『狂銃エレジー:黄金の心は夜に沈む』
七海がキーを叩く。また一つ、物語が綴られてゆく。
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黒石狂介は夜明けと同時に靴を履いた。酒も煙草も効かない夜だった。ジャズをかけても耳に入らず、ただ虚無だけが部屋を満たしていた。眠れぬまま、彼は街に出た。湿ったアスファルトを靴底が叩く。人気のない公園を、ただ歩く。風が木の葉を揺らす音すら、胸に刺さるほどだった。ベンチの先で、犬がこちらに駆けてきた。小さなフレンチブルドッグ。黒い鼻を鳴らし、短い尻尾を振っている。
「ごめんなさい、この子、人が好きで……」
声がした。振り向くと、若い女がリードを握って立っていた。ショートカットに大きな瞳。だが玲子のような妖艶さはない。どこか幼く、無邪気な笑顔だった。
「おはようございます。時々、見かけることあって」
彼女は犬を抱き上げながら、屈託なく笑った。狂介はわずかに会釈するだけだった。言葉を返す気力はなかった。それでも、犬は彼の足元で名残惜しそうに尻尾を振り続けていた。女は「麗音」と名乗った。声に曇りがなく、どこか場違いに思えるほど澄んでいた。
「この子のおかげで、毎朝散歩するんです。眠れない夜でも、散歩すると少し元気になりますから」
狂介は黙って頷いた。眠れぬ夜を歩き潰す自分と、同じことを言う女。だがその瞳は曇っていない。不思議と、その瞬間だけ胸の重さが少しだけ軽くなるのを感じた。
***
第二章歓楽街の再会夜の街は、ネオンと煙草の匂いにまみれていた。狂介は用もなく歩いていた。眠れぬ夜の足は、気がつけば歓楽街をさまよっている。角を曲がったとき、立ち止まった。街灯の下に立つ女がいた。派手すぎる化粧も、安っぽいワンピースも、どう見てもこの界隈の女。だが、その笑顔には見覚えがあった。――麗音。朝の公園で犬を連れていたあの無邪気な女だった。彼女は一瞬目を伏せ、気まずそうに、それでも小さく笑った。
「……こんばんは」
狂介の眉間に皺が寄る。
「犬はどうした」
「今は、仲間に預けてます。仕事がない子たちが面倒見てくれるんです。その分、わたしが稼がないと……」
はにかむように言うが、声音にはどこか必死さが混じっていた。麗音はためらいながらも、ふっと挑むように微笑んだ。
「……買っていきませんか?」
狂介の胸にざらつくものが走った。断るつもりで口を開いたが、声は出なかった。彼女の大きな瞳が、笑顔を装いながらも揺れているのが見えたからだ。数秒の沈黙。やがて、狂介はわずかに頷いた。その頷きに、麗音は安堵のような、少し切ない笑みを浮かべた。薄暗い安宿の一室。窓の外から、ネオンの明滅がカーテンを透かして入り込む。ベッドの縁に腰を下ろした麗音は、当然のようにワンピースの肩紐へ指をかけた。だが、狂介は手を伸ばさず、ポケットから厚めの札束を取り出して卓上に置いた。
「……これでいい。今日は眠れない。横にいてくれればいい」
麗音は瞬きをした。
「……抱かないんですか?」
狂介はライターを弾き、煙草に火をつけた。紫煙がゆらりと昇る。
「寝ても構わない。俺はただ……夜をやり過ごしたいだけだ」
その声には、欲望も作り笑いもなかった。ただひどく疲れた男の声音だった。麗音は一瞬、不審の目を向けた。遊び慣れた客の気まぐれか、あるいは何かの罠か。だが、狂介の横顔に浮かぶのは虚無だけ。嘘ではないと悟った瞬間、肩の力が抜けた。
「……変わった人」
そう呟きながらベッドに身を横たえる。背中越しに聞こえる男の静かな呼吸音が、不思議と心地よかった。安堵と、言葉にならない共感が胸に芽生えていた。それからも、似た夜が続いた。麗音は仕事の合間に狂介の部屋を訪れた。服を脱ぐこともなく、彼の横に横たわる。狂介は金を置き、煙草をふかしながら、ただ同じ闇を眺める。抱かれることもなく、ただ隣にいて、眠るだけの夜。最初は戸惑っていた麗音も、次第にその奇妙な関係に安らぎを覚えるようになっていた。
「……おかしいですよね。こうしてると、ちょっと安心するんです」
