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悠人は反射的に叫びそうになったが、喉の奥で声を飲み込んだ。今この瞬間の「母」が、三人のうち誰の次元の母なのか確信が持てず、下手に声をかけることができなかったのだ。他の二人も同様に、ただ母を凝視したまま動けない。張り詰めた静寂が『兄妹の部屋』を支配した。
しばらくして、開け放たれたドアの前に立つ母が、悠人の目を見て問いかけた。
「……その二人は、誰?」
悠人は、それが自分への問いであることを慎重に確認し、わずかに間を置いてから答えた。
「あ、ああ……」
自然と掠れた声が出た。
「同じ部活の後輩たち。……家出したっていうから、連れてきたんだよ」
蒼大と芽生が同時に悠人を睨みつけたが、悠人は構わず言葉を繋いだ。
「二人は兄妹なんだけど、今ちょっと家庭の事情が複雑でさ。家を飛び出してきたんだけど、頼れる親戚も友達もいないらしくて。それで、ちょうどこの小屋が空いているから、連れてきた」
「……」
「勝手に連れてきて悪いけど、でも、放っておけなくて……母さん?」
呼んでみたが、返事はなかった。母は一人だけ時間の止まった空間にいるかのように、ただ一心不乱に蒼大と芽生の姿を見つめ続けている。
「……母さん、聞いてる?」
もう一度呼びかけると、ようやく母の凍りついた表情にひびが入った。
「え?……ああ、ごめんなさい。なんて言ったの? 私は、荷物の整理を手伝おうと思って入ってみたんだけど……。あ、余計なことだったかしら」
母の様子が少なからず動揺しているのを見て、悠人は直感的に安堵した。
「俺の親しい後輩たちなんだ。行き場がないって言うから連れてきちゃったけど、やっぱり、よくないよな。今すぐ出て行ってもらうから……」
悠人が立ち上がろうとすると、母は手を挙げてそれを制した。
「いいわよ、追い出さなくても。もう遅いし、行くところがないんでしょう? ご両親には連絡したの?」
「だから、その親のことで揉めて出てきたんだって」
「ああ……そうなのね。じゃあ、仕方ないわ。今夜はここに泊まって行きなさい」
迷いのないその態度に、悠人の方が戸惑ってしまう。
「……いいの?」
「ええ。もう夜の十時よ。こんな時間に外へ出すなんて危ないじゃない」
そう答える母の顔には、懸念よりも、どこか一種の感激に近い光が宿っていた。
「あ、そうだわ。あなたたち、夕飯は?」
問いかけられた二人は返事もできず、ただ横目で互いを見合わせた。不自然な空気が流れる前に、悠人が先回りして答える。
「いや、二人ともまだなんだ。悪いけど母さん、何かお菓子とか……軽くつまめるものがあればもらえるかな」
「お菓子? だめよ、ちゃんと食べなきゃ。準備してあげるから、家に入りなさい」
「いいえ! だ、大丈夫ですよ!」芽生がどもりながら叫んだ。「そこまでしていただくのは、その、申し訳ないですし……」
「そ、そうです」蒼大も言葉を重ねる。「ここにいさせてもらえるだけで、十分すぎるくらいですから。本当にありがとうございます」
「……そう? じゃあ、ここに何か持ってきてあげるから。ちょっと待っててね。……あ、それと」
母は小屋を出ようとしてふと足を止め、蒼大と芽生を振り返った。
「あなたたち、お名前は?」
「橋本」
悠人が即答した。聞かれるだろうと予測して、とっさにひねり出した偽名だった。悠人は蒼大と芽生を指差して言った。
「橋本ハルと、アキ」
悠人が「合わせろ」と言わんばかりに二人を凝視すると、二人は引きつったような笑顔で大きく頷いた。
母が『兄妹の部屋』を出て、ドアが閉まった瞬間に二人の叱責が飛んできた。
「ちょっと、なんで鍵をかけなかったのよ!」芽生が声を荒らげる。「心臓が止まるかと思った!」
「しかも家出ってなんだよ」蒼大も詰め寄る。「『遊びに来た』くらいでよかっただろ。なんであんなヘビーな設定を盛るんだよ」
「それに、あの名前は何? ハル?アキ?」
「僕の知り合いに橋本がいるって知ってるだろ。ややこしいんだよ」
悠人は目を閉じ、腕を組んだまま黙って二人の言い分を聞いていた。嵐が止むのを待ってから、ゆっくりと目を開ける。
「鍵は、」悠人は淡々と説明を始めた。「今日に限ったことじゃない。これまで一度もかけたことはなかっただろ。あの事故以来、父さんも母さんもここに寄りついたことなんて一度もなかったんだから。……それから、家出という設定にしたのは、わざとだ」
「わざと?」
「どうして?」
「どのみち二人がこちらへ来るなら、まずは寝床を確保しなきゃならない。うちなら好都合だろ? 家出ということにすれば、いちいち嘘を吐く手間も省ける」
「……無茶苦茶だよ」
「そうよ。もしお母さんに断られたらどうするつもりだったの?」
「結果的に断られなかった。それに、もし断られたとしてもプランBは用意していたから、なんとかなったはず」
「…………」
「ほかに文句はあるか? あるなら早くしろ。もうすぐ母さんが戻ってくる」
いつの間にか、二人は毒気を抜かれた子犬のような顔になって、大人しく首を横に振った。
「とりあえず、今日は帰りな。母さんにはうまく伝えておくから。明日また来て、少しずつ馴染んでいくんだ。いいな?」
二人がまだ躊躇しているのを見て、悠人は組んでいた腕を解き、静かに問いかけた。
「引き返すなら今しかない。……こちらへ来るか、それともやめるか」
わずかな沈黙の後、蒼大が言った。「……行くよ」
「私も」芽生も続いた。
「じゃあ、決まりだね」
三人は、決戦を前にした戦士のように深く頷き合った。
「さあ、母さんが来る前に早く行け」
蒼大が先に出てドアを閉め、続いて芽生も『兄妹の部屋』を後にした。
二人の気配が消えて間もなく、母が戻ってきた。パンと牛乳を載せたトレイを両手に抱え、不思議そうに悠人に訊ねる。
「あら、二人は?」
「帰ったよ」
「どうして?」
「一応引き止めたんだけど、やっぱり迷惑をかけたくないって」
「こんな時間に……」
母は心底残念そうな声を漏らした。「無事に着いたか、後で連絡してあげてね」
「うん」
「……あのね、悠人」
母は何かをためらうように、少し間を置いてから言葉を継いだ。
「あの子たち、うちに泊まってもいいって伝えてあげて。どうしても行き場がないのなら。お父さんには秘密にしておくから。どうせ出張中だし、帰ってくるまでまだ時間もあるし……とりあえず、その間だけでもね」
悠人は返事も忘れ、しばらく母の顔を見つめていた。母がこんなふうに何かを熱心に語る姿を見るのは、あまりに久しぶりで、まるで知らない誰かを見ているような気分だった。
「……わかった。伝えておくよ」
悠人は雑念を振り払うように、短く頷いた。




