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七海、夜のプレゼントとそのお返しに

 部屋には、やわらかな間接照明だけが灯っていた。湯気の余韻を帯びた静かなベッドルームで誠と七海は、バスローブのまま、ゆるく抱き合っていた。肌と肌のあいだに、柔らかな布と、心の熱。ふたりだけの夜の空気が、ぬるく、優しく、揺れている。誠が、七海の額にキスを落としながら、ぽつりと呟く。

「……なんかさ、七海にはもう敵わないのかも、俺……」

 半分、冗談みたいに笑ったその声に、七海は目を瞬き、すぐに首をふる。

「そんなこと、ありません……っ。最後なんて、わたし完全に余裕なくなって……」

 そして──

「それに誠さんと、こうして愛し合えることが…………わたし、ただ、嬉しいだけなんです」

 少し赤くなった頬を隠すように、七海は誠の胸にぴとりと頬を寄せる。そこから伝わってくる鼓動が、愛しくてたまらない。髪をなでる誠の指先にも、やさしさが滲んでいる。

「……七海」

 見つめ返す瞳が、うるんでいた。あたたかな水の底で、静かにひかる宝石のような、透明な光。誠は──改めて思った。

(……なんて、綺麗なんだろう)

 美しいとか、優しいとか、そういう単語では足りないくらい。触れていたい、守りたい、もっとこのひとのことを知っていきたい。そう、深く、深く、心の奥底から──思った。七海は、その感情に気づいているかのように、小さく、笑った。そして、またそっと──その指で、誠の髪を撫でた。ふたりのあいだには、ぬくもりと静けさと、どこまでもやさしい夜だけが、流れていた。

 

 ***

 

 ぬるく溶け合う静けさの中で──誠は、七海の頬を指でなぞり、微笑みながら顔を近づけた。そっと、唇を重ねる。──ふわりと、柔らかな接触だけの、やさしいキス。誓いのような、祈りのような、静かな約束。七海は目を閉じて、それを全身で受け止める。まるで神前にひざまずく巫女のような、清らかさと甘さ。

(……かわいい)

 そのまま、誠は唇を少しだけずらして、舌先を触れ合わせた。──唇が重なり、熱の端がくちびるをなぞる。舌と舌が、ぬるりとふれるたび、身体がゆっくり反応していく。七海の息が、細く、くゆる。

「……ん、ふぁ……」

 震える吐息と、溶けかけた声。呼吸が、愛しさの波を運ぶ。やがて──誠の舌が、七海の奥へと導くように進んでゆく。──絡まり合う舌と舌。ひとつの愛が、粘膜を通じて融けあっていく。

「……あ、誠さん……やっぱり、やっぱり……」

 七海の身体が、ゆっくりと傾き、誠に身を預けてくる。そのまま、唇の奥へ──吸い上げるような動きが始まる。──七海の舌を、誠がやさしく吸い上げる。愛を芯ごと引き寄せるように。味わい、受け入れ、慈しみながら。

「……んんっ……ぁ……っ」

 蕩けそうな声が、唇の隙間から漏れる。キスだけで、とろとろに溶けてしまいそうな陶然。そして──誠は、七海の唇の奥に、ほんの少し唾液を送り込む。──これは存在の受け渡し。愛の奥へ、内側へ、届けるような静かな侵入。七海は一瞬、きゅっと目を閉じ──そして全身で、それを迎え入れた。

「……っは、あ……はぁ……誠さん……やっぱり……敵いません……」

 七海は赤くなった頬を隠しもせず、肩を震わせながら、蕩けたように微笑んだ。

「……わたし、これだけで、もう……」

 吐息に混じるのは、愛しさと恥じらいと、幸福に濡れた震え──誠は、その七海の姿に、

(……なんて、いじらしくて、かわいくて……)

 胸の奥が、あたたかく満たされていくのを感じていた。そっと彼女の髪をなでながら、もう一度、静かに口づけを重ねた。

 

 ***

 

 ──静かな灯りのベッドルーム。白いバスローブに包まれたふたりは、互いの体温を感じながら横たわっていた。濡れた髪が肩にふれて、まだ少し火照る肌に、シーツが心地よい。七海がそっと、目を伏せたままつぶやく。

