飛鳥、バイト先のファミレスから夜のデート
夜のファミレスは、昼間よりも落ち着いた空気に包まれていた。客の姿はまばらで、ひとり客や仕事帰りの数人連れが静かに食事をしている。厨房からはフライヤーの低い音。ホールではスタッフがメニューの補充や水の交換を淡々とこなしていた。その中に、飛鳥もいた。襟つきのシャツに濃い色のパンツ、エプロン。動きやすいだけのシンプルな制服。髪を高めにまとめ、後ろに流している。水を注ぎ、トレイを拭き、注文を通してカウンターに戻る。無駄のない動き。表情も崩さず、感情をあまり乗せない接客。ミスも無駄口もなく、同僚からも「頼れるタイプ」と思われている。
***
22時を少し過ぎたころ。入口のドアが開く。思わず、手が止まった。誠だった。心臓がひときわ強く跳ねる。頬の奥が熱くなるのを自覚して、慌てて視線を逸らす。
「……いらっしゃいませ」
声は、いつも通り淡々としたまま。誠が席に座るのを確認して、水とメニューを置く。
「こんな時間に、なに」
「飛鳥がいるって思って。……会いたくなった」
さらっと言われた一言で、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。思わず、喉の奥がきゅっと鳴った。
「……ふ、ふーん」
誠が視線を上げる。
「その制服、思ったより似合ってるね」
「っ……。……仕事着だし。そういうの、わざわざ言わなくていい」
口ではそっけなく返す。でも、立ち去る前に一瞬だけ動きが止まってしまう。胸の奥が、くすぐったい。
(なにそれ……。バカ……でも……ちょっと、嬉しい……)
「仕事、終わるまで待ってていい?」
誠の声が追いかけてくる。飛鳥はトレイを持ち直しながら、背中越しに答えた。
「……まだ一時間以上あるけど」
「うん。大丈夫。ここ、長居できるし」
「……だったら、ちゃんと注文してよ。ドリンクバーだけじゃ、つまんないから」
口調はそっけなくても、背中の力は少し抜けていた。暖簾をくぐる手前で、ほんの少しだけ口元が緩む。
(……来てくれるなんて思わなかった。……ほんと、バカ。……でも、すごく嬉しい)
***
ファミレスの裏口が開き、夜風が少し吹き込んだ。制服を脱いで私服に着替えた飛鳥が、外に出てくる。髪をほどいたばかりで、ポニーテールの跡がまだ残っている。照明に照らされた壁にもたれて、誠が静かに立っていた。スマホも見ず、ただ彼女を待っている。
「……いたんだ」
いつもの調子で言ったつもりだった。けれど声がわずかに弾んでいるのを、飛鳥は自分でも感じていた。
「いたよ。迎えに来た」
「……別に、そこまでしなくても」
言いながらも、胸の奥があたたかくなる。誠と並んで歩き出す足取りは、自然に速くなっていた。夜の街には、まだ少し週末の賑わいが残っていた。商店街のシャッターが下りはじめ、居酒屋の暖簾が風に揺れている。遠くでストリートミュージシャンの音がかすかに響いていた。
「疲れただろ?」
誠が声をかける。
「……ううん。思ったより、元気」
口ではそっけなく返す。けれど歩幅を合わせながら、ちらりと横顔を盗み見てしまう。その視線に気づかれていないか、心臓がどきどきして仕方なかった。駅前のロータリーに出ると、街灯が広く舗道を照らした。タクシーの列や、自転車の影が横を通り過ぎていく。改札が近づいたとき、飛鳥は迷った末にぽつりと口にした。
「……あたしの家、寄ってく?」
「うん。行きたい」
誠の即答に、胸の奥がふわりと浮く。視線を逸らして、わざと抑えた声で返す。
「……ふーん」
