飛鳥、兄との再会
飛鳥は勇気を出して両親に連絡する。
「……お兄ちゃんの連絡先って、まだ分かる?」
母からは「ある」と短い返信、アドレスが返ってきた。父からは「もう何年もやりとりしてないけどな」とぶっきらぼうな言い添えが。飛鳥は「ありがとう」 とだけ返す。その瞬間から、胸の奥が落ち着かなくなる。
***
夜、自分の部屋。机にスマホを置いて、何度も画面を見つめた。指先が動いては止まり、また動いては消す。
「元気?」と書いては消し、「久しぶり」と打っては消す。
(どう送ればいいんだろう……。重くなったら嫌だし……でも軽すぎても……)
時計の針が進むたびに心臓の鼓動が強くなっていく。結局、打ち込んだのは一行だけ。
「久しぶり、飛鳥だよ」
それ以上は、どうしても書けなかった。震える指で送信ボタンを押す。
***
既読がつくまでの時間が、永遠に思えた。何度も画面を開いては閉じ、心臓が耳の奥で鳴り響く。ふいに震えたスマホを見て、息を呑む。返信は――「元気か?」
短い、けれど確かに兄からの言葉だった。
***
その夜、飛鳥は布団に入っても眠れなかった。やり取りを何度も読み返しながら、
(次は……何を返せばいいんだろう)
と考え続けていた。
***
翌日、深呼吸をしてから、指を動かす。
「元気だよ、大学生になったよ」
送信ボタンを押すと、またすぐに既読がつく。
「そうか。あんな小さかった飛鳥が大学生か」
――覚えていてくれた。胸の奥がじんわり熱くなる。
「うん、今は一人暮らししてるよ」
「へえ、飛鳥が一人暮らしかあ」
そのやり取りは、思っていたよりも自然に続いた。兄は多くを語らないけれど、質問には応じてくれる。飛鳥は夢中になって書き連ねた。気がつけば、画面の文字がどんどん埋まっていく。
***
やり取りがひと段落したところで、ぽつりと一文が届いた。
「今度、会うか?」
飛鳥の心臓が大きく跳ねた。思わずスマホを握りしめる。
「うん、会いたい」
指が震えていた。送ったあともしばらく胸がざわめき続ける。
「じゃあ、錦糸町あたりで。喫茶店なら静かに話せる」
現実味を帯びた文字に、呼吸が浅くなる。
「わかった。楽しみにしてる」
そう返した瞬間、飛鳥は自分の鼓動が耳の奥で爆発するのを感じていた。
***
約束の日。錦糸町の駅を降りたときから、飛鳥の胸はずっとざわついていた。昼下がりの雑踏を抜け、指定された喫茶店に向かう。チェーンのカフェよりも少し落ち着いた雰囲気で、木目調の看板が目印だった。扉を押すと、心地よいコーヒーの香りが迎えてくれる。飛鳥は緊張のあまり、入り口近くの席に座ってしまいそうになり、慌てて店の奥のテーブルに移動した。少しでも落ち着ける場所を選びたかった。アイスコーヒーを頼むと、すぐにグラスが運ばれてきた。カラン、と氷が音を立てる。ストローを指先でいじりながら、落ち着かない視線を入口に向けたり、時計に向けたり。
(ちゃんと来てくれるよね……?)
