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帰宅した蒼大は、リビングの片隅に置かれた悠人と芽生の仏壇から目を背けるようにして、二階へと上がった。自室に入って鞄を下ろしたが、制服も脱がないまま、再び一階へと降りる。
食卓の上には、飲みかけの缶ビールと開封された薬袋が放置されていた。母が服用している抗うつ薬だ。蒼大がそれを拾ってゴミ箱に捨てると同時に、玄関の開く音がした。母が帰ってきたのだ。
リビングに入ってきた母は、蒼大の方を見ようともせず、まっすぐソファに身を沈めた。そして目を閉じたまま、まるで煙草の煙でも吐き出すかのように、天井に向けて細長い溜息を漏らした。その吐息に肌寒さすら感じ、蒼大は微かに身震いした。
「今日は病院の日だったから、ご飯は作れなかった」母が言った。「何か出前でも取って食べてね」
母が財布からカードを取り出した。蒼大は母のそばに歩み寄り、ほのかに漂う酒の匂いを感じながらカードを受け取った。そのまま立ち去ろうとしたが、ふと足を止めて訊ねた。
「……母さんは? まだ食べてないなら、久しぶりに二人で外に食べに行かない?」
「……」
母はようやく顔を上げ、蒼大を見た。その目は丸く、少し驚いたようにも見えた。だがそれも束の間、母の瞳からはすぐに光が失われた。
「ごめん、食べてきたの。それに、今はちょっと疲れてるから……また今度ね」
「……うん。わかった」
蒼大は素直に頷き、そのまま家を出た。家の中で一人食べる気にはなれず、かといって外食をする気分でもなかった。空腹は感じていたが、何かを胃に入れたいという欲求が湧かない。
蒼大は結局、導かれるように『兄妹の部屋』へ向かい、ノックをしてドアを開けた。
中に入ると、悠人と芽生はすでに揃っていた。蒼大が二時の席に腰を下ろすと、悠人がすぐに切り出した。
「昨日、お前たちが帰った後に母さんが言ったんだ。『うちに泊まってもいい』って。あの子たちにそう伝えてくれってさ。もう気づいていると思うけど、母さんはお前たちのことをかなり気に入ったみたいなんだ」
蒼大はぶっきらぼうに呟いた。「……順調だね」
「だから、まずは母さんの心を掴むところから始めよう。父さんが帰ってきたら父さんとも親しくなって、それから本当のことを話すんだ。最終的には、元の五人家族の形を取り戻す。そうなれば、まあ、身分証明なんかの細かい問題は残るだろうけど、これからもずっと三人で一緒にいられる」
「でも……」蒼大は不安を口にした。「そんなにうまくいくかな」
「もちろん、簡単じゃないのはわかっている。けど、そうなるように頑張るしかない。親の承認を得られなければ、お前たちはこの世界で孤児になってしまうからな」
蒼大は芽生の方をちらりと見た。彼女もまた、自分と同じように影のある表情を浮かべていた。
「大丈夫だ」悠人が励ますように明るい声を出した。「父さんも母さんと同じように、お前たちのことを気に入ってくれるはずだよ」
「……昨日は混乱していて言えなかったんだけど」
不意に芽生が口を開いた。
「私がいなくなったら、私の方の両親は、もっと苦しむことになるよね。最後に残された子供まで、失うことになるんだから」
蒼大は小さく頷いた。それは彼もずっと、胸の奥で考えていたことだった。
「実は、それが一番の気がかりなの。残される人たちのことを思うと……」
芽生が言葉を濁し、重苦しい沈黙が小屋を支配した。
やがて、悠人が静かに言った。
「お前たちの喪失感がどれほど大きなものか、俺には想像もつかない。俺は失うものがない立場だからな。……だから、俺の言葉は偽善に聞こえるかもしれない。それでも、俺が言いたいのは――」
悠人の声は、慎重でありながら、確固たる決意に満ちていた。
「誰かを傷つけるのを、恐れないでほしい。ひたすら俺たち三人だけを考えよう。徹底的に」
悠人の言葉に、蒼大はソファに座り込んでいた自分の世界の母を思い浮かべた。だが、すぐにそれを振り払い、どこか吹っ切れたような口調で応じた。
「……ああ。未練はないよ。兄ちゃんの言う通りにする」
ふと、親友である蓮の顔が脳裏をよぎったが、それも努めて無視した。
「……わかった」芽生も深く頷いた。「私たち三人。それだけを考える」
しばらくの沈黙の後、悠人が現実的な課題を口にした。
「どちらにせよ、二週間以内にはこちら側に移り住まなきゃならない。……さすがに今日から、というのは無理があるよな?」
「うん、それは無理だ」蒼大が即答する。「整理しなきゃいけないことが山ほどある」
「私も。まだ心の準備も全然できてないし」
悠人はしばし考え込み、代案を出した。
「じゃあ、当分の間は放課後に限って、こちらの家で過ごすことにしよう。夜遅くなったら『兄妹の部屋で寝る』と言って、それぞれの次元に帰るんだ。どう?」
蒼大も芽生も、異論はなかった。
「よし、じゃあ行こうか。母さんが家で待ってる」
悠人が立ち上がり、小屋のドアを開けた。彼が先導し、続いて蒼大と芽生が外へ出る。
庭に足を踏み入れた瞬間、蒼大は思わず息を呑んだ。一瞬、世界がぐらりと揺れるような目眩に襲われたが、それはすぐに収まった。
「……どうだ?」悠人が緊張した面持ちで尋ねる。「大丈夫か?」
「……ああ。なんともない」
「私も。平気」
三人は庭を横切り、玄関へと向かった。そのわずかな間、蒼大は辺りを見渡した。家の外観、空の色、肌に触れる空気の質感、そして遠くから聞こえてくる日常の喧騒。そのすべてが、蒼大の知る自分の世界と寸分違わなかった。あまりに違和感がなさすぎて、かえって夢の中にいるような錯覚に陥る。
ドアの前で、悠人が足を止めた。
「さっきも言ったけど、母さんはもうお前たちのことを気に入ってる。だから、普通に大人に接する感じで振る舞えばいい。それから、もし家族や学校のこととか、身の上話を訊かれたら、二人は黙っていろ。全部俺が答えるから。いいな?」
芽生が頷き、大きく深呼吸をした。
「面接でもないのに、なんだか緊張する……」
「びびることはないよ」蒼大が自分に言い聞かせるように言った。「結局、毎日会ってる母さんと同じ人なんだから」
「その通りだ。……よし、入るぞ」
悠人が玄関のドアを開け、三人は家の中へと足を踏み入れた。