ポケットからスマホを取り出し、画面を見つめるふりをする。でも、誠が小さく笑ったのが耳に残って離れない。
(……ほんと、バカ。……でも、わたしもずっとこうしたかったんだよ)
気づけば、さっきよりも足取りがずっと軽くなっていた。まるで、この夜が特別なデートに変わっていくのを知っているみたいに。
***
電車は、思ったより混んでいた。帰宅ラッシュは過ぎているはずなのに、車内にはまだスーツ姿の人や学生、肩を寄せるカップル。飛鳥と誠も、自然とドア横のスペースに立つことになった。誠が手すりを背にして立ち、その前に飛鳥がやや斜めに立つ。片手は吊り革、もう片方はパーカーのポケット。電車が動き出すと、身体がかすかに揺れた。その瞬間、すぐそばの誠の肩が軽く触れる。飛鳥は、視線を窓の外へ逸らす。
(……混んでるんだから、仕方ない。……仕方ないけど)
心の中で言い訳しながらも、つま先がほんの少しだけ誠の方へ寄っているのを、自分でも気づいていた。誠は何も言わない。ただポケットに手を入れたまま、広告を眺めている。
(……しゃべってよ、なんか)
沈黙が長くなると、指先に余計な力が入る。でも、次の駅で少し乗客が降りた拍子に、電車が揺れた。誠の体が寄ってきて、肩がはっきりと触れた。
「……っ」
一瞬、身体を引こうとした。でも、そのままやめた。触れていた方が、なぜか自然だったから。窓の外にオレンジ色の街灯が流れていく。レールの音、吊り革の揺れる音。人々の息遣い。その中で、ふたりのあいだだけ、静かな時間が流れていた。飛鳥は、ちらりと横顔を見上げる。誠はやっぱり、何も言わずに立っている。その穏やかな顔に、不思議と安心した。
(……なんで平気そうにしてるの。バカ……でも、ちょっと……いい)
吊り革を握る手をゆるめて、ほんの少しだけ――誠の方へ体を預ける。誰にもわからないくらいの小さな角度。でも、それだけで胸が高鳴った。次の駅に着く。ドアが開いた瞬間、十人近くが一気に乗り込んできた。
「……っ」
飛鳥の体が押される。とっさに片足を引こうとしたその時――誠の手が、そっと背中に添えられた。ぐっと引き寄せられて、飛鳥の身体は誠の胸元に収まる。制服の布越しに、体温が伝わってくる。心臓が、跳ね上がる。
「……ごめん、混んできたね」
低く落ち着いた声が耳に届く。肩を庇うように、誠が体をずらしてくれる。そのせいで、距離はさらに近づいた。息を吸えば、彼のシャツの柔軟剤の香りがかすかに混じる。
「……べ、別に。いいけど」
口調は平坦にしたつもりだった。でも、自分の胸が彼に押し当てられているのがはっきりわかって、顔を上げられない。腕も、足の位置も、全部が誠と重なっていた。
(……うわ……これ、やばい……)
逃げる気持ちはなかった。むしろ、吊り革を握る手に力を込めながら、もう少しだけ――体を預けた。誠は何も言わない。でも、背中に添えられた掌が微かに支えてくれていて、それが心地よくてたまらない。
(……あーもう……嬉しくなるに決まってる……)
アナウンスも駅名も耳に入らない。今、確かなのは――体温と鼓動と、ふたりだけの時間。
***
(……なんでこんなに、落ち着くんだろ)
車内の音が遠のいていく。窓の外には街灯が流れ、ガタン、ガタンと響くレールの音が心臓の鼓動と重なっていた。誠の掌が背に添えられたまま。それだけで、守られているように感じて、胸がじんわり熱くなる。
(……もう、駅に着かなくてもいい。ずっと、このままで……)
電車が止まらず走り続けてくれたら――そう思ってしまうくらい、今が幸せだった。けれど車内アナウンスが流れ、減速の感覚が広がる。ブレーキの音。
