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悠人は観念したように、シートベルトを外した。事がここまで大きくなってしまえば、もう諦めるしかない。
しかし不可解なことに、タクシーは減速しなかった。それどころか、運転手はハザードランプを点灯させ、法定速度を無視して疾走し始めたのだ。悠人は慌ててシートベルトを締め直し、ドアの上のグリップを両手で強く握り締めた。
家まではそう遠くなかった。目的地はすぐそこだったが、左折予定の交差点で信号と他車に阻まれ、一時停車を余儀なくされた。悠人は、家のある方角と、背後から迫るパトカーを交互に見やり、再びシートベルトを外した。
「ここで降ります」
「だけど……」運転手がミラー越しにパトカーを見やり、「いいのか?」と訊ねた。
「はい。ここまでなら十分です」
悠人は後部座席の二人に声をかけた。
「蒼大、芽生、ここからは走るぞ!」
二人がシートベルトを外すと同時に、運転手がドアのロックを解除した。悠人が降り際、急いで財布を取り出そうとしたが、運転手はそれを手で制した。
「お金はいい。早く行きなさい」
悠人が呆然としていると、運転手は再び強く促した。
「……行くんだ、早く!」
悠人はタクシーを飛び出し、先に降りた二人と共に家へ向かって走り出した。
自宅まで残り二ブロックという地点で、待ち構えていた橋本と合流した。悠人側の次元の、彼だ。
「兄妹の部屋は!? まだ壊されてないか?」
悠人が走りながら叫ぶと、橋本も並走しながら答えた。
「はい! 業者さんは一度離れましたけど、もうすぐ戻ってくる時間です。早く行かないと間に合いません!」
「他の蓮たちは?」
橋本は、後ろで走っている蒼大と芽生をちらりと振り返ってから言った。
「それぞれの次元に戻りました。あっちで待ってるって」
家に近づくにつれ、走る速度が次第に落ちていった。
門扉の前にたどり着くと、三人は吸い寄せられるようにその場に立ち尽くした。開いた門の向こうに、まだ取り壊されずに残っている『兄妹の部屋』が見えた。
わずか十数歩の距離。
あの中に入れば、すべてが終わる。
最後の一歩一歩が惜しくて、三人が門の前でもじもじしていると、遠くから二台のパトカーが列をなして近づいてくるのが見えた。彼らは兄妹の姿を捉えるなり、けたたましくサイレンを鳴らし始めた。その騒々しい音が、皮肉にも悠人の冷静さを取り戻させた。
悠人は蒼大と芽生の前に立ち、二人と向き合った。全力で走ってきたせいで息は上がっていたが、その表情だけはこの上なく穏やかだった。
「家に戻ったら、」
悠人は言った。
「お父さんとお母さんに、心配をかけてごめんなさいって、ちゃんと謝るんだよ。あと、蓮にも。あいつには随分世話になったんだから、きちんとお礼を言うこと。……わかった?」
蒼大と芽生が頷き、悠人も深く頷き返した。
「じゃ、さようなら」
「うん。さよなら、兄ちゃん」
「さようなら」
挨拶を交わすと、まず芽生が、続いて蒼大が敷地内へと足を踏み入れた。最後に残った悠人も庭までは入ったが、二人の後を追うことはしなかった。ただ立ち尽くしたまま、小屋へと近づいていく二人の後ろ姿を見守り続けた。
蒼大が小屋のドアに手をかけた。だが、すぐには入ろうとしなかった。芽生もドアの前で立ち止まり、今にも振り返りそうな様子で躊躇っていた。
「振り返るな、行け!」
悠人が二人の背中を押し出すように叫ぶと、二人はようやく中へと滑り込み、静かにドアが閉まった。
「……」
意外にも悲しみはなく、むしろ清々しい気分だった。だがそれも束の間、次の瞬間には強烈な未練が悠人を襲い、彼はハッとして『兄妹の部屋』へ向かって駆け出そうとした。
しかし、背後から何者かに肩を掴まれ、足を止めざるを得なくなった。
振り返ると、そこには警官が立っていた。
警官は悠人の肩を掴んだまま、静かに、だが拒絶を許さない声で言った。
「もう逃げないでね」
その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。
悠人はなすすべもなく、その場にへたり込んだ。再び立ち上がろうとしても、体中の電力を使い果たしたかのように、足に力が入らない。
こんな状態でよくここまで走ってこられたものだと自分でも不思議に思っていると、不意に玄関の扉が開き、父と母が飛び出してきた。
「悠人……!」
「大丈夫か!」
庭に入ってきた警官は三、四人ほどだった。彼らは近づいてくる両親の姿を見ると、一旦悠人のそばから身を引き、逃げる意思がないと判断したようだった。代わりに彼らは、行方のわからない残りの二人の捜索を開始した。
「塀は越えていない、まだこの中にいるはずだ。探し出せ」
という上官の指示に従い、警官たちは家の中や庭の隅々を調べ始めた。そして当然のように、『兄妹の部屋』にも手が伸びた。
一人の警官が小屋のドアノブを回し、勢いよく扉を開ける。悠人は衝動的に体を起こそうとしたが、その動作を途中で止めた。
中には、誰もいなかった。
中を覗き込んだ警官が首を横に振って出てくるのを見て、悠人はようやく、自分の中の未練に終止符を打つことができた。
無意識に止めていた息を、長く、長く吐き出していると、傍らに立った警官が悠人に訊ねた。
「あとの二人はどこへ行った?」
「あの二人ですか?」
悠人は、静まり返った『兄妹の部屋』を淡々と見つめながら答えた。
「死にました」
「……は?」
「あの二人は……」
声が詰まり、呼吸が激しく震え始めた。
「僕の弟と妹は……七年前に、死にました」
視界が滲んだかと思うと、一滴の涙が頬を伝って流れ落ちた。
声を限りに叫びたかったが、なぜか声にならなかった。胸の奥が張り裂けそうなほど痛い。
悠人はむせび泣く代わりに、必死に深呼吸を繰り返した。何度も空気を吸い込み、吐き出し、涙を拭う暇もなく、ただ一生懸命に泣いた。
「……ごめんね」
いつの間にか近づいていた母が悠人の前にしゃがみ込み、彼を強く抱きしめた。
「本当に、ごめん。お母さん、ずっと忘れていた。悠人が私にとって、どれだけ大切な存在か……。あなたがそばにいてくれるのが当たり前のように思えて、甘えていたみたい……」
母の体が静かに震えているのを、悠人は感じた。
「当たり前じゃないってこと、本当は私が誰よりもわかっているはずなのに。今こうして、あなたを抱きしめられることが、どれほどありがたいことか……。ごめんね、悠人。あなたのことが、大好きよ」
それから、父も悠人の背にそっと手を添え、一言だけ言った。
「……生きていてくれて、ありがとう」
そのあとは、母が繰り返し囁き続ける「大好きよ」という言葉だけが、静かに耳に届いた。
母の抱擁は少し息苦しいほどに強かったが、不思議なことに、その圧迫感のおかげで、悠人は次第に深く息をつけるようになっていった。
あまりにも久しぶりの体温が、ひどく心地よかった。
そんな家族の姿を、数歩離れた場所に立ったまま見守る橋本がいた。
ふと目が合うと、彼は悠人に向かって、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「おかえりなさい」