ベッドの中で小声で呟くと、狂介は応えなかった。だが、静かな呼吸とわずかな体温が返事のように感じられた。犬の話をするのは、いつも麗音だった。
「この子、すっごい食いしん坊で。ちょっとでもお金足りなくなると、まず餌代のことを考えちゃうんです」
そう言って笑う彼女の声は、昼間の歓楽街とは違う無垢さに満ちていた。狂介は耳を傾けるだけだった。だが、虚無に満ちていた夜に、かすかな色が差し込むのを感じていた。
***
夜更けの部屋。窓の外には雨粒が降りしきり、街灯の光をにじませていた。ベッドの中で、麗音がぽつりとつぶやいた。
「……この仕事、いつか辞めたいんです」
狂介は黙って煙を吐いた。言葉を促さずとも、彼女は続ける。
「犬といる時間をもっと増やしたい。あの子と昼寝したり、一緒に走ったり……」
小さな笑みを浮かべるが、その目はどこか遠くを見ていた。やがて彼女は視線を伏せ、震える声で言った。
「本当は、学校に通いたいんです。ちゃんと勉強して……友達を作って、笑って、一緒にお茶したり。ファミレスでみんなでパフェを食べたり……そんな、ありふれた夢ですよね?」
唇が小さく歪んだ。
「でも……わたしには贅沢な夢なんです」
狂介は灰皿に煙草を押し付け、短く息を吐いた。
「……誰だって夢を見る。お前だけのものじゃない」
その声音は荒く、だがどこか温もりを含んでいた。麗音は目を瞬かせ、やがて小さく頷いた。雨音が静かに響く。二人の間にあった奇妙な距離が、わずかに近づいた夜だった。
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その夜、麗音は自ら狂介の胸に顔を埋めた。
「……抱いてください」
囁きは震えていたが、瞳は真剣だった。狂介はしばらく彼女を見つめ、煙草を消した。いつものような荒々しい衝動はなかった。細い肩に手を添え、慎重に、まるで壊れものに触れるように抱き寄せた。
「……」
言葉はなかった。ただ指先と唇で、彼女の体をゆっくり確かめていった。麗音の息が甘く乱れていく。
「……こんなの、初めてです……」
瞳を潤ませ、熱に染まる頬で囁いた。彼女は抗うことなく、狂介の胸に溶けていった。やがて、麗音の小さな叫びが夜を震わせた。それは苦痛ではなく、幸福そのものの声だった。狂介は漏らさず、静かに彼女を抱きしめるだけだった。麗音は涙をこぼしながら笑い「……幸せです」と呟いた。その声は、彼の胸の奥に確かに刻まれた。
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静かな夜。乱れたシーツの上で、麗音は狂介の胸に顔をうずめていた。細い肩が小さく上下し、まだ余韻に震えている。
「……こんなこと、あるんですね」
うっとりとした声で呟く。
「わたしなんかが、こんなに幸せ感じていいんでしょうか」
狂介は答えなかった。ただ無言で、濡れた彼女の髪を手で梳いた。
「……優しいんですね」
麗音は顔を上げ、微笑んだ。
「勘違いするな」
狂介はぶっきらぼうに言った。
「俺はただ、眠れなかっただけだ」
それでも、指先が彼女の頬をそっと撫でている。麗音はその仕草をすべて理解しているように、また目を閉じた。小さな幸福が、束の間、虚無の夜を照らしていた。
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乱れたシーツの中で、麗音は胸に顔を寄せたまま、茶目っ気を含んだ声を出した。
「でも……お代はもらいますよ?」
狂介は一瞬、虚を突かれ、後に当たり前のこととして返す。
「……当然だ」
彼女は堪えきれず吹き出した。
「冗談ですよ」
朗らかな笑い声が、暗い部屋を柔らかく満たす。狂介はわずかに目を細めた。
「いや……払うのが正しい。犬の餌代もあるだろう」
麗音はその言葉に首を振り、笑みを深めた。
「やっぱり真面目なんですね」
彼女はそっと唇を重ねた。優しいキスが、二度、三度。絡んだ指が、互いの温度を確かめ合うように強く握られた。狂介は胸の奥にざわめきを覚えていた。――こんな気持ちは、いつ以来だろう。脳裏をかすめたのは、かつての女、玲子。だがその影はすぐに消える。
