『狂銃エレジー:女豹は夜に吠える』
七海がキーを叩く。また一つ、物語が綴られてゆく。
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夜の河川敷。ビル街の影が黒く沈むころ、狂介はレミントンM40A5を抱えて、闇に伏せていた。草の揺れひとつ、風の向きひとつ。全神経を視界の奥へ、音の奥へ――殺気の奥へと注いでいく。
「出てこい……」
敵もまた、スナイパーだった。それもプロフェッショナルの匂いがする。息づかい一つ感じさせずに、奴は潜んでいる。──この沈黙。──この呼吸。奴もまた、俺を狙っている。狂介は心臓の鼓動を聞いた。1分間に42回。いつもより、8拍遅い。
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レミントンM40A5。海兵隊スカウトスナイパーの制式採用モデル。7.62×51mmNATO弾使用。有効射程は800m超。カスタムのLeupold製スコープ(倍率25倍)。サプレッサー装着。サイドマウントにDocterのドットサイト。照準の奥、ビルの屋上に僅かな反射。──光った。スコープに映るのは、黒い影。M82A1バレット。.50口径、12.7×99mm弾。軽装甲車両すらぶち抜くバケモノだ。即座に転がる。地面に伏せた位置から、息を止める。呼吸を止めて、狙う。敵は、構えたまま。──風速2.3m、北西から南東。──400ヤード。──ライフルの冷却は良好。──銃身ぶれ無し。──弾道修正0.7mil上、0.3mil右。
「……もらった」
──引鉄を絞る。狂介が聞く轟音。影が崩れる。相手にとっては、音は死の後にやってくる。まるで、死者の耳に届く弔いのように。7.62×51mm。銃口初速、約850メートル毎秒。風を割き、肉を裂き、音より速く死を運ぶ。人間の鼓膜が捉える音速は、せいぜい340メートル毎秒。それを知らない奴が、いくら高倍率スコープを覗こうが、“音に反応するようじゃ二流以下”ってことだ。殺し屋の世界に“音の反射神経”なんてものは存在しない。必要なのは、風と距離を読む勘と冷徹な計算だけ。──それがわかってない奴から、先に死ぬ。狂介はゆっくり立ち上がる。殺意が消えた空に、東京湾の潮風が吹きつけていた。
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東京湾岸の埋立地、倉庫群の一角。看板も掲げられていないコンクリ打ちっぱなしの小さな建物が、狂介の“隠れ家”だった。三階建て。外壁にはひび一つなく、ドアには電子ロックと指紋認証、瞳孔スキャンが仕込まれている。内装は極限まで無機質。コンクリートの壁、鉄製の家具、遮光ブラインド。
狂介は靴を脱ぐことなく、そのままシャワールームへ向かった。服を剥ぎ取り、タイルに足を置く。ハンドルを捻ると、熱湯が怒りのように噴き出した。──48度。──肩に、首に、背中に。──全てを焼くような熱が、筋肉を襲う。
45秒。ハンドルを逆に捻る。今度は氷のような水流。15度。肺が縮む。神経が硬直する。──熱と冷の交互浴。──三セット。
狂介は額の水滴を拭いもせず、キッチンへ向かう。
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キッチンと呼ぶには殺風景な鉄の部屋。しかし、調理器具だけは一流が揃っていた。Mauvielの銅鍋。スイス製包丁。カリタのミルと、ストイックな手挽き式グラインダー。狂介は豆を挽き、ケトルで湯を沸かす。フレンチプレスに落としたのは、深煎りのエチオピアモカ。その濃厚な液体に――無塩バターをスプーン一杯。更に、MCTオイルをひと垂らし。
メインは赤身のTボーンステーキ。和牛じゃない、USプライムグレード。表面に岩塩とブラックペッパー。厚さ1.2インチ。焼き時間は片面2分、焼き上がりはミディアムレア付け合わせは不要。野菜も芋もパンも、雑音だ。
フォークを使わず、ナイフと指で食う。血の滴る肉塊を噛みしめ、熱いコーヒーを流し込む。──これが、黒石狂介の“帰宅”。癒やしなどではない。ただ、再起動の手順。