「……あの、誠さん……実は……」

「ん?」

「今日のナイトプールも、このお部屋も……全部……瑞希さんが……譲ってくださったんです」

 誠は、目を瞬かせた。

「えっ……そうだったの?」

 七海はこくんと小さくうなずく。

「前から……瑞希さんが予約してたらしいんですけど……急に用事が入っちゃって……それで、“キャンセルするのも勿体ないし、七海ちゃん、行ってきなよ”って……」

「……そうだったのか……」

 瑞希らしい気配りだ、とすぐに思う。でも、それだけじゃない。

(――あえて、譲ってくれたんだ)

 誠の中に、静かに沁みてくる。

「……瑞希に、感謝しないとだね」

「はい……ほんとうに。瑞希さんのおかげで……こんなに、素敵な夜を……」

 七海の頬が、ぽっと紅くなる。誠は、そんな彼女の手をそっと握った。七海も、やわらかく指を絡め返す。ふたりの間に、やさしい気持ちが波紋のように広がっていく。──水のように澄んだ感情。──温泉のようにぬくもる愛情。横たわったまま、手と手で繋がる。それだけで、すべてが満たされるようだった。

 

 ***

 

 手を握ったまま、ふたりはしばらく静かに寄り添っていた。やがて、七海がふっと微笑む。

「……やっぱり、瑞希さんにお礼しないとですね」

「うん、ほんとに。こうして七海と……素敵な時間を過ごせたのも、瑞希のおかげだし」

 誠が目を細めながら応じると、ふと、真剣な顔で考えるそぶりを見せる。

「となると……やっぱり、食べ物かな?」

「……ふふっ」

 隣で、七海が肩を揺らして笑った。

「誠さん、瑞希さんの“食い気”満たせば何とかなるって、思ってません?」

「いやいや、そんなこと……」

 と言いながら、どこか図星を突かれたような顔になる誠。

「……少しは、あるかもだけど」

「ふふふ。でも、わたしもそれで納得しちゃうかもしれません。ホテルの下の階に、すごく美味しそうなスイーツのお店があったんです。……帰りに買っていきませんか?“とびっきり”のを」

「いいね、それ。ちょっと奮発して、二人で選ぼう」

「はいっ」

 ふたりの笑顔が重なる。愛し合った後の、とろけるような空気の中に、甘い笑い声が広がってゆく。──夜は、まだやさしい余韻をたたえていた。

 

 ***

 

 スイーツの話で笑い合ったあと、ふたりはゆっくりと目を閉じていった。バスローブ越しに感じる体温。指先のぬくもり。髪を撫でる音と、心臓の静かな鼓動。

「……大好きだよ、七海」

 誠の声が、囁きのように耳元に届く。

「……わたしもです。ほんとうに……大好きです、誠さん……」

 重ねられた手が、そっと握り返される。互いの存在を確かめるように、ゆっくりと──。カーテンの隙間から、街の灯りが薄く射していた。けれどその光さえ、ふたりの空間には届かない。水音も、愛の記憶も、今はただ優しく溶けていく。毛布にくるまれたような、静かで、あたたかい夜。互いの体温と、愛した記憶と、満たされた心だけを胸に、ふたりは──ゆっくりと、眠りに落ちていった。──夢の中へ。

 

 ***

 

 暗闇の中を、一本の線路が走っていた。光も音もない、ただ無限に続くような鉄の道。──その先に、いくつもの分岐がある。レールは、どこまでも広がっていく。夢のようでいて、どこか現実の記憶に似ていた。誠はその上を、音もなく歩いていた。すると、風景が切り替わる。

 

 ***

 

 小さな教室。机の上には折り紙とクレヨン。窓から差し込む午後の光が、埃の粒を照らしていた。まだ幼い瑞希が、赤いリボンを揺らしながら、小さな指を差し出して言う。

「ゆびきりげんまん……しょうらい、まーくんとけっこんするって、やくそく」

「……うん」

 指と指が重なった瞬間、世界が淡くにじむ。

 

 ***

 

 夕焼けに染まる坂道。制服のセーラー服。ぎこちなく揺れる三つ編みと、レンズの奥の、照れくさそうな視線。

「きょ、今日……その……いっしょに帰ってくれて、ありがとうございます……」

 そう言ってうつむいたのは、七海だった。まだ派手さのかけらもない地味な彼女。けれど、指先がそっと制服の袖に触れて、誠の鼓動が跳ねた。坂の先には、また分岐が見えていた。