「……今、違う人のこと考えてました?」
麗音がいたずらっぽく目を細める。狂介は短く息を吐いた。
「……すまん」
「図星だったんですかー!ひどーい」
そう言いながらも、笑いながら彼の頬に接吻する。虚無を埋めるような安らぎが、静かに広がっていった。
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夜は深く、雨も止んでいた。薄暗い部屋の中、再び二人は求め合った。今度は麗音からだった。彼女の細い指が狂介を導き、優しい口づけが全身を包んでいく。慎ましやかな笑顔の奥に潜む決意が、その献身をより鮮やかにしていた。狂介は久しく忘れていた感覚を思い出した。――身を委ねるということ。やさしい手つき、温かな唇、そして蜜の深みに抱かれる感覚。可憐な女が、全身で男を愛し、ひとつに溶かしてゆく。彼もまた応え、力強く抱き返す。荒々しい律動ではなく、呼吸を重ねるように。二人の鼓動が合流し、リズムがひとつに融け合った。やがて同じ瞬間、二人は頂点に駆け上がった。麗音の瞳から涙が溢れ、狂介の胸を濡らす。狂介はその涙を拭い、無骨な指先で頬を撫でた。言葉はなくとも、慰撫はすべてを語っていた。微笑みの中で、彼女はかすかに囁いた。
「……ほんとうに幸せ」
その一言が、静かな夜を永遠のように満たした。
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それから数日、麗音の姿を歓楽街で見かけることはなかった。夜の街を歩けば、いつもいたはずの場所は空っぽで、ただネオンだけが濡れた舗道に反射していた。狂介の胸に、不穏なざわめきが生まれていた。ある夜、見覚えのある犬が角を曲がって現れた。短い足をせわしなく動かし、いつものように尻尾を振っている。――フレンチブルドッグ。麗音の犬だった。だがリードを握っていたのは、別の女。派手な化粧の奥に疲れの色を隠せず、それでも気の良さそうな女だった。彼女は軽く会釈する。狂介は珍しく自分から名乗った。麗音のことが知りたかった。
「……ジュディ、って呼んでください。……源氏名ですけどね」
声にかすれが混じっている。狂介は犬を見下ろし、そして女を見据えた。
「……麗音のこと、知らないか」
ジュディは一瞬、言葉を探すように目を伏せた。やがて小さく息を吐き、短く告げた。
「……亡くなったんです」
空気が止まった。歓楽街の喧騒すら、狂介の耳から消えた。
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ジュディはリードを指に巻きつけたまま、視線を泳がせていた。言葉は淡々としていたが、その声の奥に怯えが混じっていた。
「麻薬の、オーバードーズだったって。死体は、東京湾に……捨てられたらしいです」
狂介は黙って聞いていた。煙草をくわえたまま、火もつけずに唇の端に挟んでいる。ジュディはそれ以上は語らなかった。ただ
「聞いた話を伝えただけ」
という風で、これ以上深入りする気はないのが見て取れた。狂介の胸中に、冷たい確信が広がっていた。――これは組織のやり口だ。見せしめに薬を打ち、痕跡を残さず海に沈める。犬が短く鼻を鳴らし、狂介の足元に寄り添った。その小さな体温が、胸奥で燃え始めた怒りをより際立たせた。
***
ジュディは犬を撫でながら、遠くを見るように言った。
「……麗音さんは、本当にいい子でしたよ」
その声音には哀惜が滲んでいた。
「こんな目に遭う言われなんて、なかった。優しくて、仲間思いで。犬が大好きで……稼げない子にはお金を貸してあげたり、どんな時も笑ってて。そんな子だったのに……」
狂介は煙草を一本取り出し、ライターを弾いた。小さな炎が揺れた。だが、火を近づけたその手が、わずかに震えているのをジュディは見た。次の瞬間、狂介は煙草を握り潰し、指先でぐしゃりと折った。灰と紙片がアスファルトに散った。ジュディは言葉を失い、その光景をじっと見つめていた。犬だけが無邪気に尻尾を振り、ふたりの間に漂う重苦しさを知らぬまま、小さく鼻を鳴らしていた。
