2
塾を終えると、悠人はまっすぐ家へと向かった。
リビングの片隅に置かれた蒼大と芽生の仏壇を横目に通り過ぎ、二階の自室へ上がる。私服に着替え、いくつかの参考書と筆記用具をまとめると、再び階下へ降りた。
夜七時を過ぎ、室内は薄暗い。家の中には悠人の他に誰もいなかった。リビングも両親の部屋も、しんと静まり返っている。ほんの少し立ち止まっていただけなのに、冷たく淀んだ空気が蛇のように身体にまとわりついてくる。一人暮らしも同然だと感じ始めて、もう七年が経っていた。悠人は小さく身震いし、玄関を出て庭へ向かった。
手入れの行き届いた芝生を横切り、庭の隅に建つ小さな小屋へ。入り口のプレートには「兄妹の部屋」と記されている。悠人はノックもせず、慣れた手つきでドアを開けた。
広さは四畳半をわずかに上回る程度。天井は二メートルに満たないほど低く、どこか閉塞感のある空間だ。窓はなく、四方を灰色の壁に囲まれている。壁の一角に漫画のポスターやイラストが数枚貼られている以外、飾りらしいものはない。小さな円卓とゴミ箱、簡素な掃除道具があるだけの殺風景な場所だが、ここに足を踏み入れてようやく、悠人はこわばっていた心を解くことができた。
「兄ちゃん、早かったじゃん」
右手、二時の方向に座っていた蒼大が、もぐもぐと口を動かしながら言った。片方の頬を膨らませ、何かを食べている最中らしい。
「悠人兄ちゃんも、これ食べてよ」
左手、十時の方向に座る芽生が、手招きをしてくる。円卓の真ん中には、ナッツとベリーが贅沢に乗ったタルトが置かれていた。悠人は六時の席に腰を下ろした。
「これからはこの時間に来れるよ。塾のコマ数を半分に減らしたんだ」
「そんなことできるの?」と、蒼大が訊ねる。
「ああ、一応な」
答えながら、悠人はタルトを一切れつまんだ。口に運ぶとかなりの美味だったが、思いのほかナッツが詰まっている。
「芽生、ナッツは苦手じゃなかったか?」
「あ、うん」芽生は苦笑いした。「だから、全部兄ちゃんたちにあげる。味はどう?」
「美味しいけど……これ、誰からもらったんだ?」
「え、友達。……それより悠人兄ちゃん、お父さんはまた出張?」
「ああ。行ったよ。……そっちもか?」
「うん」
二人が頷くのを見て、悠人も淡々と頷き返した。
しばらくして、芽生が不意に手を伸ばし、蒼大の前にあったノートをひったくった。蒼大は気にする様子もなく、黙々とタルトを食べ続けている。芽生がページをめくり始めると、悠人も横からその中身を覗き込んだ。
ノートを埋め尽くしていたのは、蒼大の描いた絵だった。そのほとんどが人体のクロッキーだが、素人の悠人の目から見ても、一目でわかるほどに巧かった。
「蒼大兄ちゃん、どんどん上手くなるね。まだ高校生なのに、まるでプロみたい」
芽生が感心した声を上げ、悠人も同感だと頷いた。だが、蒼大は興味なさそうにツンとした顔でタルトをもう一切れつまみ、芽生に問いかけた。
「前から訊こうと思ってたんだけどさ、そんなもん、一体誰からもらってきてるんだ?」
「言ったじゃん、ただの友達だってば」
「こないだのミントチョコケーキも、その友達か?」
「……うん」
「芽生、もしかして彼氏できた?」
蒼大の不意打ちに、芽生が沈黙した。すると、蒼大は冗談めかして言葉を継ぐ。
「でも、芽生の好みを分かってないみたいだし、別にそうでもないか」
「……放っておいてよ。教えないから」
「とにかく、お前さ。高校生になってから随分雰囲気が変わったよな」
「そりゃ、高校生なんだから変わるのが当たり前でしょ」
