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放課後、生徒会室の前。悠人は軽くノックをしてから、ドアを開けた。
足を踏み入れてドアを閉めた瞬間、室内の視線が一斉に悠人へと注がれた。長方形の大きなテーブルを囲む十数人の役員たちは、誰もが疲れ果てた表情を浮かべていた。
悠人は小さくため息をつき、テーブルの端に座る生徒会長に目を向けた。二年生の橋本は、椅子の背もたれに深く寄りかかり、眉間を指で強く押さえている。部室の誰よりも疲弊しているのは彼だろう。橋本は入ってきた悠人の姿を認めると、弾かれたように椅子から立ち上がった。
「悠人先輩……!」
橋本の顔が目に見えて明るくなり、他のメンバーも同様だった。一様に立ち上がろうとする後輩たちを、悠人は片手を上げて制した。
「いい。座ってろ」
皆が大人しく従う。ようやくこの厄介な仕事が終わるのか、とでも言いたげな眼差しが悠人を仰ぎ、彼は再びため息を漏らした。橋本の隣にある空席に腰を下ろす。
「パソコン、貸してくれ」
悠人が促すと、橋本は恭しく、生徒会専用のノートパソコンを両手で差し出した。画面をざっと眺める。どうやら、できている部分を探す方が早いくらい、作業は滞っているようだった。
「それで?」
悠人が誰にともなく問いかけると、すぐ隣の総務部長が口を開いた。それを皮切りに、悠人の指揮のもと、煩雑な引き継ぎ作業が着々と進み始めた。
それから三十分。
会議が終わり、他の役員たちが帰路につくと、生徒会室には悠人と橋本の二人だけが残った。
「本当に……」
橋本は立ち上がり、深く腰を折って頭を下げた。
「本当にありがとうございました。さすが悠人先輩です。僕たちだけじゃ何日かかっても整理できなかった仕事を、たった三十分で片付けてしまうなんて。すごすぎますよ」
「感心している場合か」
悠人は一喝した。
「中間テストが終わったばかりだというのに、委員会どころか執行部の準備すらまともにできていないとはな。呆れたよ。解任されても文句は言えないレベルだ」
気圧されたのか、橋本が肩をすくめる。背の高い彼が、心なしか小さく見えた。悠人は少しトーンを落とし、なだめるように続けた。
「だから言っただろう。この学校は生徒会の裁量で動かさなきゃならない案件が多いんだ。適当にやっていけるほど甘くない」
橋本は再び椅子に座り、神妙に頷いた。
「やり始めれば、あとは勘でなんとかなるだろうと思ってたんですけど……。僕の考えが浅かったです」
「既存のシステムに従って、適宜更新していけばいいだけの話だ。勘なんかに頼ってどうする。即興で動こうとするな。計画された通りに、常に予定通りに動く。それだけでいいんだ。わかったか、蓮」
名前を呼ばれ、橋本がふと悠人を見やる。悠人はその目をまっすぐに見つめ、一文字ずつ刻みつけるように言った。
「勘なんかに、絶対に従うな」
「……」
橋本は返事をする代わりに、しばらく悠人の顔をじっと見つめていたが、やがてヘラヘラとした笑みを浮かべた。
「先輩のそういうところ、本当に尊敬しています」
「よせ」
「本当ですよ。僕にはないその冷徹で計画的なところ、心から憧れてるんです」
「ないなら鍛えろと言ってるんだ。今の会長はお前なんだぞ。自覚を持て」
「うーん」
橋本は腕を組み、顎をさすりながら軽い調子で言った。
「いっそ辞めてしまいましょうか。そもそも会長になったのも本意じゃないというか、気づいたらこうなっていた、みたいな感じですし」
「……は?」
「もともとは漫研に入ろうとしてたんですよ。でも入学式のとき、先輩のあの節度と気品に満ちた演説を聞いて、『この人だ!』って思っちゃったんですよね」
「そんな理由で……。本当にお前というやつは」
悠人が呆れて首を振ると、橋本は笑みをこぼして言葉を継いだ。
「来年から先輩がいなくなると思うと、心細くて仕方ありません。志望校は東京の方なんですよね? どこを受けるんですか?」
「教えない」
「えっ、なんでですか。ついて行ったりしませんから、ご安心を……」
「ついてくるつもりだったのか!」
図星だと言わんばかりにおどけた顔をする橋本に、悠人は鼻でため息をつき、ようやく口を開いた。
「地元に行くつもりだよ」
「……え?」
「今までは東京を目標に準備してきたけど……少し、考えが変わってね」
橋本が目を丸くした。冗談抜きで驚いているようだ。
「どうしてですか。悠人先輩なら成績も問題ないはずですし、昔から東京に行きたいって言ってたじゃないですか。何か事情でも? まさか、僕が本当についてくるのを心配して嘘ついてるわけじゃないですよね」
悠人は自分の足元に視線を落とした。しばらく沈黙が流れ、何かを思い悩むように目を伏せていたが、やがて顔を上げた。
「お前になら、話してもいいか」
「えっ?」
「俺に昔、弟と妹がいたって話、したことあったっけ」
「……」
橋本は少し考え込み、やがて小さく頷いた。
「はい。聞いたことがあります。事故で、二人とも亡くなったって。でも、どうして急にその話を?」
「その事故が、どんなものだったかまでは話してなかったな」
