『三つ編みのまま、眼鏡のまま、制服のまま』
『三つ編みのまま、眼鏡のまま、制服のまま』
静まり返った放課後の図書館。棚と棚の隙間に埋もれるように、七海は一人座っていた。黒縁の眼鏡をかけて、三つ編みを肩に垂らして。白いブラウスの袖口を折って、そっとページをめくっていた。誰も来ないはずの、静かな午後。──なのに。足音が、近づいてくる。こつ、こつ、こつ、と。やわらかいリズムで、躊躇いなく。ページをめくる手を止めて、顔を上げると──そこに、彼が立っていた。
「……誠、さん……?」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと笑った。見慣れた姿。でも、どこか“昔”の誠。七海の中で、時間の感覚がぐらりと揺れる。
「やっぱり、ここにいたんだね」
その声は、何もかも知っているようだった。まるで、ずっと見ていたかのように。
「……こんな格好、して……恥ずかしい……」
うつむこうとする彼女の手を、そっととって、誠は言った。
「可愛いよ」
七海の肩が、びくりと震える。うそ、って思った。でも、彼は続けた。
「今の七海も、こうして本に夢中になってる七海も──どっちも、大好きだよ」
まるで、どちらかだけじゃなく、すべてを抱きしめるような声だった。ずっと否定されてきた、ひとりだった頃の自分。それを“好き”って言ってくれるなんて。
「だから──付き合ってほしい」
誠は、まっすぐに言った。飾らず、まっすぐに。七海は、震えた。眼鏡の奥で、涙がにじんだ。
「……ほんと、に……?」
震える声に、誠はただ頷いた。
「ほんとだよ。今も昔も、全部ふくめて──七海が好き」
七海は、両手で顔を覆った。こらえきれない涙が、ぽろぽろとこぼれていた。
「その姿のままでもいいんだよ。今の君も、昔の君も、どっちも、美しいよ」
……そして、交わった。三つ編みのまま、眼鏡のまま、制服のまま。七海は彼に優しく倒され、肌を晒した。リボンがほどかれるたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。ボタンが外れる音に、涙が零れた。彼の指は、震える彼女の背を撫でた。彼の唇は、そっと眼鏡越しの瞳に触れた。制服の下に隠していたものすべてを、彼は「愛おしい」と言ってくれた。自分でさえ好きになれなかった体を、声を、肌を──全部、抱きしめてくれた。七海は、ただただ泣いた。嬉しくて、苦しくて、夢みたいで。静かな交わり。ゆっくりと受け入れて、重ねて、震えて、愛されて──すべてが終わったあと、誠が額をくっつけて、囁いた。
「今の七海も、昔の七海も、どっちも、俺の大切な人だよ」
──その言葉を聞いたとき、夢の中の七海は、はじめて笑った。誰にも見つけてもらえなかった彼女が、たった一人に見つけられて、やっと“愛された”。
***
柔らかな朝の光が、白いカーテン越しに差し込んでいた。まだ少しだけ肌寒い空気の中、彼の腕の中で、七海は目を覚ます。
「……ん……」
微かに吐息をこぼして、目を開けたとき、すぐ隣にいる誠が、そっと髪を撫でてくれていた。
「おはよう。……よく眠れた?」
「……はい」
小さく返事をしながら、身体を少し丸めて、彼にぎゅっと寄り添う。肌が触れ合うたびに、安心する。だけど──そのまま、ぽつりと、七海は呟いた。
「……夢を、見ました。学生のころの、わたし……眼鏡かけて、三つ編みで……」
「……図書室に、いたよね?」
その言葉に、七海の呼吸が止まった。
「──え?」
誠は驚いたように、そして、どこか照れたように、続けた。
「なんか……変だよね。俺も、同じ夢を見たんだよ。七海が、三つ編みで……制服着てて……」
「……ほんとうに……?」
信じられなくて、七海は彼の目をまっすぐ見た。誠もまた、真剣に、まるで不思議な魔法にかかった子供のように、頷いていた。
「好きだって、言ったよな。……昔の七海も、今の七海も、どっちも好きだって」
七海の目が潤む。胸の奥が、またじんわりと熱くなる。
「……夢の中でも、優しかったです……あの頃のわたしに……ちゃんと、好きって、言ってくれて……」
「言いたかったんだ、ずっと。現実でも夢でも、なんでもいい。七海が自分を好きになれるように──俺が、何度だって言うよ」
ぎゅっと、彼の胸に顔をうずめる。七海の小さな涙が、誠の胸元を静かに濡らした。
「ありがとう……誠さん……」
しばらくそうしていたあと、七海は少し照れくさそうに笑って、冗談まじりに囁いた。
「……じゃあ、あの三つ編みの七海ちゃん、誠さんと付き合うことになったんですね……」
「うん、付き合った。で、今こうして、朝を迎えてる」
「……じゃあ、やっぱり……夢じゃないんですね」
彼女の声は震えていた。だけどそれは、幸せに包まれた震えだった。
「……全部、ほんとうのことみたいに思える。誠さんがいてくれるから」
誠は、黙って微笑んだ。七海の額に、そっと唇を落としながら──夢と現実の境が、静かに溶けていく朝だった。
***
静かな時間。何気ない呼吸のリズムを揃えるように、肩が寄り添う。誠が、ふと笑いながら切り出す。
「ねえ、七海さ──最近えっちな小説書いてるって、聞いたんだけど……」
「……っ!だ、誰から聞いたんですか!?」
反射的に跳ね起きそうになる七海を、誠はあわてて片腕で抱きとめる。
「瑞希から」
「……瑞希さん……」
七海は唇をきゅっと結び、小さく唸る。
「……お仕置き、しないと」
「こわいこわい!でもさ……見せてくれないの?」
