね。こんな格好」
「似合ってるよ」
と誠が言うと、七海はわずかに微笑んだ。その笑みには、どこか儚さが宿っていた。四人は並んで石段を上る。足元から聞こえる下駄の音が、ひとつ、またひとつ、夜の空気に溶けていった。焼きとうもろこしの匂い。綿菓子の甘い風。遠くで太鼓が鳴る。境内が近づくにつれて、光が増える。提灯の赤が肌に反射し、三人の横顔を交互に照らした。瑞希は楽しげに、飛鳥は少し照れながら、七海は穏やかに微笑む。どの表情も、あまりに綺麗で、どこか夢の中のようだった。やがて、太鼓の音が近づく。神社の境内に差し込む光の海が、四人を包み込んだ。
***
境内に入ると、夜の色がいっそう濃くなっていた。屋台の明かりがまぶしく、赤や橙の光が空気をゆらしている。焼きそばの香ばしさ、りんご飴の甘い匂い、紙風船がぶつかる音。その全部が、夏の名残のように胸の奥に沁みた。
「わ、見て見て!スーパーボールすくいだ!」
瑞希が駆け寄る。浴衣の裾が揺れて、足首がちらりと覗いた。飛鳥がすかさず笑う。
「またそんな子どもっぽいやつ」
「お祭りはそういう常識に縛られなくていいの!」
瑞希の笑顔につられて、誠も笑ってしまう。すくい網が破れて、水面に波が走る。灯りの反射が、彼女の頬をきらりと撫でていった。
「私はこっちがいいです」
七海が、静かな声で射的の屋台を指さした。手元の銃を構える姿勢が、妙に様になっている。屋台の親父も思わず目を丸くした。
「七海、意外と本気だな」
「ええ、的を狙うのは得意なんです」
みんなの声が、夜店の喧騒の中で溶け合っていく。太鼓の音が遠くから重なり、盆踊りの輪がゆるやかに回っていた。
「まこと、ほら」
飛鳥が小さな綿菓子を差し出してきた。
「食べる?一人じゃ食べきれないから」
「……ありがとう」
受け取ると、指先に触れた砂糖がふわりと溶けた。白い綿が夜気を吸って、ほのかに湿っている。その一瞬の甘さに、なぜか胸が少し締めつけられた。笑い声の波の中で、夏が遠ざかっていく音がした気がした。
「風が変わりましたね」
七海が言う。神社の上の木々がざわめいて、風鈴の音がいくつも重なった。涼しくて、少しだけ寂しい風だった。
「ほんとだ、秋っぽいね」
瑞希が頬を押さえて笑う。
「夏、終わっちゃうのかな」
「終わっても、また来年あるだろ」
そう口にしながら、誠は自分の声が少し掠れているのに気づいた。本当は――終わってほしくなかった。この笑い声も、光の粒も、全部ここに留めておきたかった。飛鳥が、空を見上げてつぶやく。
「ねえ、見える?東京タワー。灯、ついてる」
赤い光が、遠くのビルの向こうで瞬いていた。屋台の明かりよりも淡く、どこか冷たい。その灯が、夏の最後の信号のように思えた。
「……きれいだな」
誠がそう言うと、三人が同時に顔を上げた。提灯の光が、浴衣の色をひとつずつ染めていく。誰も言葉を続けなかった。けれど、その沈黙が、不思議なほど心地よかった。やがて太鼓の音が止み、人の流れがゆっくりと緩む。夜の中で、風だけが一定のリズムを保っていた。それはまるで、夏が名残を惜しんでいるかのようだった。
***
空を仰ぐ人の波が、境内の奥からゆるやかに広がっていた。遠くのビルの隙間から夜空がわずかに覗き、その闇を裂くようにひと筋の光が昇った。音のないまま、夜が花開く。
「わ……!」
瑞希の声が弾む。赤と金の火花が夜空を満たし、提灯の灯りが薄れていく。光が頬をかすめ、浴衣の色が瞬くたびに、それぞれの笑顔が儚い絵のように見えた。風が止まり、熱を孕んだ空気が一瞬だけ沈黙する。やがて腹の底に響くような音が遅れて届き、花の残光が三人の横顔を包み込んだ。瑞希は胸の前で両手を合わせ、飛鳥は髪を耳にかけて目を細める。七海は静かに夜空を見上げ、光が頬をすべっていくのをそのまま受け止めていた。誠はその並んだ姿を見つめていた。夏がゆっくりと遠ざかっていくような、そんな確信めいた感覚が胸の奥をかすめる。次の花火が上がった瞬間、瑞希が小さく手を叩いた。
「ねえ、今のうちに撮ろう!花火バックで!」
「無理だろ、これ……全部入らないって」
誠がスマホを構えながら苦笑する。画面には、瑞希の髪と飛鳥の肩だけが妙に大きく写っていた。
「ほら、角度が甘いの!」
瑞希が鞄の中から自撮り棒を取り出す。