メッセージでは時間と場所を確認している。でも不安は消えない。店に入ってくる人影が見えるたびに、胸が跳ね上がる。サラリーマン、買い物帰りの親子、カップル。でもどれも違う。グラスの水滴がテーブルに広がる。ナプキンで拭き取りながら、また入口を見やる。
***
扉が開いた瞬間、飛鳥の胸は大きく跳ねた。入ってきた男性は地味な私服、背は高く髪に少しだけ白いものが混じっている。顔には覚えのない皺。それでも、目の奥や歩き方は、記憶にあるままの「お兄ちゃん」だった。優しい顔つき。思わず立ち上がりかけて、椅子の脚が小さく音を立てる。兄がこちらに気づき、わずかに目を細めた。ほんの一瞬、頬に笑みが浮かんだ気がして、飛鳥の胸が熱くなる。向かいに座った兄は「久しぶり」とだけ言った。その声音に特別な抑揚はなかったが、決して冷たくもなかった。むしろ少し照れくさそうで、思いがけず嬉しそうに見えた。飛鳥はカップを前にしたまま、抑えきれずに口を開く。言葉が次々にあふれる。キャンパスのこと、授業のこと。新しくできた友達、瑞希や七海、そして誠の名前も。まだ話の入り口に過ぎないのに、胸の奥からどんどんこぼれてくる。兄は驚いたように目を瞬き、それから小さく頷いた。その頬にまた、わずかな笑みがかすめた。飛鳥の心臓はさらに早く打ち始める。会えただけでもう十分に嬉しいのに、今なら何でも話せる気がした。
***
コーヒーの湯気がゆらめく。飛鳥は胸の奥に渦巻く熱を抑えきれず、言葉を畳みかけた。キャンパスの風景。瑞希の明るさに助けられた話、七海の落ち着きに救われた話。そして、誠という不思議な存在に出会ったこと。もちろん特別な関係までは口に出さない。でも名前を挙げるだけで、飛鳥の声は自然と弾んだ。
「それでね、この間なんか──」
話題は途切れず、つながっていく。言葉にすればするほど、胸の中の喜びが膨らんでいく。会えた嬉しさを、この数年の空白を埋めるように注ぎ込まずにはいられなかった。兄は静かに聞いていた。カップを口に運びながら、短く「そうか」と相槌を返す。大げさに笑うことも、深く踏み込むこともない。ただ、真正面から妹の声を受け止めているようだった。飛鳥はその様子に、ますます胸を高鳴らせる。自分の話に耳を傾けてくれている。それだけで、ずっと求めていた距離が少しずつ縮まっているように思えた。
(もっと話したい。今のわたしを、全部知ってほしい)
そう願う心のままに、飛鳥の言葉は止まらなかった。
***
講義のこと、友達とのやり取り、ちょっとした失敗談まで。自分でも話しすぎているのはわかっていたけれど、もう止まれなかった。今この瞬間に、伝えたいことがあまりに多すぎた。兄は、変わらず静かに頷いていた。
「よかったな」と、短い言葉を返す。ふと視線がテーブルの上のスマホに落ちる。親指が画面をタップし、ちらりと時間を確かめる。ほんの数秒の仕草だったのに、飛鳥の胸にざらりと影を落とした。それでも口は動く。楽しい話題を探して並べ立てる。けれど、笑顔を浮かべているのは自分だけのような気がしてくる。
(……あれ?こんな感じだったかな)
高揚の中に、冷たい感覚が混じり始める。耳の奥で響く自分の声が、だんだんと遠くから聞こえるような気がした。まるで、別の自分が天井からこの場を見下ろしているように。話は続いているのに、胸の奥にしぼみ始めるものがあった。
***
気がつけば、テーブルの上の氷はすっかり溶けていた。カップの底には薄くなったコーヒーが残り、話の勢いも、もう最初の熱を失いつつあった。飛鳥はそれでも何かを埋めるように言葉を探した。けれど、兄の頷きは変わらず、視線はまたちらりとスマホに落ちた。短い通知音が鳴り、彼の指が画面をスライドする。返事を打つことはなかったが、確かに時間を気にしているのがわかった。胸に残るのは、焦燥と空洞。もっと話したいのに、空気はもう閉じてしまっている。その矛盾に、飛鳥は自分の声がだんだん小さくなっていくのを感じた。一時間ほど経った頃だった。兄がふと腕時計を見て、口を開いた。
「……そろそろ、お会計しようか」
当たり前の調子で告げられた一言。飛鳥は「うん」と返すしかなかった。会計は兄がすべて払った。伝票を手に、迷いなくレジへ向かう背中を見つめながら、飛鳥はグラスを握る手に汗が滲んでいるのに気づいた。