 

 ***

 

 夕方の校舎裏。制服姿の飛鳥が、拳を握りしめて立っていた。

「……バカ。なんで今になって、そんなこと言うのよ……!」

 その目には涙。

「……でも、ずっと……好きだった……!」

 彼女が叫ぶたびに、世界が震える。誠が差し出した手に、飛鳥は涙をこぼしながら、しがみつくように飛び込んできた。

(あのとき、もし選んでいたら……)

 そのぬくもりが、指の隙間からすり抜けていく。

 

 ***

 

 再び、線路の上。足元には、無数の分岐。手には、まだ誰の手も残っているようで、残っていなかった。

「……これが、夢なら」

 誠は呟く。風が吹く。

「……もし夢じゃなかったら、俺は――」

 

 ***

 

 踏切の音は、心音のように遠く近く鳴り響いている。──カチ、カチ、カチ。ポイントが切り替わるたび、世界が、愛が、人生が、すこしずつ変わっていく。

 

 ***

 

 切り替わる風景。指輪を掲げる誠の手に、涙ぐみながら瑞希が頷いていた。

「……まーくん、ずるいよぉ……」

 笑い泣きのその顔が愛しくて、たまらなくて、誠はただ、彼女を抱きしめた。夜景の広がるベランダで、瑞希が、何度も

「好き」

 を繰り返す。

「……ぜったい幸せにしてねっ……!」

 笑顔がキラキラしていて、眩しいほどに綺麗だった。

 

 ***

 

 チャペルの扉が、そっと開く。祭壇に立つ自分。扉の向こうから、白いヴェールをかぶった七海が、ゆっくりと歩いてくる。瞳に涙を宿しながら、それでも笑っていた。静かに震える指先を、誠がそっと握る。

「誠さん……わたし、ほんとうに……」

 その声は、途中で涙に滲んだ。祝福の鐘が鳴る。でも、それが夢の音か、本物かはもうわからなかった。

 

 ***

 

 厳かな鈴の音。白い祝詞。飛鳥は、白無垢に身を包み、静かに、でも確かに微笑んでいた。神前に並ぶふたり。巫女の舞う雅楽のなか、誠と飛鳥は盃を交わす。

「……まこと」

 低く、でも震える声で名を呼ばれた瞬間、その瞳から、ぽろりと透明な雫がこぼれ落ちた。拭わずに、誠はただ手を握った。小さくて、でも力強く返される温度。

 

 ***

 

 耳の奥で、ゆっくりと軋む音がした。――ガタン、ゴトン。金属が擦れ、遠くへ進んでいくような……それはまるで、心の深い場所で走る列車の音だった。目の前に伸びる、まっすぐな線路。その先には、いくつものレールが交わり、別れていた。どれも、誠が歩くはずだったかもしれない――愛のルートたち。

 

 ***

 

 次の分岐は、朝の食卓。湯気の立つ味噌汁。目玉焼き。瑞希が、エプロン姿で振り返る。

「ねぇ、まーくん。今日は……早く帰ってくる?」

 小さな笑い声が響く。テーブルの端から、ひょっこりと顔を出した女の子――瑞希にそっくりな、誠の娘。

「パパ!見て、お絵かきー!」

 なにもかもが満ち足りていて、なにもかもが夢みたいで。でも、そこにある温度と香りはあまりにリアルで、誠は、心の奥でこう思っていた。

(……これが、本当の幸せ、なんじゃないか)

 

 ***

 

 トースターの音。バターの香りと、ケチャップで描かれたのオムライス。七海が、少しだけ乱れた髪でキッチンに立っている。淡いピンクのエプロン姿。肩を包むレースから、白くて柔らかそうな肌がちらり。

「誠さん、今日も……いってらっしゃいませ」

 小さく微笑んで、背中を押してくれる指先が、やさしくて、なつかしくて、誠はその場でぎゅっと抱きしめたくなる。

「あの、子供が起きちゃいます……ふふっ」

 リビングでは、そっくりな小さな女の子が、ぬいぐるみを抱いて笑っていた。

 