「ちゃんと準備してきたもん、これでいけるでしょ!」
「ほんと用意いいな……」
と誠が呆れたように笑い、四人は花火の光の下で顔を寄せ合った。七海が少し恥ずかしそうに笑う。
「こういうの、なんだか学生みたいですね」
「学生だよ、まだ!」
と飛鳥が返す。
「はい、いくよー、せーの!」
瑞希の声が弾み、その瞬間、夜空で大輪の花が開いた。シャッターの音。金色の光が、四人の頬を同時に照らした。画面の中の笑顔は、少し滲んでいた。花火の閃光のせいか、涙のような輝きが混じって見えた。瑞希が確認して笑う。
「ちょっとブレてるけど……いいね、これ」
「うん、これでいい」
誠の声は自然と柔らかくなっていた。完璧じゃないからこそ、今この瞬間の空気がそのまま閉じ込められたようだった。花火の音が再び夜空を揺らす。その光のなかで、四人の影が重なり合い、まるで一枚の写真の中に溶けていくようだった。
***
「……まこと」
飛鳥が呼びかける。花火の轟きの合間を縫うように、彼女の声が小さく響く。
「今日、来てよかった」
誠はわずかに微笑む。
「うん。夏の終わりって、いいな」
「なんで?」
「……終わるってわかってるから、かもしれない。一瞬一瞬を、大事にできる気がして」
飛鳥は目を瞬かせ、照れくさそうに笑った。
「そういうこと言うの、ずるいんだから」
その頬に次の花火が咲き、彼女が泣き笑いしているように見えた。背後から、瑞希の声が届く。
「ねえ、来年も、みんなで来ようね」
言葉の奥に、わずかな震えが混じっているような気がした。七海が静かにうなずく。
「はい。来年も、同じ場所で」
誠は答えを探したが、言葉は見つからなかった。この夜の光も、声も、表情も、いまここにしかない気がした。夜空に、最後の花火が咲いた。銀色の閃光が静かに散り、やがて黒へと還る。風が流れ、提灯がひとつだけ揺れた。誰も話さなかった。ただその静けさの中で、四人の鼓動が同じリズムで重なっていた。金木犀の香りが、かすかに風に乗る。花火の煙が流れていき、その向こうに、街の灯が滲んでいた。夏が、静かに終わろうとしていた。
***
境内を出ると、提灯の列が遠くまで続いていた。人の流れがゆるやかに坂を下り、浴衣の裾が風に揺れるたびに、鈴の音がかすかに鳴った。太鼓の音はもう聞こえない。代わりに、虫の声が草むらの奥で細く響いていた。屋台の片づける音がぽつぽつと残り、光の海はゆっくりと終わりを告げていく。誠たちは、並んで歩いていた。四人の間に、言葉は少なかった。それでも、沈黙が苦ではなかった。花火の余韻がまだ身体のどこかに残っている。その微かな震えを、それぞれの呼吸で確かめ合うように。
「ねえ、足疲れた」
瑞希が小さくつぶやく。
「下駄で坂って、けっこうキツいね」
「少し休もうか」
誠が言うと、七海が振り返り、近くの石垣を指した。
「ここ、腰かけられそうです」
四人は並んで腰を下ろした。夜風が通り抜け、風鈴の音が遠くで鳴った。
「楽しかったね」
瑞希が空を見上げたまま言う。
「なんか、今日が終わるの、もったいない」
「ほんと。明日、急に現実に戻れないかも」
飛鳥が笑う。それに七海が
「戻らなくてもいいですよ」
と優しく返す。三人の笑い声が重なり、夜の坂道に溶けていった。誠はその声を聞きながら、街の灯をぼんやりと見ていた。遠くでタクシーが止まり、誰かの笑い声が響く。祭りの音が消えたあとの静けさが、不思議とあたたかく、そして少しだけ寂しかった。七海がそっと立ち上がる。
「そろそろ、行きましょうか」
提灯の灯が風に揺れ、彼女の髪の端が光を受けてきらめいた。飛鳥と瑞希も立ち上がり、浴衣の裾を直しながら並ぶ。誠も続いて歩き出した。坂の下には、赤坂の街の光。それはまるで、夏と秋のあわいに灯る小さな海のようだった。誰も何も言わなかった。けれどその沈黙の中には、“また会える”という確かな約束と、“もう戻れない夏”への祈りが同居していた。坂を下りきったところで、三人が振り返る。神社の灯が、遠くの木々の向こうで揺れていた。誠は一瞬だけ立ち止まり、その光を目に焼きつけた。――この夏を、忘れない。その言葉は声にならず、夜風にさらわれていった。東京の空には、まだほんの少し、夏の匂いが残っていた。