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地下室のコンクリートは乾いていた。照明は最低限、裸電球が二つ。壁一面に設置されたスチール製のラックには、狂介の愛銃たちが沈黙を守って並んでいる。グロック17。オーストリア製の9mmオート。軽量、信頼性、そしてバカみたいに壊れない。そのシンプルな外観に騙される奴は、生きて帰れない。サプレッサーをつけりゃ、深夜の路地でも鳥のさえずり程度の音しかしない。次に手を伸ばしたのは、コルト・パイソン。357マグナムのリボルバーだ。ステンレスの鏡面仕上げに映る己の目は、もう誰かを撃つ気でいる。反動はデカいが、当たれば骨ごと粉砕する。戦場に持ち出すにはやや趣味性が強いが、至近距離なら一撃で黙らせられる。それが男の礼儀というもんだ。ショットガンラックの下段、レミントンM870を引き抜く。ポンプアクションの乾いた音が、地下室に静かに響いた。スラッグ弾を使えば、防弾チョッキごと胸郭を粉砕する。実際、かつて五人の強盗がこの一挺だけで消えたことがある。後始末は大変だったが、葬式の花代だけはちゃんと包んでやった。HKMP5SD。9mm口径の短機関銃。映画の小道具だと思っている奴もいるが、現場じゃプロの標準装備だ。内蔵サプレッサーで静音性は抜群。弾道も安定している。都市戦にはもってこいの一挺。突撃銃の棚には、FNSCAR-Hが誇らしげに横たわっていた。7.62mmNATO弾を使うこの野獣は、中距離からでも相手を骨ごと削り取る。狂介はグリップに触れながら唇を歪める。サバンナの獣を仕留める感覚と、東京の裏通りで人間を撃つ感覚に違いはない。必要なのは、決断と指の角度だけだ。最後に手を伸ばしたのは、バレットM82A1──対物ライフル。重い。だが、一発で自動車ごと吹き飛ばせる。ドアも、壁も、装甲板すらも関係ない。狙撃というよりも、葬式の準備といった方が正しい。.50BMG弾。アメリカが“神の雷”と称した弾丸だ。神は黙って、こいつを貸してくれた。男は銃を眺めるたびに、自分の中の何かが呼び覚まされるのを感じた。それは、銃を握ることでしか思い出せない、孤独と暴力と、ほんのわずかな快楽だ。
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深夜、自宅の電話が鳴った。狂介は即座に受話器を取る。
「黒石狂介か」
低く歪んだ声。ボイスチェンジャー越しのせいか、男か女かも判別できない。
「……誰だ」
「名乗る必要はない。新宿のPタワー五十二階、ラウンジに来い」
淡々とした声の中に、嘲笑が滲んでいた。
「逃げるならそれでも構わん。だが真実を知りたいなら――来るしかない」
受話器からノイズ混じりの笑い声。次の瞬間、電話は切れた。狂介はしばらく黙っていた。煙草に火をつけ、苦い煙を肺に流し込む。
「……挑発か。だが、乗ってやる」
火を灰皿に押し潰し、黒いコートを羽織る。腰にはコルト・ガバメント。銃の冷たさが腹に沿い、心臓の鼓動と重なった。夜の東京がネオンに濡れていた。狂介はドアを閉め、獣のような足音を闇に響かせて歩き出した。
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首都高速を抜けて、狂介のヘルキャットは新Pタワーの下層駐車場に滑り込んだ。6.4L・V8HEMIが放つ轟音は、深夜のホテルエントランスで一瞬ざわめきを呼んだが、黒スーツのドアマンは無表情に頭を下げる。慣れているのだ。地獄のエンジン音にも、男の目つきにも。エレベーターを抜け、52階のラウンジに入った瞬間、狂介の動きが止まった。そこにいたのは、黒いナイトドレスに身を包んだ女だった。“女豹”──ナターシャ・ベルモンド。かつて一度だけ、銃火を交えた女。その瞳は、殺すか、抱くかを選ばせる種類のものだった。狂介は座らない。女が、黙ってスコッチを差し出した。12年もののシングルモルト。その香りよりも、彼女の香水の方がよほど酔いを誘った。