言い返しながら、芽生は蒼大の目の前にノートの一ページを突き出した。
「そういう蒼大兄ちゃんこそ、このキャラ設定みたいなのは何?」
ノートを取り返した蒼大は、今度は自分が口を閉ざした。芽生は追い打ちをかけるように、その脇腹を小突く。
「ん? 言ってみてよ。兄ちゃんこそ二年生になってから、ちょっと気合入れすぎじゃない? 毎日毎日、絵ばっかり描いて。もしかして……」
「二人とも、そこまでだ」
ついに悠人が割って入った。
「一線を越えるな。何度も言っただろ? 『あちら側』の情報を下手に知ってしまったら、『こちら側』の現実にどんな影響が出るかわからない。最悪の場合、それによって……」
「わかってるよ」蒼大が言葉を遮った。「歪みが生じるかもしれない、だろ?」
芽生も後に続く。「もう耳にタコができるほど聞いたから」
「なら、これ以上聞きたくないなら、ルールを守れ」
悠人が語気を強めると、蒼大と芽生は幼稚園児のように声を揃えて「はーい」と返した。その投げやりな態度に、悠人は余計に不安を煽られて問い詰める。
「念のために訊くけど、俺たちのこと……特に『この部屋』のこと、父さんや母さん、他の友達や知り合いに話したりしてないよな?」
返ってきたのは、やはり呆れたような声だった。「してないって」
「そもそもさ」蒼大が鼻で笑う。「そんな話をして、信じる奴がいると思うか?」
芽生もニヤリと笑みを浮かべた。「それもそうだね」
「冗談じゃないんだ」悠人は真剣な面持ちで二人を見据えた。「ひょっとしたら俺たち三人は、二度と会えなくなるかもしれない。お前たちは、そうなってもいいのか?」
「だから、話さないって言ってるじゃん」蒼大が一瞬、カッとなったように声を荒らげた。「そうなってほしいわけないだろ」
「そうだよ」芽生も、取り繕うような笑みを浮かべて言った。「だから、会えなくなるなんて言わないで。お願いだから」
「……わかった」悠人は静かに頷いた。「俺が悪かった」
束の間の沈黙が流れた後、悠人は持ってきた参考書と筆記用具を円卓の上に広げた。
「じゃあ、本を開いて」
「えっ、もう?」と蒼大。
「食べ終わってからにしようよ」と芽生。
悠人は首を横に振った。
「食べながらでいい。中間テストが近いんだぞ」
結局、二人は渋々といった様子で教科書を取り出し、試験勉強が始まった。
「わからない問題があったら、いつでも訊け」
「先生、私!」芽生がすぐに手を挙げた。「今日もたくさんチェックしてきました」
「いいよ。どこだ?」
主な質問は数学だった。悠人は解き方を教える前に、まず必要な公式の解説から丁寧に進めた。続いて蒼大も英語の質問を投げかけ、悠人は文法の基礎から一つひとつ紐解いていく。その後も断続的に質問が続き、三人は静かで落ち着いた空気の中で勉強に没頭した。
三時間ほど経った頃、全員が本を閉じた。夜の十一時。そろそろ戻らなければ、母から電話がかかってきかねない時間だ。三人は部屋をざっと片付けると、ドアの前に集まった。
「部屋に戻ったら、」悠人が念を押す。「今日やったところ、五分でいいから復習するのを忘れるなよ。それと明日もわからない箇所をちゃんとチェックしてくること。いいな?」
蒼大と芽生が頷き、悠人も満足げに頷き返した。
「じゃあ、さようなら」
「うん、さよなら」
「さようなら」
それぞれが別れの挨拶を交わす。ドアを開けて、まず芽生が、続いて蒼大が小屋を出ていった。最後に一人残った悠人は、室内の明かりを消してから、暗がりの小屋を後にした。