そう言って覗き込むような視線に、七海は枕に顔をうずめたまま、もぞもぞと。
「……まだ、ダメです。修行中なので……」
「じゃあ……いつかは、見せてくれるんだね?」
「……はい」
七海は顔を隠したまま、小さくうなずいた。
「もうちょっと……待ってください。恥ずかしくないくらい、ちゃんと書けるようになったら……」
誠は、その姿があまりにも可愛くて、思わず微笑みながら、そっと頭を撫でた。
「うん。楽しみにしてるよ。きっと、七海が書くなら──とびきり素敵なやつだよね」
「……誠さんのこと、モデルにしてますけど、いいんですか?」
「……えっ?」
「ふふっ。ないしょです」
七海はようやく顔を上げ、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
***
***
***
カフェの午後、窓際の席。白い湯気の立つカップが二つ。窓の外には陽の光。七海は手帳を閉じて、ややうつむきながら小さく言った。
「……ちょっと、美化して書いた、わたしの話です」
その前で、飛鳥がタブレットを持ったまま、静かにページをスクロールしていた。指先は止まっていないけれど、呼吸がとても静かだった。七海は、笑われるかもしれないと覚悟していた。「……痛々しい」なんて言われたら、どうしよう。
「あの、ほとんどは本当の話なんですよ?特にえっちの部分とか……でもさすがに夢の部分はだいぶ盛っていて……」
言わなくていいことを重ねて、更に言い訳のように言葉を継ぎ足してしまう。でも、飛鳥はふと手を止めて、画面から目を離さず、ぽつりと呟いた。
「……七海が、救われてよかったなって。そう思った」
その言葉に、思わず七海の表情が変わった。
「あ……えっ、あの、そんな……」
照れと動揺が入り混じって、手が膝の上で泳ぐ。
「そんな、わたし、ただ……昔のこと思い出して、勝手に書いただけで……」
飛鳥は画面を閉じて、まっすぐ彼女を見る。
「……勝手じゃない。ちゃんと、気持ちで書いたって伝わった」
小さな笑み。でも、ほんのわずかに、目の端が潤んでいた。七海は逆に慌てて、カップを持ち上げたけれど、紅茶の温度に驚いてすぐに戻した。
「飛鳥さんが、そんなふうに……思ってくれるなんて……」
飛鳥は肩をすくめるように笑って、少し目をそらした。
「……まことなら、昔の七海も、今の七海も……ぜんぶ肯定してくれるの、わかる」
七海は驚いたように目を丸くする。
「……え」
「まことって、そういうヤツじゃん?」
飛鳥は、カップを持ち上げながら言った。
「どんな過去も見捨てないし、ちょっとズレてるとこもあるけど──そういうとこ、ちゃんと見てくれてる」
思わず、七海の胸がじんわりとあたたかくなる。
「……うれしいです……。それに、"どっちも大好き"ってのは創作じゃなくて……ほんとうに、言ってくれたんですよね」
それを聞いた飛鳥が、わざとらしく眉をひそめた。
「……なにそれ。惚気じゃん」
「えっ、あ、ちが……!」
「まことに“どっちも大好きって言われた”って、そりゃ惚気でしょ〜〜?」
「ちが、ちがいます、そういう意味じゃ──いや、そういう意味なんですけど」
「現実でイチャついておいて、小説にそれ書くとかさ〜、ずる〜い」
「ちょ、飛鳥さん……っ」
七海は顔を真っ赤にして、手をぱたぱたと振る。飛鳥はニヤニヤと笑いながら、それをかわして、カフェのテーブルの下でそっと足を伸ばしてくる。
「はいはい、惚気はこれ以上聞きたくないから〜。あと10秒続いたら、わたし拗ねて帰るとこだった」
「えっ、そんな……っ!」
「……嘘でも言ってみると、けっこう本気になるんだよな〜……くそ〜……」
カフェの午後。わちゃわちゃと笑い声が溶けていくなか、紅茶の香りがやさしく香っていた。
***
窓から差しこむ光がテーブルを照らし、白いカップの縁をきらりと縁取っていた。店内のざわめきの中で、不思議と二人の席だけが落ち着いた静けさを帯びていた。
「……七海って、実家はどこだったっけ?」
飛鳥が、カップを下してふと尋ねた。
「名古屋です。上京してからはずっと一人暮らしですけど」
「名古屋のお嬢なのかー。道理で品があるわけだ」
「ちがいますよー」
七海は少し照れくさそうに笑った。否定の言葉とは裏腹に、その笑みは、穏やかで温かかった。
「両親は健在で、仲も悪くないです。……平凡なお家ですけどね。ちょっと、体調に心配なところはあるんですが」
「平凡、かあ……」
飛鳥は小さく呟いた。その声には、ほんの少しだけ羨ましさが混じっていた。
「うちはさ、父親がガミガミで。母親は“忙しい”って言葉ばっかり。別にいいけどね。ただ……兄ぃのことだけ、モヤってて」
飛鳥はストローを揺らしながら、グラスの底を見つめる。
「……疎遠になっちゃったんだ」
七海はすぐに返事をせず、しばし黙って飛鳥の横顔を見つめた。それから、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。
「……離れてしまったり、嫌いになったりすることもあると思います。家族って、いいことばかりじゃないですから」
飛鳥が視線を上げると、七海はしんみりとした表情で続けた。
「でも……やっぱりどこかで繋がってるんです。形は変わっても。だから──いつか会えるといいですね」
飛鳥の胸に、じんわりと温かさが広がった。
「……ありがとう」
それだけを返すと、七海は小さくうなずいた。二人の間に落ちた静けさは、不思議と心地よいものだった。




