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ドアを閉めた瞬間、食欲をそそる香りがふわりと鼻をくすぐった。
「……カレーだ」
蒼大が呟くと、芽生も鼻をひくつかせて言った。
「久しぶり……家の中で嗅ぐ、カレーの匂い」
三人は靴を脱ぎ、リビングへと上がった。母はキッチンにいた。真剣な表情で味見をしていたが、三人の姿を認めると、パッと明るい笑みを浮かべた。
「あら、お帰りなさい」
蒼大と芽生は、反射的にぺこりと会釈した。
「あの……この度は、本当にありがとうございます」
蒼大に続き、芽生も言葉を重ねる。
「行くところがなくて困っていたので……本当に助かりました。ありがとうございます」
「いいのよ、気にしないで」
母が食卓を指差して手招きした。
「まだ食べてないんでしょう? 座って待ってて。カレー、すぐ準備してあげるから」
蒼大は食卓へ向かおうとして、リビングの片隅に置かれた仏壇に目が釘付けになった。この家のリビングにも、当然のようにそれは置かれていた。配置も、何もかもが自分の家と同じ。蒼大は吸い寄せられるようにそちらへ歩み寄りそうになったが、踏みとどまった。なぜか、これ以上近づく勇気が出なかった。芽生も同じだったのか、遠目から仏壇を見つめるだけで、それ以上は動こうとしなかった。
「さあ、座って座って」
母が再び促すと、蒼大と芽生は並んで食卓についた。一方、悠人は座る前にテーブルをじっと見下ろし、母に問いかけた。
「……なんで、三人前しかないんだ?」
「あ、私はいいの。三人でゆっくり食べて」
「なんでだよ。母さんもご飯まだだろ? 一緒に食べよう?」
「いいわよ。私がいると、ほら、あの子たちも気まずいかもしれないし……」
「そ、そんなことないです!」
芽生が慌てて手を振った。
「全然気まずくなんてありませんから。一緒にいかがですか?」
「そうだよ。母さんがそんなふうに遠慮する方が、かえって気まずい。ほら、一緒に食べよう」
悠人は有無を言わさずキッチンへ行き、もう一人分のカレーを運んできて空いている席に置いた。
母はしばらくもじもじとしていたが、やがて少し照れたような、ぎこちない笑みを浮かべて言った。
「……じゃあ、そうさせてもらおうかしら」
どこか照れくさそうにしている彼女の様子に、蒼大は少し呆れてしまった。思わず鼻で笑ってしまったが、幸い誰にも気づかれずに済んだようだ。ほどなくして芽生の向かいに悠人が、蒼大の向かいに母が腰を下ろした。
「久しぶりに作ったから、口に合うかどうか……」
母が少し不安げに微笑む。
「家出をしてきたとのことだから、あまり長く引き止めるのは難しいかもしれないけれど。とにかく、落ち着くまでは気楽に過ごしていいからね」
「ご迷惑をおかけしてすみません」芽生が頭を下げた。「ありがたくいただきます」
「ええ、たくさんあるから。足りなかったら遠慮なく言ってね」
「じゃあ、いただきます」
悠人が号令をかけるように言うと、四人は手を合わせ、カレーを口に運び始めた。
しばらくの間、静寂の中に食器の触れ合う音だけが響いた。当然ながら、悠人の世界の母も、見た目は蒼大の知る母と変わりはなかった。雰囲気や仕草はもちろん、家着や髪型までそっくりだ。ただ、一点だけ決定的に違うものがあるとすれば、それは「目」だった。
「なんですか?」
蒼大が少しぶっきらぼうに尋ねた。母があまりに熱心に自分を見つめていたからだ。
「僕の顔に、何か付いてますか?」
「あっ、ごめんなさい、そういうわけじゃなくて……」
母は慌てて視線を泳がせた。
「実は、すごく似ていて」
「誰にですか?」
「悠人から聞いたかどうかわからないけれど、悠人には弟と妹がいたの。……君たちが、あの子たちにそっくりで」
食器の音がふっと止まり、またすぐに再開した。
「それで、」母が話題を変えるように尋ねた。「今は、学校はどうしているの?」
「一応、通ってはいるよ」悠人が代わりに答える。「学校側はまだ家出のことは知らないし、友達にも伏せているらしいんだ」
「ご両親は? 学校に連絡したり、訪ねてきたりはしなかったの?」
「この子たちの親は……」
「はい」
悠人の言葉を遮り、蒼大が割り込んだ。
「両親は、別に僕らに興味なんてないんですよ。話しかけてみても、いつも死んだ魚みたいな目をしてるし」
「あ……そう、なのね」
母は少し戸惑ったように頷いた。悠人からの刺すような視線を感じたが、蒼大はそれを無視して、ひたすらカレーを口に運んだ。
カレーは普通に美味しかった。空腹だったこともあり、蒼大はあっという間に一杯目を空にし、二杯目をお代わりした。行儀が悪いと思われかねないほどの勢いだったが、母はそんな蒼大をただ優しい目で見つめていた。
「ところで、」蒼大が言った。「三人は、随分仲が良かったんですね。庭に小屋まで作ってもらえるなんて」
「ああ、『兄妹の部屋』ね」母が答える。「ええ、三人で家中をしょっちゅう駆け回っていたから。もっと自由に遊べる場所を作ってあげようと思ってね」
「素敵ですね」芽生が愛想よく応じる。「いいアイデアだと思います」
「ええ。あの子たちも気に入ってくれて、三人でよく中に閉じこもっていたわ。たまに喧嘩もしていたけれど、まあ、どこにでもある仲の良い三兄妹だった」
「あの二人は、どうして死んだんですか?」
蒼大が放り投げるように訊くと、悠人と芽生が同時に彼を振り向いた。母の表情もわずかに翳ったが、すぐに答えが返ってきた。
「車の事故で。ある日、あの子たちが私と夫に内緒で、遊園地に遊びに行ったの。お小遣いを余分にあげすぎていたせいか、タクシーまで使ってね。……まあ、そこまでは良かったんだけれど。よりによって、そのタクシーが事故に遭ってしまって……」
母が言葉を濁すと、蒼大は頬を掻きながら、バツが悪そうに言った。
「……すみません。余計なことを聞きました」
「いいのよ。もう七年も前のことだし。……もう、平気だから」
「……」
蒼大は、母の顔を盗み見た。その言葉通り、母は本当に「平気」そうに見えた。いつも生気を失っていた自分の世界の母とは対照的に、今の彼女の瞳には生き生きとした光が宿っている。それを見て、蒼大は言いようのない動揺を覚えた。
「……本当に?」
蒼大は訊ねた。意地悪をしたいわけではなかった。ただ、純粋に沸き起こる好奇心を抑えきれなかった。
「本当に、なんともないんですか?」