「……あ」
思わず、声にならない吐息がこぼれる。もっと一緒にいたいのに、時間は進んでしまう。ドアが開く直前、誠が少し身をかがめて囁いた。
「……着いたよ」
ただそれだけ。それだけなのに、飛鳥の胸は一気に満たされる。顔を上げないまま、唇の端がわずかに緩む。
(……ほんと、バカ。……でも、やっぱり、すき)
電車は停まり、人の流れが動き出す。その中で、飛鳥は誠と肩を寄せ合ったまま、心の奥まであたたかくなっていた。
***
駅前。街灯がオレンジに滲んでいる。飛鳥は襟元を指で整えながら、となりにいる誠の手に、そっと自分の指を絡めた。声には出せない。でも、誠はすぐに気づいて、優しく握り返してくれた。
(……なんか、変な感じ……)
いつもの街。いつもの帰り道。なのに、ビルのネオンも、コンビニの看板も、歩道の縁石も、風に揺れる街路樹も――ぜんぶが、今夜だけキラキラして見えた。途中のコンビニで水やアイスやお菓子を買い込む。そんな何気ないことすら、楽しい。
(……こういうの、ずっと続けばいいのに)
人の少ない通りに出たとき、飛鳥はふと立ち止まった。誠が振り返る。飛鳥はまっすぐ見つめ返す。目を細めて、唇を少し突き出す。そうしたら――誠がふっと笑って、前髪をどかしてくれた。
「……ほんと、かわいいな」
耳まで熱くなる。すぐに唇が触れて、ふわりと熱が蘇った。歩き出しても、すぐまた立ち止まる。そのたびに誠は笑ってキスをくれて、飛鳥も満足そうに笑って、また歩き出す。ほんの15分の道のりが、ふたりにとっては特別な夜の儀式になっていた。空には月。高く、白く、冷たい光が街を照らしている。その下で、飛鳥はまた足を止めた。顔を上げ、唇を少し開いて、誠を見つめる。誠は黙ったまま見惚れているようで――その沈黙がくすぐったくて、飛鳥は思わず唇を尖らせた。
「……早くしてよー」
やっと誠が吹き出して、
「はいはい」
と言いながらまた唇を重ねてくれる。そして、ふたりはまた歩き出した。変わらない街の中を。でも飛鳥の胸の中には、昨日とはもう違うあたたかさが灯っていた。
***
ふたりの足音が、夜の住宅街に小さく響いていた。街灯の光は柔らかく、風もほとんど吹いていない。歩くだけなのに、胸が妙に落ち着かなくて――でも、嫌じゃなかった。アパートが見えてくる。
(……もう、着いちゃうんだ)
ほんの十数分なのに、今日はずっと長い時間を歩いてきたように思えた。階段を上がり、古びた鉄の手すりに手をかける。部屋の前に立ち、鞄から鍵を取り出す。差し込もうとしたとき、ふと横にいる誠を見上げた。目が合った。たったそれだけで、口元がふっと緩む。誠も同じように笑っていて、思わず頬が熱くなる。
「……なに笑ってんの」
少しそっけなく言ってみせる。誠は首を傾けて
「別に。なんか、楽しくて」
と返す。胸の奥がきゅっとなる。言葉にされなくても、いまが特別なんだってわかるから。気づけば、視線が下がっていた。唇が自然に少し開いてしまう。
(……してほしい)
声に出さなくても、誠なら気づいてくれる。それはもう、わかっていた。玄関の前。誰にも見られない小さな世界。でも夜の空気がまだ残っていて、そのひやりとした温度が逆に心地よかった。頬に手が添えられる。すぐに、唇が重なる。一度。もう一度。軽く、やわらかく。息づかいだけが重なって、世界が静かになる。
(……夢みたい)
でも、夢じゃない。この温度が、ほんとうにいま自分の目の前にある――そのことだけで、胸の奥があたたかく満たされていった。