「……ありがとう」
出口で小さく礼を言うと、兄は軽く頷き、扉を押した。その仕草さえ、どこか遠くに思えた。
***
ガラス扉を抜けると、午後の錦糸町は雑踏と車の音で満ちていた。兄は足を止め、振り返る。
「今日はありがとう。また、会おうな」
言葉には柔らかさがあった。けれどすぐにスマホを見て、少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「……悪い、急ぎの用事があってさ。ほんとはもっとゆっくりしたかったんだけど」
その声音は確かに詫びていて、決して冷たいものではなかった。飛鳥は瞬間的に「ううん、大丈夫」と答えていた。兄は軽く手を上げ、人混みの中へと歩いていく。その背中はすぐに雑踏に紛れてしまった。飛鳥は「またね」と小さく呟き、手を振った。言葉は飲み込まれ、声にならなかった。理解している。兄が冷たいわけじゃないことも、また会えるかもしれないことも。それでも喉の奥がきゅっと締まり、呼吸が少し苦しくなった。
***
電車の揺れに合わせて、窓の外の景色が流れていく。飛鳥はシートに腰を沈め、頬をガラスに寄せながら、ぼんやりと外を眺めていた。
(何がいけなかったんだろう……)
すぐに答えは出た。――何も、いけなくはなかった。兄は確かに用事があったのだ。それでも時間を割いて、わざわざ会いに来てくれた。それは間違いなく事実で、ありがたいことだった。でも、と思う。もっと盛り上がることを、どこかで期待していた。昔みたいに笑い合って、話が止まらなくなって、この後に居酒屋でも行こうか、なんて流れになって、それからそれから──ちがう、頭の中で膨らんでいたのは、ぜんぶ勝手な期待で、妄想だった。急に恥ずかしくなる。兄は何も悪くない。ただ、会えなかった時間に自分の中で思いを膨らませすぎただけ。それに一方的に自分の話ばかりしていた。兄の近況を何も聞けていない。今はどんな風に暮らしているのか、何をしているのか。用事が何だったのか。窓の外の景色がじんわりと滲み、揺れる。
「……バカみたい、恥ずかしい、わたし」
小さく、小さく、飛鳥は呟いた。その声は電車のきしむ音にまぎれて、誰の耳にも届かなかった。
***
車内アナウンスが響き、電車がホームに滑り込む。飛鳥は重い体を持ち上げ、降り口へ向かった。改札を抜ければ、すぐに自分の部屋へ帰れる。帰って、一人でベッドに沈み込むだけだ。ポケットの中で、スマホが震えた。画面をのぞき込む。そこには、七海の名前。
「今から……よかったら、うちに来ませんか?」
胸が、ぎゅっと鳴った。無性に会いたい。その気持ちが、頭よりも先に体を動かす。改札の前で立ち止まる。スマホを取り出しかけた手を握りしめ、踵を返す。人の流れをすり抜け、もう一度ホームへと駆け戻る。次に来る電車に飛び乗ったとき、胸の奥で何かが弾けたように思えた。今すぐにでも、七海に会いたかった。
***
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。七海がそこに立っていた。柔らかな笑顔で「いらっしゃい」と迎えられた瞬間、飛鳥の胸の奥の弱い部分が音を立てて崩れそうになる。
(……水風船みたいだ)
少し触れられただけで、破けてしまいそう。そんな自分の脆さを感じながら、飛鳥は靴を脱いで中へ入った。七海はソファに飛鳥を導き、すぐにキッチンへ向かう。ほどなく湯気の立つカップを両手に持って戻ってきた。差し出された飲み物は、ほんのりと甘い香りが漂っていた。
「どうぞ。温まりますよ」
飛鳥は受け取り、一口すする。熱が喉を通って、胸の奥まで沁みていく。思わず声が漏れた。
「……七海がお母さんなら良かったのに……」
けれど、七海は驚くこともなく、柔らかく微笑んだ。
「ふふ。すっかり、うちは飛鳥さんの実家になってしまいましたね」
その声は、灯りのように温かかった。飛鳥はカップを両手で包み込みながら、胸の奥に安らぎが広がっていくのを感じていた。
***
「あのね――」
飛鳥はカップを置き、今日の出来事を話そうとした。兄に会ったこと、胸の高鳴りと寂しさ。でも言葉を続ける前に、七海の顔に気づいた。目元が、わずかに赤い。そして、七海から「会いませんか」と誘われたことを思い出す。
(……何か、あったんだ)