 ***

 

「ねえ、まだあ?」

 振り返ると、飛鳥が食卓に肘をつきながら、頬をふくらませて甘ったれている。寝癖が少し残ったまま、部屋着のままの彼女が、まるで小動物のような表情でこちらを見ていた。

「もうちょっと。焦げないように見てて」

「うー、待てない……まことのごはん、好きすぎるんだもん」

 そんなことを言われて、つい噴き出してしまう。誰かに料理を作るのが、こんなにも嬉しいことだったなんて。皿に丁寧に盛りつけて、運ぶ。飛鳥が身を乗り出して、おいしそうに香りを嗅いでから、一口、口に運ぶ。

「…………っ、んん〜〜〜っ」

 目を見開き、とびっきりの笑顔が弾けた。

「やっぱ、まことのごはんが一番おいしい!!」

 それだけで、朝の空気が跳ねるように変わった。食卓の上で、笑いが弾ける。何も起こらない、ただの日常なのに、どうしてこんなにも心が満たされるのだろう。でも飛鳥の笑顔があまりにも眩しくて、それ以上、何も考えられなくなった。

 

 ***

 

 線路は、さらに分岐してゆく。今度は、同じ家の中。広いリビング。飛鳥がソファに足を投げ出し、瑞希が誠の腕を掴んで甘え、七海がキッチンでコーヒーを淹れている。

「もう、だれが本命とか決めなくてよくない?」

 飛鳥が笑う。

「ずるいなあ、飛鳥ちゃん……」

 瑞希が頬を膨らませる。

「……でも、わたしも、誠さんが好きです」

 七海の声は、どこまでも静かだった。笑い声が重なる。重なる手。重なる想い。叶わないと知りながら、それでも望んでしまう幸福。三人ともが誠を愛していて、そして誠も――どの未来も、嘘じゃなかった。――ガタン、ゴトン。また、あの音。世界が少しずつ、遠ざかっていく。分岐の先は霞んでいく。線路は闇に溶け、音だけが残る。

 

 ***

 

 窓の外には、春の光が溢れている。風に揺れるカーテン。どこかの街の、どこかの家の、どこかの朝。三人の少女が、リビングの床に広がった布団の上で、笑っていた。

「ちょっと、やめてよ~っ」

「だって飛鳥ちゃんの寝癖、ほんとにすごいんだもん」

「うふふ……もう、こらぁっ」

 飛鳥がクッションを投げる。瑞希がそれを避けて笑う。七海が膝を抱えながら、誰よりも楽しそうに目を細める。その部屋には、誠の姿はなかった。キッチンに立つのも、誠じゃない。今日は七海が朝食当番で、エプロン姿でトースターと格闘している。飛鳥は牛乳を注ぎながら、瑞希の肩に頭をもたせて甘える。

「うちって……さ、なんか、家族みたいだよね」

「えー、だったら誰がパパでしょう?」

「パパとかいらないでしょ。……うちらだけのほうが、楽しいもん」

 ぽろっとこぼれたその言葉に、皆がふっと静かになって、でもすぐに、七海の焼いたパンが焦げてる!と誰かが叫び、また笑いが弾ける。楽しそうだった。ほんとうに、心から。──自分がいない世界は、こんなふうに、やさしく、まぶしく、回っているんだな。誠は、何も言わず、何も出来ず、ただどこか高い場所から、その光景を眺めていた。言葉にできない感情が、喉の奥に滲んだ。さびしさ、とも違う。嫉妬とも、後悔とも違う。もっと……ただ、淡い、感情の名のない影。これで、よかったのかもしれない。七海も、飛鳥も、瑞希も。誰かに傷つけられず、誰かに奪われず、こうして三人で笑いながら、生きていけるなら。笑い声が、また弾けた。誠は、何も言えず、ただその光景を、胸の奥でそっと抱いた。

 

 ***

 