悠人は窓の外の景色を見つめながら、淡々と語り始めた。
「三人で、遊園地に行こうとしたんだ。家からそう遠くなかったけど、背伸びをしてタクシーを使った。その道中で接触事故に遭ったんだよ。俺たちの乗ったタクシーがUターンをしようとしたとき、対向車線から来た車と衝突した。警察の説明では、運転手たちの過失というより、その瞬間に信号機が何らかのエラーを起こして、システムが混線したのが原因らしい。
結果、相手のドライバーと、タクシーの後部座席にいた子供二人が死亡。生き残ったのはタクシーの運転手と、助手席に座っていた子供だけ。……その、助手席にいた子が『こちらの次元』での俺だ」
話を聞きながら痛ましげな表情を浮かべていた橋本だったが、最後の一言で一瞬、きょとんとした。
「……こちらの、次元、ですか?」
「ああ。こちらの次元だ」
悠人は静かに、深く頷いた。
「こんな話をするのは、他の次元の俺は死んでいるからだ。他にも二つの次元があって、そこでは弟と妹が、それぞれ一人ずつ生き残った。つまり、あちら側ではあいつらが助手席に乗っていたんだよ。そして、ここからが重要なんだが……そうして生き残った『一人ずつ』を引き合わせる、次元の繋ぎ目のような場所が存在するんだ」
「……」
懸念していた通り、橋本の眉間に深い皺が寄った。構わず、悠人は独り言のように淡々と語り続けた。
「『兄妹の部屋』と呼んでいるけど、うちの庭にある小屋のことだ。元々は子供たちが騒いでもいいようにと作ってもらった場所だったが、二人がいなくなってからはずっと放置されていた。それが四十九日が過ぎた日、何気なく中に入ってみたんだ。そこで……会った。弟も妹も、同じ日の同じ時刻に、それぞれの次元からその部屋に足を踏み入れたんだよ」
悠人の脳裏に、当時の光景が鮮烈に蘇る。
小屋に入ってドアを閉めた直後、背後の扉が再び開いた。両親のどちらかだろうと思っていたが、入ってきたのは蒼大だった。蒼大は中に入ってドアを閉め、そこで初めて悠人の存在に気づいた。続いて再びドアが開き、今度は芽生が入ってきた。
三人は悲鳴を上げることすら忘れ、幽霊でも見たかのような驚愕の表情で、ただただ互いを見つめ合っていた。
悠人は言葉を継いだ。
「とにかく、あの小屋が三つの次元を結んでくれたおかげで、俺たちはまた一緒にいられるようになった。それからは七年間、親には隠れて、ほとんど毎日のように会ってきた。どういう原理なのかはわからない。……超自然現象、としか言いようがないな」
「……」
「というわけで、あいつらを残して遠くへは行けない。だから大学は地元の近くにしようと思っているんだが……。聞いてるか?」
「珍しいですね」
ようやく橋本が口を開いた。
「悠人先輩が、そんな出鱈目というか、手の込んだ冗談を言うなんて。しかもこんなに長々と。もし僕をドン引きさせて距離を置こうっていう作戦なら、少し成功していますよ」
橋本は困り果てたような、複雑な表情を浮かべていた。悠人は頷き、小さく呟いた。
「……まあ、そう反応するのが普通だよな」
「え? 何か言いました?」
「計算通りだと言った。今感じたその距離感を、常に維持してね」
「えー、嫌ですよ」
橋本はテーブルの上にだらりと上体を投げ出し、悠人を見上げて言った。
「仮に先輩の話が本当だとして、先輩以外にその二人を実際に見た人はいないんですよね?」
「ああ」
「じゃあ、その二人は先輩の妄想かもしれない。そうは思いませんか?」
「そうかもな」
悠人はあっさりと認めた。
「俺が狂って幻覚を見ているだけかもしれない。その可能性も十分にある」
その時、悠人のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
画面を確認すると、父からの着信だった。
「悠人、今家か?」
「まだ学校だけど」
「そうか。今、出張で海外にいるのは知ってるな?」
「うん」
「家にいた時に言い忘れたことがあってな」
「うん」
「あの小屋――『兄妹の部屋』だが、撤去することになった」
「……っ」
悠人は椅子を派手に引きずり、腰を浮かせた。
「……何だって?」
「取り壊すことにしたんだ。お母さんとも相談して決めたことだ。出張から帰ってすぐ、二週間後に行う。その間に中の物は全部片づけておけ。いいな?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。急すぎるだろ」
「だから二週間の猶予をやる。……悠人。もうあの部屋とは、いい加減けじめをつけないと」
「……」
悠人は思わず首を巡らせ、窓の外を見つめた。青天の霹靂というべき報せを受け入れるには、あまりに平穏で、雲一つない綺麗な空が広がっていた。
電話を切った後、悠人はスマートフォンを握った手を力なく垂らした。
「先輩?」橋本が不安げに訊ねる。「どうかしたんですか?」
悠人はそれに答えず、しばらく必死に思考を巡らせた。やがて、弾かれたようにテーブルの上の鞄を掴んだ。
「……わるい、先に帰る」
追いかけてくる橋本を校門のあたりで振り切り、悠人は走るような速さで廊下を駆け抜け、校舎を飛び出した。