***
ベッドの中、まだ身体の奥に余韻が残るなかで、ふたりは向き合ったまま、掛け布団に半分くるまっていた。飛鳥は誠の肩に額をのせていたけれど、ふいにくるりと寝返りを打って、背を向けた。その背中から、ぽそっと聞こえてくる。
「……あーあ、またやっちゃった」
誠は少し眉を上げて、ゆっくりと返す。
「なにが?」
振り返らないまま、飛鳥が返す。どこかふてくされたような、でもどこか甘えたような声だった。
「……嬉しそうに聞くなよー。バイトにさ、誠が来た時は、ここまでするつもりなかったの」
誠は、少し笑った。
「嫌だった?」
その言葉に、飛鳥はわずかに間を置いて、くるりとまた誠の方へ向き直る。
「……やじゃないし。……嬉しかったけど……」
「嬉しかったんだ?」
「……うるさいうるさいうるさい」
飛鳥はぷくっと頬を膨らませて、誠の胸をぽすんと叩くふりをした。ふわっとした静けさがふたりの間に流れる。やわらかな空気の中で、飛鳥が小さく呟いた。
「……なんでこんな人、好きになっちゃったのか……」
誠は少しだけ首を傾げるようにして聞く。
「好きなんですね?」
飛鳥は、ほんの一拍のあと、目をそらしながら――
「……好きだよ!」
なぜか怒ったように言って、布団に顔を半分うずめた。
「……ちょっと、優しくてえっち上手いだけなのに……」
その言葉に、誠は吹き出しそうになった。
「褒めてるの?けなしてるの?あと、“ちょっと”はどっちにかかりますか?」
「……えっちは凄く上手いと思う」
唐突に真顔でそう言ってしまい、自分で言っておいて、飛鳥が耳まで真っ赤になる。誠が口元に手をあてて苦笑すると、すぐさま飛鳥が慌てたように言い直した。
「ちがくて!違うの、今のなし!忘れて!」
「……何も言ってないよ?」
「だからそういうとこ!」
飛鳥がさらに顔を誠の胸に押しつける。誠はそんな彼女の髪をそっと撫でながら、口元をゆるめる。
「……七海がね、言ってたよ」
「ん?」
「誠は“目がいい”って」
誠は一瞬きょとんとしてから、笑った。
「視力の話?確かに裸眼でも1.0だけど」
「ちがうよ」
飛鳥が顔だけ持ち上げて睨むようにして言う。
「七海が言ってたのは……誠は、その人の本質?みたいなのをちゃんと見てくれるって」
その言葉に、誠は目を伏せて、すこしだけ照れたように笑った。
「そうかー……さすが七海だなー。分かってくれてるねー」
「……わかりやすく調子に乗るな」
飛鳥がジト目で言うと、誠は
「はいはい」
と言って、彼女の額にやわらかく唇を落とした。そのキスには、言葉よりも多くの“好き”が込められていた。
***
ふたりの指が、再びやわらかく絡まっていた。室内は静かで、遠くの道路を走る車の音だけが、まるで波のように窓の外から聞こえていた。飛鳥がふと、真っ直ぐに誠の方を見た。
「……じゃあさ、誠から見ると、私はどんなふうに見えるの?」
唐突な問いに、誠は少し考えこみ、ゆるやかに微笑んだ。
「飛鳥はね、優しくて、健気な女の子だよ」
「優しくはないよ……」
飛鳥が小さく首を振る。ふと、言葉の端に棘がなくなっているのを自分で感じて、少し居心地悪そうに眉を寄せた。誠は、そんな彼女を見つめながら、やわらかい声で続けた。
「優しいよ。人のために泣いて、人の幸せを一緒に喜べる。それって、ほんとに優しい人だと思う」
「……そんなことねーし」
ぽつりと返しながら、飛鳥の目の端が、なぜかほんのり潤んでいた。自分で否定しておきながら、その言葉が胸に刺さって、あたたかくて、どうしようもなかった。誠はそっと彼女の手を撫でながら、言葉を継ぐ。
「いつもトゲトゲしてるけどさ。でも中身は、柔らかいの知ってるから」