 部屋の灯り。モニターの光。笑い声。気配。すべては、まるで一枚の静かな絵画のようだった。誠は、その光景をどこか高い場所から――夢のなかのバルコニーか、記憶の上層か、あるいは魂の縁から――静かに見下ろしていた。画面の奥では、七海がノートPCに向かい、指を忙しく動かしている。その肩越しに飛鳥がタブレットを覗き込み、相変わらず少し厳しくも、どこか優しい言葉を投げかけていた。七海は小さく叫び、しょげてみせて、そして笑う。飛鳥も笑う。ほんの少し遅れて、瑞希の気配が別の街から届く。助手席の窓越しに、彼女が外を見つめているのが分かる。誰に聞かせるでもない呟きが、唇からこぼれ落ちた。誠は、そのすべてを

「音のない映像」

 のように見つめていた。そこには自分の居場所はなかった。けれど――それでいいのだ、と思う自分がいた。彼女たちはそれぞれに歩み、笑い、傷つき、また進んでいく。自分がいなくても、ちゃんと世界は回っていく。光が灯り、会話があり、感情が流れていく。そのことに、不思議な満足があった。同時に、どうしようもない寂しさがあった。声をかけたくなる。名を呼びたくなる。もう一度だけ、その輪の中に戻りたくなる――でも、それは違う。これは、もう過ぎ去った夢の続きなのだから。誠はひとつ、深く息を吐いた。それは風となって、誰にも届かずに、空へ消えていった。

 

 ***

 

 踏切が鳴る。世界が揺れ、また、どこかへ切り替わる。──まだまだ、未来はある。まだまだ、見たことのない分岐が、この線路の先に、無数に広がっている。もしも、すべてのルートに愛があるのなら──誠は、どこへでも行ける気がした。あの日の約束のように。

 

 ***

 

 灰色の空。境界のない街。踏切のない線路が、どこまでも延びていた。誰もいない。声も、風も、時計の音さえもしない。ただ、自分の足音だけが、乾いた石畳を鈍く打って、すぐに消えていく。ふと、電車のような影が横を通り抜けた気がして振り返る。だが、そこには何もなかった。ただ空気が微かに震えて、匂いだけが残った気がした。——花のような、夕立のあとみたいな、誰かの髪の匂い。思い出せない。名前も、顔も、約束も。すべてが灰に覆われている。それは過去なのか、未来なのか。もしかしたら、

「なかったこと」

 なのかもしれない。瓦礫のように折れたベンチの上に、誰かのリボンが落ちていた。しかし、それが何色だったのか、思い出せない。手を伸ばしても届かないまま、空間が遠ざかっていく。そのとき——どこかで誰かの声がした。振り返る。でも誰もいない。名を呼ばれたはずなのに、それが誰の声なのか、思い出せない。そして、思い出そうとした瞬間に、その声すら失われてしまう。次の瞬間、彼は夢から落ちた。

 

 ***

 

 ──目が覚めた。カーテンの隙間から射し込む柔らかな光が、天井をゆっくりと染めていた。

(……夢を、見ていた気がする)

 けれど、何も覚えていなかった。何か大切なものがあった気がする。誰かの声が聞こえていたような気がする。柔らかな光と、笑い声と、キーを叩く音……けれど、指先に残る感触はなく、耳には何の記憶も残っていなかった。ただ、ひとつ――まるで線路が切り替わったような、そんな感覚だけが身体の奥に残っていた。どこかで別の列車が発車し、自分はそこには乗らなかった。あるいは、自分だけがホームに取り残された。そんな、理屈ではない喪失感。不在への寂しさ。何かが

「正しく続いて」

 いったような、そして

「自分だけが残された」

 ような――そんな相反する感情が、胸の奥で交差していた。誠は、ゆっくりと息を吐いた。この感情には、名前がない。ただ、夢の続きは見られないということだけが、確かだった。何か大切な記憶が、指の隙間から零れ落ちるように消えていった。その喪失に、ふいに胸がざわついた。

 

 ***

 

 ベッドの隣は──空っぽだった。

(……七海?)