「今夜は……殺しに来たの?」
女はそう言って笑った。その笑みは、引き金を引く寸前の狙撃手の目だった。だがそのまなざしで、誰かを愛したこともあるのだろう。
「いや……」
狂介は答えた。
「お前が殺したくなるほど、俺を見つめたから、来ただけだ」
女は立ち上がると、言葉もなく自分の部屋のカードキーを差し出した。狂介は受け取らなかった。ただ、ドレスの背に手を回し、無言でそのままエレベーターに歩かせた。
***
スウィートルームの鍵が閉じられた瞬間から、戦いは始まっていた。ドレスは、マガジンを叩き抜くように音もなく剥ぎ取られた。ナターシャは余裕の笑みを浮かべながら、全身を晒した。だがその目は、引き金を引く狙撃手の光を宿していた。狂介はためらわなかった。銃を構えるように女を組み伏せ、重い息を吐きながら、その身体を撃ち貫く。――セミオートではない。フルオートの衝撃だった。肉体の律動が、まるで7.62mmNATO弾の連射のように室内に響いた。ナターシャは最初、余裕を見せていた。唇に笑みを残し、挑発するように爪を立てる。
「それで終わり?」
とでも言うように。だが、次の瞬間には声を飲み込まれていた。狂介の動きは、.45ACPの重量弾のように遅く重く、しかし止められない。そして時折、5.56mmの突撃銃のように速射の嵐を浴びせる。ナターシャは堪えきれず、声を上げた。
「……っ、これは……!」
その声はもはや余裕ではなかった。軽装甲車両すら撃ち抜くバレットM82A1の一撃を、至近距離で浴びた兵士の呻きに近かった。狂介は黙々と撃ち続けた。熱した銃身のように燃え上がる身体。薬莢が床に転がるように、女の喘ぎが散乱した。そして最後、彼女は完全に沈黙した。己が“最強”と思っていた身体が、ただの標的でしかなかったことを悟りながら。
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シーツは火薬の煙を浴びた射撃場のように乱れていた。ナターシャは仰向けのまま、荒い呼吸を繰り返している。頬にはまだ熱が残り、赤い爪先がシーツをかきむしっていた。
「……あなた、本気になると……すごいのね」
かすれた声で呟いたその顔は、戦場を勝ち抜いた兵士ではなく、完全に骨抜きにされた女の顔だった。普段の余裕も牙も、すべて撃ち抜かれた。狂介はベッドの端に腰掛け、煙草に火をつけていた。口にくわえたラッキーストライクから、白い煙が天井に立ち上る。答えは短い。
「……銃と同じだ。撃つときは、外さねえ」
ナターシャはまだシーツに沈みながら、濡れた息を整えられずにいた。狂介の肩越しに見上げ、その胸に爪を立てる。
「……あなたのそれ……まるでM82のバレットみたいだった……」
声は掠れ、しかし甘く震えていた。
「撃ち込まれるたびに、身体が吹き飛びそうになった……。最初は制御できると思ったの。けど、連射を浴びせられて……私はただの標的だったわ」
狂介は煙草に火をつけ、無言で煙を吐いた。ナターシャはなおも言葉を重ねる。
「銃口を向けられただけで、心臓が止まりそうになった……。そして弾丸が突き抜けるたびに、わたしの奥は破壊されて……でも、快楽で満たされた……。あんな弾丸を撃てる男、他にいない」
狂介は冷たく目を細めた。
「……銃は撃つためにある。誉め言葉はいらねえ」
ナターシャは笑った。
「ええ……でも、忘れられないわ。あなたのフルオートの衝撃……スコープの中で仕留められるみたいに……私の心臓も撃ち抜かれた」
狂介は煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。
「弾丸は一発で十分だ。だが……お前がどうしてもって言うなら、マガジンを替えてやる」
ナターシャは頬を紅潮させ、シーツを握りしめた。
「……そんな言い方……ずるいわ」
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ベッドの上でナターシャは、狂介の腹に刻まれた古い傷跡に気づいた。鋭い一文字。白く固まった皮膚が、蛍光灯の光で鈍く浮き上がっている。