一度、言葉を切ってから、冗談めかして笑った。
「……言うなれば、ウニみたいなものかな」
「ウニかよ!」
飛鳥が反射的に声を上げ、掌でぺしっと胸を叩く。誠は
「ごめんごめん」
と笑って身を引き、しばしふたりの間に、くすぐったい空気が流れる。でも、それもすぐに落ち着いた。ほんの少しの沈黙のあと、飛鳥がぽつりと、声を落とす。
「……まことさ、ありがとね」
誠がゆっくり目を細めた。
「うん?」
「……わたしを見つけてくれて。たぶん、七海も、瑞希も……同じだと思う」
その言葉に、誠は息を止める。目をそらして、すこしだけ照れたように笑った。
「……そんな、大袈裟な」
「うん。大袈裟に言ってるの」
飛鳥は、少し頬をふくらませて見せる。
「……褒めてます?」
「褒めてるよ」
その声は、小さくて、でも真っ直ぐだった。ふたりはもう、言葉がなくても伝わる温度に包まれていた。でも、こうして言葉にすることが、きっとどこかで大切だった。静かな夜の真ん中で、ふたりは小さな“ありがとう”を交換し合っていた。
***
ベッドの上。どちらからともなく肩を寄せ、ふたりの身体はぴたりと重なっていた。飛鳥が少し顔をうつむかせて、それでもどこか覚悟したように口を開く。
「……あのさ」
「ん?」
「毎回ごちゃごちゃ言っちゃうけど……わたし、まことのこと、ちゃんと好きだから」
その言い方は、ふざけたようでもなく、甘ったれたようでもなく。ただまっすぐで、どこか泣きそうなほど素直だった。
「……うん」
誠も、それに応えるようにゆっくりと、確かに頷く。飛鳥は小さく息を吐き、けれど視線を逸らさずに続けた。
「好きじゃなかったら……“はじめて”とか、あげたりしないし……」
その言葉に、誠は少し目を丸くして――気まずそうに、苦笑した。
「……ありがとう。でも飛鳥、あの時さ……“経験あるし”みたいな素振りで……」
「わーっ、言うな!」
飛鳥は枕に顔を埋め、耳まで真っ赤に染めながらわたわたと誠の胸をぽすぽす叩く。誠は笑いながら、その手をそっと包んで止める。
「でも、ほんとに嬉しかったよ」
声が、すこしだけ低くなる。
「別に……初めてじゃなきゃ、ってことじゃない。そんなの、経験あっても構わないし。でもさ……飛鳥が自分のこと、信頼してくれたんだって……それが、嬉しかった」
飛鳥は、しばらく黙っていた。でもそのあと、ふいに顔を上げて、誠の目をまっすぐ見つめる。
「……信頼してるよ」
「……うん」
「……まことのこと、大好きだから」
それは、冗談めいた言い回しでも、照れ隠しでもなかった。真顔だった。ほんとうに言いたかった言葉を、やっと言葉にしたような、澄んだ声だった。潤んだ瞳が、やわらかな光に濡れていた。真っ白な肌。細い顎のライン。かすかに震える睫毛。ただ可愛いだけじゃない。ただ綺麗なだけでもない。心が、今ここにある。すべてを見せてくれている。その感激が、静かに押し寄せる。誠は、飛鳥の頬に手を添えながら、深く、優しく言った。
「……俺も、大好きだよ」
目と目が合っていた。声を出さなくても、もう全部伝わっていた。だから――ふたりは、ゆっくりとキスを交わした。浅く、長く、夜に包まれるように。心が、静かに、深く、結ばれていった。
***
静まり返った寝室の中で、ふたりの身体はまだぴたりと寄り添っていた。飛鳥が、ぽつりとつぶやく。
「……なんかさ、ずっと学生でいたい」
「モラトリアムを満喫したいってこと?」
「……そう言われてしまうと、そうなんだけど……」
飛鳥は苦笑して、指先で掛け布団の端をいじりながら、言葉を続けた。