 不安が胸を満たす。あれほど確かに、ふたりは寄り添っていたはずなのに。……と。

「おはようございます」

 ふと開いたドアの向こうから、バスローブ姿の七海が、笑顔で顔を覗かせた。その一言だけで、誠の胸にぬくもりが満ちていく。

(……よかった。いてくれた)

 誰かが、ここにいてくれること。それが、こんなにも嬉しい。七海はその安心には気づかぬまま、いつもの調子で朗らかに言った。

「せっかくだから……もっかい、ジャグジー入りません?」

 その無邪気な提案に、誠は小さく頷いて立ち上がる。──バスローブの布地が、象徴を抑えきれず盛り上がっていた。

(あ……)

 誠が視線を落とした瞬間、七海もその状態に気づき、

「……っ」

 頬を赤く染めた。ほんのりと口元を引き結び、視線をそらそうとしながらも、その目は、どこか嬉しそうに潤んでいた。誠はゆっくりと、七海に近づきながら囁く。

「……もっかい、いい?」

 七海は、目を伏せながら微笑む。

「……はい。ぜひ……」

 朝の空気は、どこまでも澄んでいるのに──ふたりの間には、たしかな熱が芽吹いていた。柔らかな陽光。ジャグジーから漂う水の音。そして、愛する人の肌と肌の距離。清らかで、官能的な──もうひとつの朝が、ゆっくりと始まろうとしていた。

 

 ***

 

 ベッドルームに戻ると、ふたりはゆっくりとバスローブを羽織り、カーテンの隙間から差し込む朝の光に、目を細めた。東京の空は、うっすらと曇っていて、けれどその薄明かりが、どこかやさしく、眠気を残した身体に染みていく。

「……もうすこし、こうしてたいですね」

 七海がそうつぶやいて、誠の胸元に身を預ける。誠も腕をまわし、そっと抱き寄せると、ふたりの間に、自然な沈黙が訪れた。呼吸が合う。心音が溶ける。そして──

「七海」

「はい……」

 ふたりは、ほんのすこしだけ距離をとり、見つめ合う。朝のやわらかな光が、ふたりの輪郭をやさしく包み込んでいた。そして──こつん。おでことおでこを、そっと重ねる。ぶつけるのではない、吸い寄せられるように、静かに、静かに──額の熱が、ゆっくり伝わる。

「ん……」

 七海が、うっとりと目を閉じる。誠は、そっと囁いた。

「……七海がいてくれて、ほんとに幸せだよ」

 七海の頬が、そっと染まる。

「わたしも……誠さんの一番近くにいられて……幸せです……」

 まだ濡れた髪の香り。肌と肌のあいだに残る微かな湯気。おでこを通して響く、鼓動の温もり──ふたりはしばらく、そのまま、言葉もなく、おでこを重ねたまま、時間を止めていた。それが──ふたりだけの朝の儀式。どんな言葉よりも深く、どんなキスよりも静かに、ふたりの“いま”を重ね合わせる、密やかな愛のしるしだった。

 

 ***

 

 ジャグジーでの愛の余韻がまだ身体に残るまま、ふたりは静かに朝の時間を過ごしていた。チェックアウトまで、あと少し。

「……そろそろ、着替えてきますね」

 そう言って七海は、ベッド脇に置かれたトートバッグを手に取り、バスローブのまま洗面室へと向かった。その背中には、まだ濡れた髪の艶が残っている。扉が閉まり、しばらくして──カチャリ、とドアのロックが外れる音がした。振り返った誠の視界に、思わず言葉を失うほど美しい姿が現れる。白のフレアスカートに、淡いグレージュのシアーブラウス。透けすぎない絶妙な素材が、陽の光を受けて柔らかく揺れていた。綺麗に解いた髪、耳元には小さなイヤリング。腕時計とトートバッグで全体が引き締まり、まるで雑誌から抜け出してきたような完成度だった。

「……どう、ですか?」

 恥ずかしそうに微笑む七海。でもその目は、どこか誇らしげでもあった。

「……七海、ほんとに……綺麗だ」

 誠は、目を逸らせなかった。静かな朝の光の中で、彼女の美しさだけが際立っていた。

「なんか、モデルの撮影現場に紛れ込んだ気分」

「ふふ、褒めすぎです……でも、嬉しい」

「ほんとに。……何回惚れ直させるんだよ、今日だけで」

 七海は、ふっと微笑んだ。そして、おそるおそる誠に手を伸ばし、そっとその手を握る。

「……惚れ直してもらえるように、ちゃんと、がんばりますから」

 その一言に、誠の胸がじんわりと熱くなる。

(……この人と、一緒にいたい)

 ただそれだけが、心の奥に澄んで残っていた。

 

 ***

 

