飛鳥、「あのね、75%なんだって」
──なにか、やわらかいものに包まれていた。心地よさに溶けていくような、夢の残り香。飛鳥はゆっくりとまぶたを開けた。ふわりと広がるのは、淡い石鹸の香り。そして──視線の先に、七海がいた。ベッドの隣。もう目を覚ましていて、こちらをじっと見つめていた。
「……おはようございます」
微笑む七海の声が、まるで夢の続きのように優しかった。飛鳥は一瞬、まだ夢のなかかと錯覚して──それから、恥ずかしさが頬を染めた。
「……ちょっと、変な夢見ちゃって」
つぶやくようにこぼした言葉に、七海が即座に反応した。
「えっちな夢ですか?」
「なっ……なんですぐそうなるの!?」
ばっと顔をそむけたが、七海は涼しい顔で首を傾げる。
「違うんですか?」
「そこで残念がらないでよ!」
「てっきり……誠さんとの濃厚な一夜を、夢に見たのかと」
「……まあ、うん、それは……」
言いよどんだ瞬間、七海の瞳がきらんと輝いた。
「やっぱり!当たってたんですね。くわしく、ぜひ」
「やめて、取材トーンにならないで……!」
掛け布団をぎゅっと引き上げて顔を半分隠す飛鳥に、七海は遠慮なく追撃を仕掛けてくる。
「まあまあ、続きをどうぞ?」
「……なんかね、巫女服で……」
「……はいはい
(メモするふり)
」
「わたしと七海で、誠と……愛し合うの……」
「まあ!」
目をきらきらさせながら頷く七海。飛鳥は、もうだめだとばかりに枕に顔を埋める。
「なんかね、夢ってわかってるのに……どんどん過激になってくの」
「す、素敵です……!」
「……ねぇ、目潤んでるよ、七海。落ち着いて……」
***
しばらく、ふたりのあいだに笑い声がこぼれたあと。七海が、まるでほっとしたように呟いた。
「……いい夢、見ましたね」
無邪気な声だった。飛鳥は、うん、と頷いたものの──その声はどこか歯切れが悪かった。それに気づいた七海が、やわらかく問いかける。
「……何か、気になることでも?」
飛鳥は少しだけ目を伏せる。
「……うん、ちょっと……へんな夢でさ……」
「へん?」
「うん……なんか、妙にリアルっていうか……現実っぽいの」
言いながら、布団の端を指先でつまむように触れる。
「将来のこととか……家の間取りとか……誠と一緒に、どう暮らしていくかとか……そんな話までしてた気がするの。……すっごく細かく」
そこまで言って、飛鳥は少し言葉を切る。
「……で、さ」
「はい」
「……その夢に、瑞希が出てこなかったのが……なんか、自分でやだなあって」
その瞬間、七海の表情がやわらかく緩んだ。両腕を伸ばし、何も言わず、飛鳥をふんわりと抱きしめる。
「……な、なんだよー」
不意のハグに、飛鳥はやや照れくさそうに呟いたが、七海はただ、静かに微笑んで言った。
「飛鳥さんは……ほんとうに、可愛いですね」
「可愛くないよ……」
もぞもぞと顔をそらしながら、口をとがらせる飛鳥。けれど、七海はその反応すら慈しむように、ほんの少しだけ顔を近づけて囁く。
「いいえ。……可愛いです」
その声があまりに優しくて、あたたかくて──飛鳥は思わず、まぶたを閉じてしまった。
***
しばらく、ふたりの間に静かな呼吸だけが流れていた。そのなかで、七海がぽつりとこぼす。
「……飛鳥さんって、ほんとに、いいひとですね」
その言葉に、飛鳥は小さく身じろいだ。
「……ぜんぜん、よくないよ」
小声で、ふてくされたように呟く。
「わたし……すぐ、嫉妬とかしちゃうし……瑞希のことだって、なんかちょっと羨ましくなったりして……」
そう言いながら、言葉の端にすこしだけ涙っぽい響きがにじむ。すると、七海はふわりと布団の中から手を伸ばし、再びそっと飛鳥を抱き寄せた。今度は、包むようにしながら、軽く揺らすように抱いてくれる。子どもをあやすみたいに、やさしく、ゆっくりと。
「えっちな夢を見て……そのあとに、ちゃんと反省しちゃう飛鳥さんは……やっぱり、可愛いですし。……いいひとですよ」
静かに、でもまっすぐにそう言われて──飛鳥は何も言い返せなかった。ただ、胸の奥にじんと広がっていくような、あたたかい何かが、自分を包んでいくのを感じていた。恥ずかしいような、くすぐったいような。でも、ちょっと泣きそうなくらい、うれしい気持ち。それだけが、ゆっくりと、心に染みこんでいった。
***
昼前の陽射しが、白いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。飛鳥は、ソファにうつ伏せのままごろりと寝転がり、スマホを片手にぼんやりと画面をなぞっていた。隣にはクッション。床には雑誌。テーブルには開けかけのチョコレート。風も音もぬるくて、なんとなく、なにもする気が起きない休日だった。ピロン、と軽やかな通知音が響いた。