「……この傷は?」
ナターシャの指先が、そっとそこに触れた。狂介は煙草を口にくわえたまま、視線を窓の外に投げた。
「ナイフだ。昔、場末の港で少しばかりヘマをした。殺し合いの最中に、ほんの一瞬目を逸らした。その報いだ」
ナターシャは目を細めた。
「あなたが……ヘマ?」
「完璧な人間はいない。その夜は、相手のナイフが俺の腹を抉った。ただ……あいつは、そのあと頭を撃たれて地面に転がったがな」
狂介は乾いた笑いを漏らし、煙を吐いた。
「傷は、恥だ。だが、忘れないためには残しておくしかない」
ナターシャはゆっくりと、その古傷を指でなぞった。やがて、唇を寄せ、舌先で優しく舐めた。
「……恥なんかじゃない。これは、生き残った証よ。私には、あなたの勲章に見える」
狂介は黙っていた。煙草の火だけが、暗い室内で小さく赤く光っていた。ナターシャはさらに狂介に寄り添い、その胸に頬を預けて囁いた。
「撃たれようが、斬られようが……あなたの体ごと、わたしは愛してしまうの」
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「……なぜ、俺に抱かれた?」
ナターシャは一瞬視線を逸らした。だが次には、潤んだ瞳で彼を見つめ返した。
「……組織の命令だったの。あなたを罠にかけろって。それでラウンジに呼び出した。最初は、そのつもりだった……」
ナターシャの声が震えた。シーツを握る指先に力がこもる。
「でも……いまの私は命令に従う女じゃない。ただ……あなたに抱かれてしまった女なの。狂介……私はもう、あなたを愛してる……」
狂介は冷たい目をしたまま、煙を吐いた。
「……組織の命令だろうが、愛だろうが、結果は同じだ。ベッドの上じゃ、誰も俺に逆らえねえ」
ナターシャは唇を噛み、やがて小さく笑った。
「そうね……逆らえなかった……。でも、いいの。もう敵でも女豹でもない。一人の女として……あなたのものになった」
狂介は答えなかった。ただ、灰皿に煙草を押しつけ、立ち上がった。
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ナターシャは裸のまま、狂介の腰に縋りついた。
「お願い……もう一度、抱いて……。今度は命令じゃない。私の意思よ」
狂介は煙草を咥え直し、低く呟いた。
「組織を裏切る覚悟はあるのか?戻れないぞ。裏切り者は、弾丸一発で片づけられる世界だ」
ナターシャの目に、涙とも笑みともつかぬ光が浮かんだ。
「構わないわ……。だって私はもう、あなたに撃ち抜かれてしまったんだもの」
狂介は煙草を灰皿に押しつけ、ナターシャの顎を荒々しく持ち上げた。
「……よし。今度こそ、本気で抱いてやる」
ナターシャは目を見開き、驚きの声を洩らした。
「あれも本気じゃなかったの……?」
狂介は短く笑った。
「言葉のあやさ。女を喜ばせるための方便だ」
「……もう……ずるい人……」
ナターシャは笑いながら涙を滲ませ、さらに強く抱きついた。次の瞬間、狂介はベッドにナターシャを押し倒していた。
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ナターシャは満ち足りた吐息を残したまま、狂介の胸に抱かれて眠りに落ちていた。その頬には涙と笑みが同時に残り、彼女がどれほど幸福だったかを物語っていた。狂介は静かに腕をほどき、立ち上がる。窓際のカーテンを少しだけ開けると、東京の朝が灰色に広がっていた。煙草に火をつけ、一口吸う。苦い煙が肺を満たす。
「……女を抱くのは簡単だ。だが、組織を敵に回すのは骨が折れる」
灰を落としながら、独り言のように呟く。ナターシャを抱いたことで、もう後戻りはできない。彼女を組織に差し出すことも、己の背を向けることも許されない。
「……戻れないな。撃つか撃たれるか……それだけだ」
窓に映る自分の瞳は冷たかった。優しさを滲ませた昨夜の男は、もうどこにもいない。そこに立っていたのは、戦場に戻る戦士――黒石狂介ただ一人だった。ベッドから、ナターシャの寝息がかすかに聞こえる。それは束の間の安らぎであり、次に訪れる嵐の前の静けさでもあった。狂介は煙草を灰皿に押し潰した。その火種が消える瞬間、彼の心に残された躊躇もまた燃え尽きていた。――次の戦いが始まる。
