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その言葉を聞いてようやく、悠人はメモから目を離し、顔を上げた。
蒼大と芽生の背後から強い逆光が差し込み、悠人は思わず目を細めた。再びゆっくりと目を開くと、二人のシルエットが、まるで色あせた古い写真のように淡く、透けて見えた。
「でも、俺は……」悠人の声が震えた。「まだ、お別れの準備ができてない」
「何言ってるんだよ、兄ちゃん」蒼大が笑った。「準備なら、もうずっと前から、毎日のようにしてきただろ」
「そうだよ」芽生も微笑む。「毎日、欠かさずに」
「……」
その言葉の意味を、悠人は痛いほど理解していた。
――さようなら。
「兄妹の部屋」から出るたびに、三人が交わしてきた挨拶は「じゃあね」でも「また明日」でもなく、いつも「さようなら」だった。
最初は、次にまた会える確信が持てなかったから、そう口にするしかなかった。だがそれはいつしか習慣となり、呼吸をするように自然な響きとして定着してしまっていたのだ。
「だから、今日はただ」
蒼大が言葉を紡いだ。
「『さようなら』が、より似合う日。それだけのことだよ」
芽生も同意するように、優しく慈しむような笑みを浮かべた。
悠人は、その眩しい笑みを脳裏に焼き付けるように見つめた後、握りしめていたメモをそっと手放した。それからしばらくの間、無言で外の風景を眺めた。
ゴンドラは頂点を過ぎ、ゆるやかに下降を始めていた。ふわふわと浮かぶ綿雲の向こう側を、一機の飛行機が静かに横切っていく。
実にいい天気だ、と悠人は思った。
「……下に、警官が待っている」
悠人が切り出すと、蒼大と芽生はすぐにドア側の窓から下を覗き込んだ。悠人は淡々と続けた。
「俺が相手をする。あんたたちはその隙に逃げろ。そして、真っ直ぐ家へ……『兄妹の部屋』に戻るんだ」
「ちょっと待てよ」蒼大が制した。「兄ちゃんがそこまでする必要ないよ。もう身分の心配なんてしなくていいんだし、捕まったって別に……」
「そうだよ」芽生も声を重ねる。「もう少しいっしょにいようよ。いっしょに帰ろう」
「無理だ」悠人は言った。「忘れたのか? 部屋の撤去は、完全にキャンセルされたわけじゃない。あんたたちが捕まっている間に、すべて終わってしまうかもしれないんだ。……いや、もう手遅れかもしれない」
「…………」
「時間がないんだ。だから、二人とも俺の言うことを聞いてくれ」
二人は黙り込んだ。だが、悠人の覚悟が伝わったのだろう、それ以上は拒まなかった。
やがてゴンドラが乗り場に到着した。
スタッフがドアを開けると同時に、二人の警官が間近まで迫ってきた。
真っ先に外へ出た悠人は、唐突に乗り場の外へ向かって走り出した。もちろん逃げ切るつもりなどない。意図した通り、すぐに警官たちに組み伏せられた。悠人は、自分に覆いかぶさってきた二人の頭を、それぞれ両腕で抱え込むようにして動きを封じ、叫んだ。
「走れ! 早く!」
蒼大と芽生も続いてゴンドラから飛び出した。だが、二人は悠人の指示に従わなかった。
「やっぱり、こんな風にお別れするのは嫌だ!」
「そうだよ! 家まで、いっしょに行こうよ!」
二人はそう叫ぶと、悠人を助け出そうと警官たちにしがみついた。
揉み合いの末、どさくさに紛れて一時的に警官の手を逃れることに成功すると、三人は一塊になって乗り場を駆け抜け、遊園地の出口へと向かって全力で走り出した。
遊園地を飛び出した後、悠人は背後を振り返った。
途中まで走って追いかけてきていた警官たちが、今は自転車に跨がって距離を詰めようとしていた。
悠人は乗り捨てた自転車のことを思い出した。だが、あの場所まで戻る前に捕まるのは目に見えている。
警官たちと小競り合いでもして時間を稼ぐべきか。
悠人が切羽詰まった思いで葛藤していると、不意に一台のタクシーがこちらへ向かって走ってくるのが見えた。悠人は藁にも縋る思いで手を挙げ、その車を止めた。
悠人が助手席に、蒼大と芽生が後部座席に滑り込む。ドアが閉まるなり、悠人は急いで自宅の住所を告げた。
だが、あまりの早口に聞き取れなかったのか、運転手が悠人の方を振り返った。
「すみません、もう一度……」
運転手は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
そのまま、車内に奇妙な沈黙が流れる。
悠人は今度は落ち着いて、一語一語はっきりと住所を伝えた。しかし、運転手は返事をするどころか、なぜか悠人の顔を食い入るように見つめている。
やがて視線をルームミラーに移し、後部座席の蒼大と芽生までも凝視した。
悠人は釣られるように、ルームミラーの下へと目をやった。そこに飾られた、どこかで見覚えのある形のペンダントをしばらく睨んだ後、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
「……あの、急いでるんです。早く出してください。それとも、僕がナビに入れましょうか?」
悠人がカーナビに手を伸ばそうとしたその時、運転手はようやく我に返ったように頷いた。
「あ、いえ。……では、出発します」
だが、車が動き出すより早く、自転車の警官がホイッスルを鳴らしながらゲートを抜けてくるのが見えた。彼らがタクシーに詰め寄ろうとしていることに気づき、運転手が説明を求めるように悠人を見た。
悠人は言った。
「僕たち、三兄妹なんです。……訳があって、今は離れて暮らしています。でも、ここで捕まってしまったら、それぞれの家に帰れなくなるかもしれない。それじゃ、ダメなんです。三人とも、お互いをすごく大事に思っているけれど……それでも、それぞれの居場所に戻らなきゃいけない。だから……お願いします」
運転手は最後まで聞くと、はめていた白い手袋を脱ぎ捨てた。そして、悠人に向かって簡潔に問いかけた。
「……目的地まで、無事に着ければいいんだな?」
「はい」
運転手は深く頷いた。
その間にも、警官たちはタクシーのすぐ側まで迫り、運転席の窓を激しくノックし始めていた。しかし、運転手は彼らを見向きもせず、ハンドルを握る手に力を込めると、アクセルを一気に踏み込んだ。
車が急発進し、悠人は慌ててシートベルトを締めて後ろを振り返った。警官たちは懸命に自転車を漕いで追ってきたが、四輪の速度にかなうはずもない。
運良く青信号が続いたことも味方し、間もなく追跡を振り切ることができた。
だが、安堵したのも束の間、今度は一台のパトカーがサイレンを鳴らしながら背後に迫ってきた。
スピーカーから「そこのタクシー、止まりなさい!」という警告が執拗に繰り返される。市街地を行き交う人々の視線が、一斉にパトカーとタクシーへと集まった。