「でもさ、学生の間は、こんな風でもいい気がしちゃうんだよ」
「……うん」
「今はさ、しんどいこともあるけど、でも楽しさがあって、このままでいいかなって思っちゃうの。でも社会人になるなら、さすがに……決めなきゃいけない気がして」
「……うん」
「うんしか言ってないじゃん!口数が急に減ったよ!」
誠が苦笑いしながら、背筋を伸ばしてみせた。
「はい」
「はいじゃないよ。ぜんぶまことがわるい」
「それはもう……おっしゃる通りです」
飛鳥は、あきれたようにため息をついて、でもすこし笑っていた。
「……あなたが優柔不断でフラフラしてるからさあ……でも、そのおかげで、こうしていられるのかな?」
「そういう方向で……ひとつ……」
「ひとつじゃないよ。反省しなよ」
「はい……」
ふたりの間に、くすっとした笑い声が流れる。でも、そのあとの飛鳥の言葉は、急にしんみりしていた。
「……でもさ。誰か選ばれるのって、やっぱりしんどいよ」
誠は、言葉を探すように飛鳥を見つめた。
「瑞希も七海も好きだけど、……でも、自分じゃないんだな、って思うよ。絶対。あー……しんどい」
「……しんどいですよね……」
「こっちのセリフだよ……」
声は小さくて、でもはっきりしていた。部屋の空気が、少しだけ冷たくなったように感じた。飛鳥は誠の胸に顔を寄せて、そっと目を閉じる。
「……ずっとこのまま、ってわけにはいかないかな……」
しばらくの沈黙のあと、誠がやわらかく、苦く、息を吐くように応えた。
「……うん……」
***
ふたりは、向き合ったまま、そっと手をつないでいた。ぬくもりだけが、言葉の代わりに伝わっていく。しばらく沈黙のあと、飛鳥がぽつりとつぶやいた。
「……瑞希も七海も、いい子だからさ……」
声がかすかに震えていた。
「……泣かしたら、許さないから」
誠は、静かに頷いた。
「……それはもう……」
でも、その言い方はどこか本気で、ちゃんと“わかってる”という空気があった。飛鳥は、すこし間を置いてから、視線を誠に戻す。
「……わたしのことも、大切にして」
それは命令でも、お願いでもなく――ただの、願いのかたちをした
「愛してる」
だった。誠は頷く。
「……うん、大切にする」
飛鳥は、安心したような顔をして、それでも、まだ言いたりないとばかりに続けた。
「……大好きなんだから……泣かせちゃダメだよ?」
「……うん……」
飛鳥は、小さく眉を寄せた。
「……相槌だけじゃん……」
誠は何も言わずに、ただ飛鳥の手を、指の腹でそっと撫でた。その仕草が、まるで言葉の代わりみたいで――飛鳥はもう、それ以上何も言わなかった。そして、ふと声のトーンを変えて、囁くように言った。
「……朝まで、一緒にいてね?」
その目は、涙をこぼす直前のように潤んでいた。誠は、ゆっくりと顔を寄せて、飛鳥の額に軽くキスを落とす。そして、唇と唇を、やわらかく重ねた。ごく浅く、だけど深く伝わるキス。それから、ふたりはゆっくりと抱き合った。身体の熱と、心の静けさだけを感じながら、言葉もなく、ただ一緒にいることで、すべてが伝わっていくような夜。そのまま――ふたりは、そっと夢の中へと沈んでいった。