「ん……?」
無造作に指を滑らせると、瑞希のアカウントが表示された。昨日の投稿──あのパンケーキの写真。そしてそのコメント欄に、自分の書き込み。そして────
「がおー」
瑞希からの返信。子供っぽい、照れ隠しのような、ちょっと甘える絵文字付き。飛鳥はふっと口角を緩めた。
「……しょーもない」
言葉にしたくせに、胸の奥が、ほんの少しチクリとした。冗談半分に投げたボールが、ちゃんと返ってくる。それだけのことなのに、なんでだろう──たぶん、これは──ちょっとだけ、嫉妬だ。ああやって、会って。笑って。触れて。わたしの知らない顔を、またひとつ、見せて。でも、それが瑞希だからこそっていうのも、わかってる。あの子は、そういうふうに人を好きになる。まっすぐで、正直で、やさしくて。ずるいくらい、ちゃんと相手を見てる。スマホを胸の上に乗せ、仰向けになって天井を見上げた。光がゆれて、瞼の裏ににじむ。そこには、会っていない寂しさと、確かにつながっている安心と、──そして、こっそり噛みしめるような、羨ましさが。
「飛鳥さん、お昼ですよー!」
部屋の奥──キッチンの方から、七海のやわらかな声が届いた。
「……はーい」
気の抜けた声で返事をして、スマホをぽんと投げ出す。まだ胸の奥に、ざわつく何かが残っていたけれど、たぶん、七海なら──聞いてくれる。自分こそ、しょーもないこの気持ち。うまく言えなくても、なんでもない顔で、ちゃんと受け止めてくれる気がした。
「……ねぇ、七海、ちょっとさ」
言葉にならない甘えと、少しだけ揺れた感情を抱えて、飛鳥はソファから、ゆっくりと体を起こした。
***
翌日。昼休みの学食は、そこそこ賑わっていた。トレーを持って列に並びながら、飛鳥はぼんやりと窓際の方を眺めた。──いた。丸いガラス窓のそば、瑞希が一人で座っていた。サラダを箸でつついているけど、ほとんど食べてない。スマホも手元にない。誰とも話してない。いつもの、あのきらきらした感じがなかった。
(……なんか、元気ないじゃん)
飛鳥は小さく息をついて、受け取ったトレーを両手に掲げたまま、ほんの少しだけ足を止めた。どうしよう。スルーして別の席、行こっかな。──でも、それはなんか、逃げみたいでやだ。だから、ちょっとだけ大股で歩いて、無理やりテンションを上げた。
「おーい。ここ空いてます?」
わざとらしく声をかけると、瑞希がぱちりと顔を上げた。ちょっと驚いたみたいな顔。けど、すぐに小さく笑って、うなずいた。
「……どうぞ」
トレーを置いて、飛鳥は向かいの席に腰を下ろす。
「学食、久しぶりかも。いつも混んでるしさー」
「……うん、たしかに」
「てか、このチキンちょっと焦げてない?これ、クレーム案件じゃない?」
「ふふっ……ほんとだ」
たわいもない会話。だけど、あまり続かない。空気が、どこか湿っていた。箸の先を見つめながら、飛鳥は少しだけ眉をひそめる。
(……うーん、こりゃダメだな)
それでも、しばらくは黙って、ひと口ずつごはんを食べた。少しの間が空いて、それを埋めるみたいに、瑞希がぽつりと口を開いた。
「……あのさ、飛鳥ちゃん」
「ん?」
「……ごめんね。なんか、昨日……無神経だったかもって」
「は?」
思わず聞き返す。すると瑞希は、少し視線を落として、静かに言葉を継いだ。
「デートの投稿とか……あのコメントのこととか。ちょっと、浮かれてたかもって……。飛鳥ちゃんからしたら、まーくんとわたしがデートしてるの丸わかりな訳で、そこでなんか、知らず知らず勝ち誇ってるみたいな感じ出てたかもって……」
飛鳥は、スプーンの柄をくるくると指で回しながら、わざと軽い声を出した。
「なにそれ、今さら?そんなの前からじゃん。むしろ、もっと濃厚な匂わせしてきてたでしょ。裏垢とかさあ……」
茶化すように、少し口角を上げて言ってみたけど──瑞希の目は、やっぱり少し沈んでいた。言い返してくるわけでもなく、笑ってもくれない。ただ、うつむいたまま
「そうなんだけど……」
とだけ言って、言葉を濁す。その声が、ちょっとだけ、寂しそうで。
(……あー)
その瞬間、飛鳥の中で、ふっと何かがほどけた。明るくて、コミュ力おばけで、あざとくて。人に好かれる天才で、なんでも手に入れられる子。みんな、そう見てる。けど、ほんとうは違う。この子はほんとはちょっと不器用なんだ。誰かを好きになると、まっすぐ突っ走っちゃうタイプ。ちょっとだけ、自分のテンションの高さで周りが見えなくなる。でも、それをちゃんと
「ごめんね」
