22
あの時、自分の直感に従ってさえいなければ。
悠人は、二階へと続く階段を上りながら思った。忘れた頃にふと現れる自分の影のように、決して拭い去ることのできない後悔だった。
深夜。悠人は蒼大と芽生の部屋の前を通り過ぎて自分の部屋に入ろうとしたが、途中で足を止めた。自室から遠く離れた芽生の部屋から、ひそひそとした話し声が漏れ聞こえてきたのだ。
無視して部屋に入ろうとしたが、結局、足は動かなかった。悠人は爪先立ちで芽生の部屋に慎重に近づき、ドア越しに耳を澄ませた。
「……今日、今すぐっていうのは嫌だ」
芽生の声に続き、蒼大の声が聞こえた。
「僕だってそうだよ。そもそも今日はダメだ。蓮を待たなきゃいけない。でも……蓮が戻ってきたら、こちらに長く留まるつもりはないよ」
「私も。とりあえず、明日の朝ごはんは一緒に食べよう」
「そうだな。別れの挨拶、ちゃんとしておきたいから」
「……え? 悠人兄ちゃんに、話すつもりなの?」
「当たり前でしょ。一言も言わずに突然いなくなるなんて、いくらなんでも、ひどすぎる」
「でも……。そうしたら、止めようとしないかな」
「どうだろう。その時になってみないとわからない」
「もし止められたら、どうする?」
「……なんとか、説得してみるしかない」
「……逆に、私たちが説得されちゃいそうだけど」
会話が途切れた。沈黙が流れる間、悠人はカラカラに乾いていく唇を舌でなぞりながら、静かに待った。
間もなく、再び蒼大の声が漏れ聞こえてきた。
「……実は僕、まだ悩んでる。明日になったら、また気が変わるかもしれない」
「私もだよ」
二人の重いため息が重なり、芽生の声が続いた。
「何をどうすればいいのか、わからない。何が正しいのかも……」
「兄ちゃんに訊くわけにもいかないしな。……八方ふさがりだわ、本当に」
その後も、しばらくひそひそとした会話は続いていた。だが、必要な情報はすでに得た。悠人は足音を忍ばせ、自室へと戻った。
悠人は一度机の前に座ると、習慣的にペンを取り、指先で回しながら考えを巡らせた。
一分も経たないうちに、結論は出た。悠人はペンを置き、部屋を出ると、一階に下りて母の部屋をノックした。
しばらくして、母がドアから顔を出した。
「悠人? どうしたの、こんな時間に」
「……話がある。父さんは?」
「お父さんは仕事が溜まっているらしくて、今日は徹夜してくるって」
「……」
「話って、何?」
悠人はしばし躊躇った。本当は父もいる場で話したかったが、状況は一刻を争う。まずは母にだけでも伝えておくべきだと判断した。
「……入って話してもいい? 大事な話なんだ」
「ええ、どうぞ」
悠人は部屋に入り、背後でドアを閉めた。怪訝な表情で見守る母を見つめ、彼はこれまでの事情を包み隠さず語り始めた。
翌朝。
悠人は重い身体を無理やり引きずるようにして、ベッドから起き上がった。
睡眠不足で頭が鉛のように重い。夜中に誰かの部屋のドアが開く音がしないか、聞き耳を立てていたせいで、結局ほとんど一睡もできないまま夜を明かしてしまったのだ。
悠人は部屋を抜け出し、蒼大と芽生の部屋を順にノックした。しかし、どちらの部屋からも人の気配はしない。
一瞬で眠気が吹き飛んだ。悠人は階段を駆け下り、リビングへと飛び込んだ。
蒼大と芽生はそこにいた。二人は食卓についており、その正面には母が座っていた。
悠人が近づくと、母が彼を振り返り、震える声で語りかけてきた。
「……悠人。本当に、あんたの言う通りだったわ」
その声は、深い感激に満ちていた。
「正直、昨日までは信じきれなかったけれど……。話してみたら、はっきりとわかった。この子たちは、本当に蒼大と芽生なのね。二人とも、私とあの子たちしか知らないはずの思い出を、あまりにも正確に覚えているの」
悠人は肺の中の空気をすべて吐き出すように、深い溜息をついた。
「……だから、そう言ったでしょ」
「本当に……信じてくれるんですか?」
蒼大が、まるで夢でも見ているかのような、掠れた声で訊ねた。母は慈しむように微笑み、深く頷く。その様子を、芽生は感極まったように口を覆いながら見つめていた。
「二人とも、おいで」
母が椅子から立ち上がり、両腕を広げた。
「……抱きしめてもいい?」
蒼大と芽生も、椅子を引く音を立てて立ち上がった。親子が互いに歩み寄ろうとした、まさにその時――。
玄関のドアロックが解錠される無機質な電子音が響き、父が家の中に入ってきた。
徹夜仕事明けのせいか、父の顔は悠人以上に酷くやつれていた。
彼は疲労の色を隠そうともせず、リビングにいる面々を一瞥もせずに自分の部屋へ直行しようとした。
「ちょっと、お父さん」
母が呼び止めると、父はのろのろと足を止めた。母が食卓を指先でトントンと叩きながら促す。
「こっちに来て座って。話があるの」
「……疲れて死にそうなんだ。明日にしてくれないか」
「今じゃないとダメ。とても大切な話なのよ」
「……」
父は力なく溜息をつき、結局歩み寄って椅子に腰掛けた。不機嫌そうに周囲を見回す。
「……なんだ、話って」
母が滔々と説明を始めた。次第に父の半開きだった目に力が戻ってきたが、それは決して好意的な色ではなかった。
案の定、母が話し終えるや否や、父は冷ややかな失笑を漏らした。
「……それを、本気で信じるのか」
「私は信じる」
母が断固とした口調で言い返すと、父は力なく首を振った。
「……いや。あんたは今、信じているんじゃない。ただ、そう信じると決めただけだ」
「……なんですって?」
母は一瞬呆然としたが、すぐに色をなして反論した。
「結局同じことじゃない! 信じるっていうのは心の問題なんだから。それに……あの子たちは、私と二人きりでしか共有していないはずの思い出を、全部知っていたのよ?」
「違う」
父は冷淡に反論した。
「信じるというのは、事実に基づいた問題だ。いくら似ていようと、この子たちは単なる『他人の空似』に過ぎない。それに思い出の件だって、二人しか知らないなんてどうやって確信できる? 芽生と蒼大が生前、悠人に話していたことを、悠人がこの子たちに吹き込んだ可能性だってあるだろう」
「はあ? そんな手の込んだ嘘を、この子たちがつく理由なんてどこにあるのよ」
「さあな。知りたくもない」
父は、蒼大と芽生を冷ややかな目で射抜きながら言った。
「君たちが悠人と本当はどういう関係なのか、どうして家出を口実にしてまでここに入り込もうとしているのか、追求するつもりはない。だから、今すぐ出て行ってくれ。交通費くらいは出してやる」
「ちょっと待ってよ、お父さん。昨日と話が違うじゃん」
「考えが変わったんだ」
父は威圧的な動作で内ポケットから財布を取り出すと、数枚の札を抜き取り、食卓の上に放り出した。そのままリビングを出ようとする父を、母の鋭い声が引き止めた。
「だったら、検査しましょう」
それは、宣戦布告のような響きだった。
「遺伝子検査よ。それで本物だと判明したら、その時は『事実』として受け入れてくれるわね?」
父は静まり返った瞳で母を見つめ、やがてゆっくりと首を横に振った。
「……狂ってる」