***
数日のあいだ、狂介は歓楽街を歩き続けた。耳にしたのは小さな噂ばかりだ。酒場のバーテンが漏らす名前。場末の雀荘で飛び交う囁き。裏通りで怯えながら視線を逸らすチンピラの挙動。狂介は煙草と少しの札を惜しまずに使った。足で稼ぎ、過去に築いた古いツテをひとつずつ呼び起こす。十年前に同じ檻に入ったことのある前科者。かつて武器を融通してくれた商人。無口な連中が、狂介の鋭い眼差しに押され、少しずつ口を割っていった。そして浮かび上がった。湾岸近く、古い倉庫を改装した事務所。組織が今、根を張っている場所だった。狂介は最後の煙草を足元で踏み潰した。目に宿る光は冷たい炎のようで、もう迷いはなかった。
***
夜の湾岸。錆びたトタンと鉄骨の倉庫が、闇に沈んでいた。狂介は肩に担いだM72LAWの照準を合わせた。――ロケットランチャー、66mm。引き金を絞った瞬間、轟音とともに炎の矢が倉庫の壁を突き破り、内部を火球が舐めた。悲鳴が上がる前に、狂介はM249軽機関銃を構えた。ベルト給弾、5.56mmNATO弾。倉庫のシャッターに向けて、容赦なく掃射する。火花と弾痕が散り、鉄板の向こうから怒号と混乱の声が漏れた。シャッターが軋みを上げて崩れ落ちると、狂介はすでにMP5SDを手にしていた。9mmパラベラム、サプレッサー一体型。倉庫に押し入り、煙の充満した内部で、黒い影を次々と撃ち抜いていく。乾いた連射音が反響し、男たちの体が血飛沫を散らして崩れ落ちた。敵が反撃する間もなく、弾は正確に急所を撃ち抜いていた。腹、胸、そして額。躊躇など一切なかった。弾倉が尽きた。狂介は腰のホルスターからSIGP226を抜き放つ。9mmの重い音が倉庫に響き、這いつくばる敵の頭蓋をひとつずつ粉砕していく。顔色ひとつ変えずに、引き金を絞り続ける。抵抗する声も、やがて絶えた。床は血の海と化し、鉄と火薬の匂いが充満する。
***
倉庫の奥。かろうじて生き残った男がひとり、血にまみれた床を這いずりながら後退していた。腹を撃ち抜かれ、脂汗を流し、必死に言葉を並べる。
「ま、待ってくれ……俺はただの実行役だ。上から頼まれてやっただけだ……!」
声は裏返り、喉が震えていた。狂介は銃口を下げなかった。
「麗音を知っているか」
男の顔に混乱が走る。
「……誰だ、それは?」
答えを聞き終えるより早く、轟音が倉庫に反響した。9mmの弾丸が男の額を撃ち抜き、後頭部を血と骨片ごと壁に叩きつける。狂介は銃口をわずかに下げたまま、微動だにせず立ち尽くした。煙と血の匂いの中で、ただ無言で引き金から指を離した。――これ以上、言葉は要らなかった。
***
歓楽街の外れ。狂介は煙草を咥えたまま、夜風に身をさらしていた。見覚えのある短い足音。角を曲がって現れたのは、小さなフレンチブルドッグだった。リードを持っていたのはジュディ。疲れを隠せない顔に、それでも気のいい笑みを浮かべる。
「……また会いましたね」
狂介は犬を見下ろし、低く告げた。
「……その犬を、俺に預けてくれないか」
ジュディは驚いたように目を見開いた。
「……ありがたい話ですけど。麗音さんの形見ですから……」
狂介は静かに首を振った。
「俺にも同じだ。悪いようにはしないつもりだ。時々、連れていくから。可愛がってやってほしい」
しばらくの沈黙ののち、ジュディは小さく頷いた。犬は何も知らず、狂介の足元にまとわりつき、短い鼻を鳴らした。
「……やれやれ」
狂介は小さく呟き、両手でその小さな体を持ち上げた。犬は喜んで顔を舐めまくった。火薬と血の匂いを拭い去るかのように。
「名前は?」
やや閉口した声で尋ねる。ジュディが答えた。
「レインです。その通り、空から降ってくる雨のこと。……恵みの名前だって」
狂介は煙草を口から外し、ぽつりと呟いた。
「……悪くない」
夜の歓楽街に、遠いジャズの残響が流れていた。
***
【グループチャット】
瑞希:うわーん。今度のヒロインは裏切らないかドキドキしてたけど、やっぱり酷い目に逢うじゃんかあ……。
七海:ある時代の定型だから逃れられないのです……。
飛鳥:『ジョン・ウィック』シリーズもちょっと入ってるよね?
七海:ドキっ、それはそうです……。