って言えるのが、瑞希なんだよな。それを言う相手が、わたしや七海、そして……誠だけっていうのも、たぶん、この子なりの“甘え”なんだと思う。
(……うん。嫌いになれないんだよな、こういうとこ)
湿っぽくて、ちょっとめんどくさくて、でも、ちゃんとわたしの方を見てくれる感じがして。ほんとは自分だって、誰かにそうしてもらいたいって思ってるくせに。
(……しょーもないのは、たぶん、わたしの方だよ)
***
コーンをつつきながら、飛鳥は小さく息をついた。
「……あのね」
視線を皿の隅に落としたまま、口を開く。ほんの少し間が空いたのち、意を決するように顔を上げた。
「正直いうと──ちょっとイラッとした」
その言葉に、瑞希がぱちりと瞬きをする。でも、飛鳥は続けた。
「でもそれは、まあ、羨ましさも三割……いや、ほとんどかな?自分の問題でさ」
ちょっとだけ、頬をかいて苦笑いする。
「瑞希は、そんな謝るようなことしてないよ。どっちかと言うと、茶化すように書き込みしたわたしの方が普通に感じ悪いし……。瑞希はちゃんと振る舞ってるのに、いちゃもん付けて、逆になにこいつって思ってもおかしくないし……」
「……そう?」
「うん。まーちょっとイラッとはしたけどね!」
今度はわざと語尾を強くして、言い切る。すると瑞希は、目を丸くして──それから、ふっと笑った。
「そこは強調するのね!」
「するでしょう、そこは」
そう返すと、ほんの一瞬だけ、机の下で瑞希の膝が触れた。たぶん、わざと。ほんのちょっとだけ、嬉しそうに。でも──ここで終わらせたくはなかった。飛鳥は、仕切り直すように背筋を伸ばす。
「あのね、75%なんだって」
瑞希が、きょとんとした顔でこちらを見た。
「……5センチメートル?」
「ちがうよ!真面目に話してるから、聞きなよ」
「はい、先生」
軽口に小さく笑いながらも、その声にはもう、さっきまでの湿気はなかった。
「わたしたちの関係のこと」
飛鳥は言った。
「100%わかりあって、なんでもオーケーってわけじゃない。好きだけど、やっぱり受け入れられない、嫌いだーってところもある。でも、そんなもんじゃん?75%でもやってきたじゃん」
「……それは、そうだね」
「だからまあ、イラッとする時もあるけど、また75%でやっていこうよ」
それは、誤魔化しでも妥協でもない。ちゃんと選んできた“わたしたちのやり方”。少しの沈黙。それを破ったのは、瑞希の、ふっと抜けた声だった。
「……飛鳥せんせい……」
「先生呼びやめい」
スプーンを持ったまま、瑞希の額を軽くつつく。そのしぐさに、瑞希がくすくす笑った。ふたりの間に、ようやく風が通った。窓の向こうで、夏の光がまばたいている。トレイの上のアイスコーヒーが、ひとつだけ、静かに汗をかいていた。
***
「──とりあえずさ」
残ったアイスコーヒーを一口すすってから、飛鳥は口を開いた。
「授業料にパンケーキ奢ってよ。写真撮ってたやつ」
「授業料とるの!?」
瑞希が思わず声を上げる。
「やすいもんだろーがー」
飛鳥がすかさず返すと、瑞希はぷくっと頬を膨らませた。それが可愛くて、つい笑ってしまう。──そのとき。
「……あの」
少し離れたところで躊躇っていた七海が、そっと近づいてきた。
「なんの話ですか?」
「七海~来た来た」
飛鳥が手を振ると、七海は柔らかく笑って同じテーブルに腰を下ろした。その仕草には、どこか安心したような気配があった。
「えっとね、5センチメートルなんだって」
瑞希が得意げに言う。
「だから違うってば!」
飛鳥がすかさずツッコむ。そのやりとりを見て、七海はふっと目を細めた。
(ああ──いつもの調子だ)
心の中で、静かにそう思う。やっぱりこのふたりは、こうでなくちゃ。
「わたしたちはね、みんな75%なんだって。75%でいいからやってこうよって、飛鳥先生の講義」
瑞希が嬉しそうに言うと、七海は
「あー」
と小さく頷いた。
「それ、ちょっと前にわたしが飛鳥さんに話したやつです」
「ネタバラシしないで!」
飛鳥が身を乗り出して抗議する。
「やっぱりー。なんか七海先生っぽい響きだったもん。道理でー」
「うるさいうるさいうるさい」
飛鳥はふたりの笑顔に囲まれて、わざとむくれ顔を作る。
「とりあえず、瑞希はパンケーキ全員奢りね。義務だからね。儀式だからね」
「なんで儀式!?」
「うふふ、ごちそうになりますね」
七海がほわっと笑って言えば、瑞希も思わず吹き出した。
「七海先生も食べる気満々じゃん!」
ふと、窓の外を風がすり抜ける。光が踊って、笑い声がテーブルの上に重なる。さっきまで湿っていた空気は、もうどこにもなかった。