***
狂介は窓辺のローテーブルにケースを広げた。中には黒光りする一挺の拳銃。コルト・ガバメント、.45ACP。半世紀を越えて戦場を渡り歩いてきた鉄の獣だ。スライドを引き、空撃ちでクリアランスを確かめる。マガジンを抜き、.45口径の弾を一本ずつ指で込めていく。重い弾丸――ひとつの衝撃で男を地面に沈める質量。
「7発……いや、8発。十分だ」
部屋には眠るナターシャの寝息だけが響いていた。狂介は彼女を振り返らない。この先の戦いに、女の寝顔を持ち込む余地はない。最後にスライドを戻し、銃を腰に収めた。鉄の冷たさが腹に沿う感触は、愛でも友情でもない。ただ一つ――裏切らない相棒。
「……結局、頼れるのはこいつだけだ」
狂介は呟き、煙草に火をつけた。赤い火が揺れ、次の戦いを告げる狼煙のように燃え上がる。外はすでに朝の喧噪が始まりつつあった。だが黒石狂介の一日は、これから戦場で始まるのだった。
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組織は壊滅していた。地下施設もアジトも焼け落ち、狂介の周りにはただ硝煙と死体の臭いが漂うだけだった。瓦礫の向こうから、二人のナターシャが現れた。闇に濡れたナイトドレス、同じ眼差し、同じ唇。ナターシャは拳銃を構え、もうひとりのナターシャに突きつけていた。
「撃ちなさいよ。私こそが本物」
「違う、あんたは影。狂介を惑わすために作られた偽物」
双子なのか。クローンなのか。いや、狂介にはどうでもよかった。ただ一つ確かなのは、組織がこの幻影を使っても彼を止められなかった、という事実だけだ。ナターシャの片方が泣き崩れる。
「……全部、罠だったの。あなたを堕とすために。でも、私は……あなたに抱かれた女。愛してしまった女」
もう片方が狂介を睨みつける。
「その言葉に騙されないで。愛なんて無い。ただの任務よ」
狂介は銃を構えた。どちらが真実かは、もはや判然としなかった。シーツの温もりを知っているのは、どちらなのか。
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狂介の指が引鉄にかかる。その一瞬は永遠にも似て、時間が止まったかのようだった。目の前には二人のナターシャ。どちらが愛した女で、どちらが影なのか――答えは煙の向こうにある。回転するルーレットの球のように、運命は定まらない。止まった目が「愛」か「裏切り」か、狂介自身にもわからない。
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同じ顔、同じ声。思い出すのは、シーツの温もり。甘い吐息、涙、そして「愛してる」という声。だがそれがどちらのものか、判然としない。それでも。乾いた銃声が、夜の廃墟に反響した。弾丸は一発、ナターシャを撃ち抜いた。床に崩れ落ちるナターシャ。残ったもう一人のナターシャが涙を流し、狂介の胸に飛び込む。
「……狂介……これで、二人きりね」
だが次の瞬間、女の口元が吊り上がった。高笑いが、廃墟にこだました。
「ふふ……まんまと騙されたわね。倒れたのはあんたを愛した女。私は組織の刃。最後までね」
狂介の瞳がわずかに揺れた。だがすぐに冷たい光を取り戻す。ガバメントを抜き直し、無言で引鉄を絞った。銃声。ナターシャが絶叫し、崩れ落ちる。狂介は煙草に火をつけた。その目は暗く沈み、救いの色はひとかけらもなかった。
「……愛なんざ、弾丸一発の軽さもない」
煙が闇に溶け、狂介は孤独の中に沈んでいった。
***
【グループチャット】
七海:図書館で読んだアクション小説を参考にして書いてみました。女豹のモデルは瑞希さんのつもりだったんですよ。
瑞希:わたし女豹なの!?しかも最後、陰惨すぎるよぅ。
七海:ふふふ、それがハードボイルドの流儀ってやつなのだ。です。
飛鳥:七海、入り込んでるよ……。




