7
あのとき、あんなふうに拒絶さえしなければ。
蒼大は後頭部の髪を掴まれながら、ぼんやりと考えた。些細でありながら、古いシミのように時折脳裏をかすめる後悔だ。
「おい、佐々木ちゃんよぉ」
ヘラヘラとした声が、蒼大の意識を昼休みの教室へと引き戻した。
男は掴んでいた蒼大の頭を乱暴に突き放すと、今度は親しげにその場所を撫で回した。そして、蒼大の机に置かれていた一冊のノートを、断りもなく取り上げた。
「まだこんなもん描いてんのか」
主犯格の男は、連れの二人と一緒に蒼大の絵を見てせせら笑うと、ノートを机に放り投げて言い放った。
「パン、買ってこい」
「……今日はちょっと、手持ちがないんだけど」
蒼大は、できるだけ穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「昨日、画材を買ったらお小遣いがなくなっちゃってさ。お金さえくれれば、すぐに買ってきてあげるよ」
そう言うと、男が再び蒼大の後頭部をわしづかみにした。さっきよりも力がこもっていて、頭皮に鋭い痛みが走る。
「じゃあ、周りの誰かに借りてくりゃいいだろ」
「……ああ、そうか」
蒼大は、純粋に納得して頷いた。少し考えればすぐに思いつく解決策だったのに、自分の機転の利かなさに、我ながらがっかりするほどだった。
「わかった。そうする」
髪を掴んでいた手が離れると、蒼大はすぐに席を立った。金を貸してくれそうな相手を探して教室を見渡すが、誰もが関わり合いを避けるように目を伏せ、蒼大の窮状に手を差し伸べる者など一人もいなかった。
困ったな、隣のクラスにでも行ってみようか。そう思って教室を出ようとしたところで、中に入ろうとしていた誰かと鉢合わせした。
蓮だった。
百八十センチを優に超える長身の彼を、蒼大は少し見上げる形になる。蓮は教室の入り口で佇んだまま、静かな、だがどこか険のある目で蒼大を見下ろしていた。
「ちょうどよかった。蓮、お金貸してくれないか?」
平然を装って声をかけたが、内心では少しばかり不安だった。この体たらくを見れば、さすがの蓮も愛想を尽かすのではないか、と。
「嫌だ」
答えは明快だった。軽蔑の色こそなかったが、その顔には、分別のない子供を諌める親のような、断固とした拒絶が表れていた。
「うわ、また来た。白馬の王子様のお出ましだ」
後ろから男たちの嘲笑が飛ぶ。蓮の表情が、一瞬で攻撃的なものに変わった。
「蒼大に二度とこんなことするなって、言ったよな」
蓮は迷いのない足取りで男たちに歩み寄った。男たちの顔から余裕が消え、蓮が近づくにつれて、その表情はみるみる強張っていく。彼らの目の前に着くや否や、蓮は主犯格の男を容赦なく蹴り飛ばした。それが合図となり、教室は一気に怒号の渦に包まれた。
「……蓮!」
驚いた蒼大は慌てて駆け寄ったが、机や椅子がなぎ倒されるほどの激しい乱闘に、割り込む隙などなかった。
蓮は一人で三人を相手にしていながら、引くどころか圧倒していた。格闘技でも嗜んでいるのか、しがみつこうとする男たちの攻撃を軽々とかわし、顔面に拳を叩き込み、腹部に鋭い膝蹴りを食らわせる。
たった一人の友人がこれほど喧嘩慣れしているとは露知らず、蒼大はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、一人の唇から鮮血が飛ぶのを見て、慌てて蓮の体に抱きついて制止した。その直後、騒ぎを聞きつけた教師たちが教室に踏み込み、喧嘩はようやく収束した。
「――めっちゃ絞られた」
放課後の帰り道、蓮が苦々しく口を開いた。
「最悪、停学になるかもしれないって」
「なんであんなことしたんだよ!」
蒼大は声を荒らげた。怒るという行為は久しぶりで、どこかぎこちなかったが、申し訳なさのあまり、怒鳴らずにはいられなかった。
「なんで僕みたいな奴のために……。とんでもないやつだとは思ってたけど、これほどだなんて。頼むから、もう無茶はしないでくれ」
「だったら、俺に無茶をさせないでくれよ」
蓮も負けじと言い返した。
「一体、なんでいつも馬鹿みたいにやられっぱなしなんだ? あんな下らない連中に。嫌なら嫌だって、はっきり言えよ。お前が断らないから、いつまで経っても舐められるんだ」
「それでいいんだ。僕は構わない。僕が望んでやってることなんだから」
「どういう意味だよ。いじめられるのが趣味だってのか?」
「……いや、そういうんじゃなくて。頼み事を断るのが、ただ嫌なだけ」
「頼み事……?」
蓮が足を止め、蒼大も立ち止まらざるを得なかった。蓮は眉をひそめ、呆れたような笑みを浮かべて言った。
「あれのどこが頼み事なんだよ。ただの強要だろ」
「強要でもなんでも、」蒼大は譲らなかった。「僕にできることなら、叶えてあげたい。その方がお互い楽だし」
蓮は何度も首を横に振ると、重いため息をついて再び歩き出した。
「冗談なのか本気なのか……」蓮が呆れたように言った。「そもそもさ、お前を見てると危なっかしくて目が離せないんだよ。そんな弱々しいメンタルで、これから先どうやって生きていくつもりなんだ?」
