19
「……はい」
橋本の部屋。
「はい。一応、わかりました。……はい、失礼します」
橋本は電話を切ると、軽く首を横に振った。
生徒会室で父親から電話があったと告げられて以来、悠人の雰囲気がどこか変わったことには気づいていた。突然塾を辞めた時も驚きはしたが、まあ、あり得ない話ではないと思っていた。だが今回ばかりは、どんなに尊敬する先輩の言うこととはいえ、どうしても理解が追いつかなかった。
「悠人先輩……本当に頭、大丈夫なのか?」
そう独り言を漏らした瞬間、家のチャイムが鳴った。
びくりと肩を揺らしながらも、橋本は椅子から立ち上がった。リビングへ出ると、マンションのエントランスを映すモニターを覗き込む。
「……」
言葉を失った。画面の向こうで、相手がぎこちない口調で言った。
「あの……俺たち、『お前』なんだけど」
橋本は、ゆっくりと、極めてゆっくりと頷き始めた。そこに映っていたのは、どう見ても自分自身の姿が二人分だった。
「……マジかよ」
「本当、本当。だからとりあえずドアを開けてくれないか? エントランスのパスワードが俺の次元と違ってて、開けられないんだ」
橋本はモニターのボタンを押し、エントランスのロックを解除した。二人は間もなく建物内へと入り、画面からはその姿を消した。
両親は共働きで不在のため、家には橋本の他に誰もいない。橋本はリビングをうろうろと歩き回りながら、「自分の方が狂ってしまったのではないか」と必死に自問自答してみたが、やがて玄関のドアロックが解錠される電子音が響くと、もう考えるのをやめた。
二人はドアを開け、家の中に入ってきた。リビングで三人は三角形を描くように立ち尽くし、しばらくの間、無言で互いを見つめ合った。
長い沈黙の後、悠人側の橋本が先に口を開いた。
「……俺だ」
すると、他の二人も深く頷いた。
「ああ。俺だよ」
「言っただろ。俺だって」
モニター越しではない実物を目の当たりにすると、かえって混乱は収まっていった。三人は間もなく自分の部屋に入り、ドアをロックした。両親がすぐに帰宅する予定はないが、念のための処置だった。
芽生側の橋本がベッドに腰掛け、蒼大側の橋本が学習机の椅子に座る。この世界の主である悠人側の橋本は、ドアに背を預けて立ったままだった。それぞれが居場所を決めると、散漫だった空気が次第に落ち着きを取り戻していく。
「……さっき、悠人先輩から電話が来たんだ」
しばらくして、悠人側の橋本が切り出した。
「これから俺とそっくりの奴が二人、家に来るかもしれないって。危ないから絶対に入れるな、いっそ外に出るか、留守のふりをしろって言われたよ」
「そうか」芽生側が言った。「よく、その忠告を聞かずに俺たちを入れてくれたな」
「なんだか、」蒼大側も言葉を添えた。「『ありがとう』と言うべきか、『不用心だ』と言うべきか迷うね」
「だって、似すぎだろ」悠人側が抗弁するように言った。「近くで見たくてたまらなかったんだよ」
「まあ、いい。とにかく、お前も大体の事情は聞いたんだな。あの、悠人って人に」蒼大側が尋ねる。
「ちょっと怖かったな、あの人……」芽生側が噛まれた腕をさすりながら訊いた。「こっちの世界じゃ、どんな関係なんだ?」
「悠人先輩と?」悠人側が答える。「生徒会の先輩後輩。悠人先輩が元会長で、今の会長が俺」
「生徒会長!?」
「お前が……いや、俺が?」
二人が心底驚くのを見て、悠人側は照れくさそうに頭を掻いた。
「まあ、成り行きだよ。それより、お前たちは向こうでどんな感じなんだ?」
「俺は漫研に入ってる」蒼大側が答える。
「俺は帰宅部。……あ、そういえば」芽生側が蒼大側に水を向けた。「さっき芽生の家で聞いたけど、お前、何か賞をもらったって言ってなかったか? 漫画の」
「ああ。蒼大と一緒に描いたんだ。ちょっとした短編賞だけど」
「へえ、本当かよ。すごいじゃん」
悠人側の橋本は、意外そうに目を丸くした。
「そっちの世界では漫画を描き続けてるんだな。俺は辞めちまったけど。……じゃあ、お前は? なんで帰宅部なんだ? 何かやってないのか?」
続いて芽生側に尋ねると、蒼大側がニヤリと笑って代わりに答えた。
「こいつには、彼女がいるんだよ」
「え、マジ!?」
「芽生っていう名前で、末っ子の妹さんなんだけどな。とにかく超絶俺のタイプだった。たぶんお前も、見た瞬間に一目惚れすると思う」
「あー……悪いけど、それはもう経験済みだ。昨日、とあるカフェでな」
「へえ、そうか」
「ああ。同じ学校のはずだけど知らない顔だったから、たぶん一年生だろう。明日、学校で探してみるつもりだったんだ」
黙って聞いていた芽生側の橋本が、やおらスマートフォンを取り出し、ロック画面を表示させて悠人側の眼前に突きつけた。
「もしかして……この子?」
「そう!この子……」
あっさりと認められ、三人は苦笑を漏らした。
「どっちにしろ俺たち全員、それぞれ佐々木家と深い繋がりがあるってことか」
悠人側の橋本はこの奇妙な巡り合わせについて考えを巡らせ、半分面白がるように言ってみた。
「それじゃあ、もしあの二人がこのままこちらの世界に残ることになったら……その芽生って子は、俺と付き合うことになるかもしれないな」
芽生側の橋本は、不意を突かれたように発作的な声を上げた。直後、淡々と頷いたかと思うと、突然起き上がって悠人側の橋本に飛びかかった。避ける間もなく胸ぐらを掴まれ、そのまま激しい揉み合いになる。
「おい、やめろ!」
蒼大側がすぐに割って入り、二人を引き離そうとしたが、怒り心頭に発した芽生側の力は強く、容易には離れない。
「邪魔すんな!」芽生側が怒鳴り声を上げる。「こいつ、殺してやる。考えてみれば、てめえを殺して俺がここに住めばいいだけのことだよな!」
「やめろって! 俺が俺を殺すなんて、自殺する気かよ!」
蒼大側がようやく二人を分かち、三人は再びそれぞれの位置に戻った。荒い呼吸を整えながら、しばらく頭を冷やす時間を置く。
悠人側は、乱れた服を直し、落ち着きを取り戻して言った。
「三人もいると、やっぱりこの部屋も狭く感じるな」
「そうだな」芽生側も皮肉を込めて頷く。「誰か一人死んでくれたら、ちょうどいい広さになるのにな」
「……いい加減にしろって」
蒼大側が呆れたようにため息をついた。
「それで? 俺のところには何をしに来たんだ?」
悠人側が本題を切り出すと、蒼大側の橋本がこれまでの経緯を一目瞭然に説明し始めた。