 チェックアウトのため、ふたりはエレベーターに乗り込んだ。早朝のせいか、乗客はふたりだけ。扉が閉まり、ゆっくりと下降を始めると、かすかに沈黙が訪れた。不意に、七海がその横顔を向ける。

「……誠さん」

 柔らかな声とともに、そっと誠の肩に寄り添い、迷うように、でも確かに──唇を重ねてきた。一瞬、世界が静止する。誠も自然に応える。唇が重なり、優しく触れ合い、そして……深まってゆく。音のない密室。ふたりの呼吸だけが熱を帯び、静かに交錯する。舌先が触れ合い、互いの温度が、感情の奥へと溶け込んでいく。──やわらかい。──あたたかい。舌が――入り込んできた。濡れた水音が、密閉された空間に響く。じゅ、と。ぴちゃ、と。舌先が絡み、舌裏を撫で、吸いつき、喉の奥で震えた。

(……まるで、昨夜の……)

 記憶がフラッシュバックする。ジャグジーの中で重なり合った熱。七海が背を向けて、縁に手をつき、誠の象徴を迎え入れたときのあの景色。長い脚が絡み、水しぶきが跳ねる音の中で、啼くように喘いだ声。

「誠さんの、全部ください……」

 今、ふたりの舌がまた交歓している。七海の吐息が甘く崩れる。

「……んっ、ふ、……やだ……、また、火が……ついちゃい、ます……」

 誠の手が思わず腰を抱く。彼女も応えるように、喉を仰け反らせて舌を絡め返す。深く、ねっとりと──ただのキスではない。それはすでに“愛の予兆”だった。

「……もう……このまま……っ」

 七海の太ももがかすかに震え、脚がこすれ、艶やかな吐息がこぼれる。誠も応える。唇で、舌で、感情で。“ここで抱きたい”という衝動に、全身が熱くなる。そのとき──カチッ電子音。静かに、扉が開いた。──1階。ロビー。ふたりは、呼吸を切らしながらも、名残を引きずるように唇を離した。ほんの少し、糸がつながるような余韻を引いて。七海は恥じらいと名残とを湛えたまま、微笑む。

「……いけませんね、朝からこんな……」

 誠も笑って、指先で彼女の頬をそっと撫でた。そして、手をつないだ。キスの中に燃え上がった熱は、静かに──幸福感へと、変わっていった。

 

 ***

 

 ホテルのロビー階に併設された、有名パティスリー。ショーケースの中には、まるで宝石のようなケーキがずらりと並んでいた。色とりどりのマカロンや、クリームが美しく巻かれたロールケーキ、小ぶりながら芸術的なムースケーキ――どれも目を引く。

「……すごいですね、どれも美味しそう」

「うん……目移りしちゃうね」

 誠と七海は肩を寄せ合って、一つ一つじっくり眺める。結局、目線が同時に止まった先――小さな洋梨とチーズのケーキ。

「……せーのっ」

「「これ!」」

 ふたりの指先がぴたりと重なって、顔を見合わせて笑う。

「やっぱり誠さん、わたしと好みが似てますね」

「それ、七海が言うと嬉しくなるやつ」

 微笑み合いながら、店員に注文しようとしたそのとき、七海がふと思い出したように言った。

「……あの、飛鳥さんの分も……買っていきませんか?」

「……あ」

 誠は小さく声を漏らし、数秒間の沈黙のあとで頷いた。

「そうだね……忘れてた。あいつ、拗ねるかもしれないし」

「ふふっ。飛鳥さんに合うのを選びましょう」

 そう言いながら、七海はピスタチオとフランボワーズのマカロンが並ぶ棚を見つけて、そっと指差す。

「これ、可愛くないですか?飛鳥さんに似合いそう」

「……似合う、かも。ツンとしてそうだけど、ちゃんと甘い感じ」

 誠が苦笑しながらも頷き、結果――二人分のスイーツが、きれいに紙袋に収められた。袋の取っ手を受け取った七海の指先が、少しだけ誇らしげだった。

「これで、みんなにちゃんとお礼ができますね」

「うん。ありがとう、七海……」

 ほんの些細なやり取り。でもそこには、三人がつながっていることの優しさと、ふたりの気遣いの重なりが、たしかにあった。


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