蒼大は、蓮の隣を歩きながらぼそりと返した。
「もちろん、直さなきゃいけないとは自分でも思ってる。でも……」
結局、言葉を濁した彼に、蓮がため息を吐いた。
「まあ、自覚があるだけマシか」
それからしばらく、二人は黙って歩き続けた。蒼大はふと、蓮の横顔を盗み見た。喧嘩では優勢だったとはいえ、完全に無傷とはいかなかったらしい。頬に薄っすらと青あざができていた。「ごめん」という言葉が喉まで出かかったが、それをぐっと飲み込み、代わりに別の言葉を口にした。
「……いつも、ありがとな」
蓮は照れくさそうに笑うと、蒼大の背中をバシバシと叩いた。
「俺たちはビジネスパートナーだろ! 漫研でお前の絵を初めて見たときの衝撃、今でも鮮明に覚えてるんだぜ。こいつと一緒に描きたい!ってな」
「……ビジネスパートナー、か」
蒼大はゆっくりと頷いた。友達というどこか曖昧な言葉よりも、そちらの方が今の彼にはよほど心地よく響いた。
「そう。だからさ、」蓮はこれ見よがしに自分の胸を叩いて見せた。「学校にいる間は、俺がお前を守ってやる。あくまでお前のその『描く手』を守るためにな。わかったか?」
蒼大は小さく笑みをこぼした。「……わかったよ」
「そういえば、応募したやつ、どうなってるかな……」
蓮はスマートフォンを取り出して操作し、やがて力なく呟いた。
「何の連絡もないな。お前の方は?」
蒼大も確認したが、画面には何の通知もなかった。彼は首を横に振った。
「僕も。……やっぱり落ちたのかな」
「諦めるのはまだ早いって。正式発表まであと三週間はあるんだ。もう少し待ってみようぜ」
蒼大は出版社のサイトの掲示板をスクロールしながら、さりげなく言った。
「もし当選したらさ、賞金は全部お前が持ってっていいよ」
「は? 何言ってんだよ。山分けにするって決めただろ」
「うん、そうなんだけど。……もし、僕が途中でいなくなったりしたら困るだろ?」
「……はあ?」
蓮が再び足を止め、先に行こうとする蒼大を強引に引き止めた。その顔は真剣そのものだ。
「いきなり不吉なこと言うなよ。どうしたんだ?」
「いや、だから……もしもの話だよ」
自分で口にしながらも、蒼大は動揺して言葉を濁した。
「例えばさ、突然事故に遭ったりして、死んじゃうことだってあるかもしれない。先のことは誰にもわからないから……」
「だから、なんでいきなりそんな物騒な想像をするわけ?疲れるやつだな、全く」
「……そうかもな」
二人はまた並んで歩き始めた。
「余計なことは考えるな」蓮が釘を刺すように言った。「そんな心配をする暇があるなら、次のネタでも考えてくれ。俺、いい案が浮かばなくて詰まってんだから」
「……次のネタ、か」蒼大はふと空を仰いだ。「実はさ、SF系のネタなら一つある」
「SF?」蓮が興味深げに身を乗り出した。「聞かせて」
蒼大は腕を組み、しばらく考え込んでから呟いた。「……お前になら、いいかな」
「ん?」
「こんな設定はどう?パラレルワールドを基にした物語なんだけど――」
それから、蒼大は語り始めた。七年前の事故に始まり、自分たちの身に起きた不可思議な出来事を。蓮は途中で口を挟むことなく、ただ黙って聞き入っていた。昨日『兄妹の部屋』で、悠人の母親と鉢合わせたことまで、蒼大は包み隠さず打ち明けた。
蓮はしばらく目を閉じ、腕を組んで考え込んでいたが、やがて蒼大に問いかけた。
「それで? 結末はどうなるんだ?」
「それは……わからない」蒼大は表現を選んで答えた。「そこまでは、まだ考えてない」
「そうか……」
蓮は微かに首を傾げた。
「悪くないとは思うけど……正直、設定がちょっとありきたりというか、ご都合主義な感じがするな」
「……だよね」蒼大は小さく頷いた。「やっぱり、信じがたいよね」
「いや、漫画のネタなんだからリアリティなんて二の次でいいけどさ。……でも、それってお前の実体験がベースだろ? 小さい頃に兄さんと妹さんを事故で亡くしたっていう」
「うん。自分の経験をネタに盛り込むのは、よくあることだから」
「そうは言っても……」
蓮は目を細めた。
「蒼大、今日は本当におかしいぞ。正確に言えば昨日、父親からの電話に出てから何か変わった。一体昨日、何があったんだ? まさか……」
細められていた蓮の目が、今度はカッと見開かれた。
「まさかさっきの話、ネタじゃなくて本当のことだったのか?」
蒼大は思わず唾を飲み込んだ。
「……信じるの?」
蓮は目を見開いたまま、地を這うような低い声で言った。
「そんなわけないだろ」
「そ、そうだよな。やっぱり……」
蒼大は内心で胸をなで下ろし、足を止めた。二人の目的地である最寄り駅に到着したからだ。
蓮は改札に向かう前に振り返った。
「とにかく、素材としては悪くなかった。家に帰って練ってみるよ。うまく膨らませれば化けるかもしれない」
「……それは、よかった」
「じゃあな、また明日」
「うん、また明日」
蒼大は遠ざかっていく蓮の背中をしばらく見送った後、重い足取りで家へと向かった。