***
――気づけば、光の中にいた。白くて広い式場。空はやわらかく晴れ、どこか外国のような建物の影が、床に長く落ちていた。鐘の音が、遠くで鳴っていた。飛鳥はその場に立っていた。自分の服装は、やさしい色のワンピース。ヒールの音が控えめに響き、周囲には笑顔と拍手があふれている。視線の先には、純白のドレスをまとった新婦がいた。よく知っている顔――でも、誰だったのかは、はっきりしない。彼女はとても綺麗だった。髪も、肌も、笑顔も、祝福されることを宿していた。飛鳥は、その姿を見て、ふいにまぶしさに目を細めた。喜びと、ほんの少しだけ、胸に刺さるような感情。それが、なんなのかは分からない。ただ、拍手を送るはずの手が、自分の膝の前でそっと固まったままだった。俯いた視線に、光が揺れていた。そのとき。――す、と。隣から、指先が伸びてくる。自分の手を、やさしく握る手。あたたかくて、指が長くて、まるでそのまま心の奥を包んでくれるような――横を見た。その子は、笑っていた。やわらかな眼差し。声は聞こえない。でも、目だけが語っていた。「ここにいるよ」と。飛鳥の胸の奥が、ゆっくりと満たされていく。寂しさも、不安も、その手のひらから溶けていった。もう一度、前を向いた。新婦は、まだ笑っていた。その後ろに揺れる花たちも、風も、すべてがきらきらと祝福に満ちていた。飛鳥は、そっと笑った。そして心の中で、言葉にしないまま、その花嫁に祝福を送った。――おめでとう。その言葉が、空に溶けていくころ、夢の光も、ゆるやかに遠ざかっていった。
***
白い光が、どこまでも、どこまでも広がっていた。祝福の音。柔らかく響く拍手。揺れる花々。眩しいほどに微笑む、新婦の横顔。飛鳥は、その光の中に、確かに立っていた。でも、その風景が、少しずつ遠ざかっていくのが分かった。あんなに鮮明だったはずの色が、ぼやけて、薄れて、まるで霧のなかに沈んでいくように。誰かの手の温もり――その感触すら、やわらかな夢の膜の向こうに溶けていく。呼びかけようとしても、声は出なかった。まぶしい。音が遠い。身体が、重い。目の奥に残る光は、白ではなく、今度はほんのりと金色を帯びていた。布団の重み。シーツの肌触り。
(……夢……だったんだ)
夢の中で確かに抱いた感情も、少しずつ言葉にならなくなっていく。祝福と、ちいさな寂しさと、誰かに手を握ってもらえた、あたたかな心。すべてが、指の隙間からこぼれていくように、記憶の奥に沈んでいった。そのかわりに、ふわりと鼻先をくすぐる、やさしい香ばしさ。飛鳥は、まぶたの裏を照らすやわらかな朝の光の中、ゆっくりと目を開けた。
***
飛鳥は、寝返りを打ちながら、ゆっくりまぶたを開ける。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中を淡く照らしていた。甘すぎず、でもどこか懐かしい、焼けたパンの香り。ふと見ると、机の上に、ラップのかかったプレート。その横に、折りたたまれた小さな紙。枕元のスマホには、通知も、バイブもなかった。身体を起こし、まだぼんやりしたまま机へと歩いていく。紙を開くと、誠の字だった。どこか丸くて、やや雑なペン字。けれど、ちゃんと彼らしい文字だった。
「スマホだと起こしちゃうかもだから、これで。朝ごはん作ったから、良かったら食べてね。一限あるから先に行ってるね」
読み終えて、飛鳥は、ふと静かに息を吐いた。胸の奥に、しみじみとしたあたたかさがじんわり広がっていく。同時に――ちょっとだけ、寂しさも。隣にあったはずのぬくもりは、もうない。でも、部屋の空気に、誠の気配がちゃんと残っている。ふと、紙を裏返してみた。そこに、小さく、照れくさそうな字で書いてあった。
「大好きだよ」
飛鳥は、その文字を見て――思わず、ふっと微笑んだ。
「……字、きたねーし……」
でも、その目は、やわらかく潤んでいた。照明のいらない朝。静かだけど、ちゃんと誰かが自分のことを思ってくれたとわかる朝だった。