「……七海、何かあったの?」
問いかけると、七海は「別に」と首を振った。けれど、その声は揺れていた。飛鳥はそっと、七海の手を握る。
「わたし、ちゃんと聞くよ」
その言葉に、七海は観念したように息を吐いた。
「……今日、れいの編集者さんに会ったんです。わたしのネットの投稿読んで、見所あるって連絡くれた人。約束通り喫茶店で会いました」
ぽつり、ぽつりと語り始める。
「いっぱいダメ出しをされました。全般に初歩の文法とか、てにをはとか、副詞の使い方とか……。でも、それは良いんです。全部、本当のことだから。直さなきゃいけないなって思って、最初はちゃんとメモを取ってました」
言葉がそこで詰まる。それでも震えながら続ける。
「でも、その人……だんだん語気が強くなってきて。"そもそも人に読ませることを想定してないでしょ?独りよがりなんだよね"って。"プロの校正を受けてみればわかるよ"とか、”俺も昔は書いてたからレベルわかるんだよね"って……。あと、"ちゃんと調べて書いてる?胡乱なところ多いよ"って」
飛鳥は何も言わず、手を強く握った。ただ聞くことしかできなかった。
「そこら辺から、もう頭がぐるぐるしてきて……」
七海の声が掠れる。
「あと"女が書いたポルノ描写って、やっぱり抜けないんだよね"って。……それが、一番悔しくって」
唇が震え、目に涙がにじむ。
「言い返したかったのに、口がパクパクして……何も出てこなくって。全体じゃなくって、個別にオンラインで連載してるやつのダメ出しも始まって……。それも、受け入れないといけない指摘も混じってたとは思うんです。でも……でも、小説って、私には子供みたいなものだから……」
七海の声はそこで途切れた。肩が小さく震え、飛鳥の手に熱が伝わってきた。
***
「……その後は、なんだかよく覚えていないんです」
七海は視線を落とし、言葉を探すように続けた。
「編集者さんの過去の仕事の自慢とか、誰それさんも知り合いだとか……そんな話が延々と続いて。最後に"また会わない?"って聞かれて……。わたし、首を振って。お金だけ押し付けて、お店を出てきちゃった気がします」
そこまで話すと、七海の肩が力なく落ちた。飛鳥は胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じて、思わずその身体を抱き寄せた。
「……わたしはね」
ぽつり、ぽつりと声を落とす。
「七海の文章、好きだよ。……えっちなところも。読んでると、ちゃんと興奮するもん」
七海が目を丸くし、それから少し照れたように笑った。
「……えへへ。ありがとうございます」
「他の誰が否定しても、わたしは七海の味方だよ」
そう囁くと、七海の肩が小さく震えた。抱き合った二人の間に、静かに鼓動の音が響く。時がゆっくりと流れていく。涙の熱も、温もりの熱も、少しずつ混じり合いながら、部屋の空気をじんわりと温めていった。
***
しばらく抱き合っていたが、七海はやがて小さく息をつき、腕をほどいた。頬にまだ赤みは残っていたけれど、その表情は少し落ち着きを取り戻していた。
「……わたし、調子に乗ってたのかもしれません。昔よりは上手く書けるようになったのかもって」
その自省に、飛鳥はすぐさま首を横に振る。
「だとしても、そんな言い方される必要ないよ。そんなやつ、グーパンチしてやればいいんだよ」
思わず拳を握る仕草に、七海はくすりと笑った。けれど、次の言葉は少し控えめな響きを帯びていた。
「でも……これはわたしの視点の物語なんです。文章を貶されたショックで、自分の都合の良いように脚色してるのかもしれません。本当は、編集者さんはもっと親身にアドバイスしてくださっていたのかも」
飛鳥は「うーん」と唸ってから、真っ直ぐに七海を見た。
「それはもう、本当のところは分からないよ。でも……わたしは七海の物語、好きだよ。ファンだから、ちゃんと判断できなくなってるのかもしれないけど」
七海はふっと微笑む。
「ふふふ……じゃあ、サイン入りますか?」
「今のうちに貰っておくと、後でいい値段になるかな?」
飛鳥のすました返しに、七海は声を立てて笑った。重かった空気が、ようやくやわらかく溶けていく。
***
笑い合ったあと、七海はカップを両手で包み込み、ふっと目を細めた。
「……次は飛鳥さんの番です」
「え?」
「本当は、話したいことがあったんですよね?わたしが先に甘えてしまったから」
その気遣いに、飛鳥は胸の奥がじんと温かくなる。息を整えて、かいつまんで話し始めた。
「……今日ね、兄に会ったんだ」
驚いた七海の目が、静かにこちらを見つめる。その視線に支えられるように、飛鳥は続けた。
「最初は……すごく嬉しくて、夢中で話してたの。大学のこととか、友達のこととか……いっぱい。けど、途中で気づいちゃったんだ。なんか、わたしばっかり空回りしてて……」
言葉を探すように、指先でカップを撫でる。
「だんだん、気持ちが萎んでいく感じがして。……結局、一時間ぐらいで解散になったの」
思い出すと胸が苦しくなるけれど、飛鳥は慌てて付け加える。
「でも、兄は悪くないんだ。用事があったのはきっと事実で……。ただ、わたしが"盛り上がるに決まってる!"なんて事前に期待しすぎただけで。だいたい自分の話ばっかしてお兄ちゃんから、何も聞けてないし」
そこまで言うと、飛鳥は肩を落とした。けれど、七海は口を挟まず、ただ静かに聞いていた。その沈黙が、責めるでも慰めるでもなく、まるで羽毛布団のように柔らかく飛鳥を包んでいた。
***
「……バカみたいでしょ、わたし」
飛鳥は照れ隠しのように笑ってみせた。けれど胸の奥のざらつきは消えていない。七海は首を横に振ると、そっと両腕を回し、飛鳥を抱き寄せた。肩に触れる手は温かく、心の奥の硬さを少しずつ溶かしていく。
「人間って、不思議ですよね」
七海の声は耳元でやわらかに響いた。
「一人の方が楽チンで、でもそれだと寂しくなって。誰かに会いたくなって……。会うと上手くいかなかったり、揉めたりして、また離れて……また寂しくなって。その繰り返しです。他人ですからね。自分とは違う、思った通り、期待通りになってくれないです。それでも会いたくなってしまうんですよね」
飛鳥は小さく頷いた。
「……うん」
***
静かな時間が流れた。やがて七海は腕をほどき、微笑んで言った。
「お茶、冷めちゃいましたね。いれ直しましょうか?」
「このままでいいよ」
二人の間にふんわりとした空気が広がる。温度の下がったカップを手にしていても、不思議と心は冷えなかった。
***
カップを両手で包みながら、飛鳥は一口すする。ぬるくなったお茶も優しい味がした。七海がふっと目を細める。
「……飛鳥さん、呼び出してしまってごめんなさい。甘えたくなってしまって……」
飛鳥は肩をすくめて、すぐに返す。
「いいよ、そんなの。だってプラマイゼロどころか、いつもわたしからめちゃくちゃ甘えてるから……負債額、すごいことになってるし」
七海は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、瑞希さんには?」
飛鳥は顔を顰めて、大げさにため息をつく。
「瑞希はわたしに心の借金しまくりでしょう。利子つけて返してほしいくらい」
「そうでしょうか。飛鳥さんが、甘えているときもあるような……」
「なんだよー、敵に回るのかよー」
「どうどう。わたしのファンじゃないですか」
「ファンを敵に回すと怖いよ?」
いつもの調子に戻った軽口が部屋に響く。張り詰めていた気配はすっかりほどけ、二人は笑いながら肩を寄せ合った。
***
笑い合っていたところで、テーブルの上のスマホが小さく震えた。飛鳥は反射的に手を伸ばし、画面をのぞき込む。そこには兄の名前。開いたメッセージには、短いけれど真っ直ぐな言葉が並んでいた。
> 今日はすぐ解散になってごめん。
> 会えて嬉しかったのは本当だから。
> 社交辞令じゃなくて、また会おう。
> 今度はゆっくり話したい。
文字を追ううちに、飛鳥の視界がじんわりと滲む。胸の奥に残っていた重さが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「……お兄さんから、ですか?」
七海の穏やかな声。飛鳥は小さく頷く。内容を見てはいないはずなのに、七海は察したように微笑み、そっと飛鳥の手を握った。温かな掌の感触が、心に広がっていく。窓の外はすっかり夜。街の灯りが遠くでまたたき、部屋の中は静けさに包まれていた。時の流れはゆるやかに、しかし確かに夜更けへと向かっていた。




