18
芝生の上にダイビングするように倒れ込んだ蒼大側の蓮は、すぐに服を払いながら立ち上がった。芽生側の蓮はまだ立ち上がれず、跪いたまま噛まれた腕をさすっている。低く唸る様子からして、傷は相当深いようだった。
一方、尻餅をついて肩で息をしていた悠人も、すぐさま起き上がって二人を鋭く睨みつけた。蒼大側の蓮が声をかける。
「悠人さん、ですよね。蒼大の兄さんの」
「……」
「俺の名前を知ってるってことは、こちらの俺とも知り合いなんですね」
「面白いな」芽生側の蓮が、痛みに耐えながら立ち上がった。「三人とも、『俺』と知り合いとは」
悠人の刺すような視線が二人を射抜く。彼は芽生側の蓮に向かって言い放った。
「……それを、よこせ」
芽生側の蓮はそこでようやく気づき、手に握りしめたままだった財布を悠人へと放り投げた。悠人がそれを片手で受け取った瞬間、家の玄関が開いた。
「……何の音? 誰か来たの?」
姿を現したのは、同年代の少女だった。蒼大の妹に違いない。そう確信した瞬間、芽生側の蓮が彼女の名を呼んだ。
「芽生」
「……蓮?」
芽生側の蓮が急いで駆け寄り、芽生は信じられないものを見るような、強烈な眼差しで彼を凝視した。二人は向かい合い、声を潜めて言葉を交わし始める。距離があるため、蒼大側の蓮のところまでは内容は聞こえてこない。
蒼大側の蓮は、「自分」と共にある芽生の姿を見て、一瞬、立ち尽くしてしまった。それは嫉妬というより、そこにいるのが自分ではないという、言いようのない切なさに近かった。
「蓮……!」
我に返ると、いつの間にか蒼大も庭に出て、彼のそばまで来ていた。
「蒼大、お前……」
蒼大の顔には、隠しようのない喜びが溢れていた。蓮も嬉しさが込み上げ、ヘッドロックでもかましてやりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。改めて考えれば、勝手に消えたこいつの行動は看過できるものではない。
「お前……なんで一言もなしに消えたんだよ。どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「……ごめん。どうしても、言い出す勇気がなくて」
「蒼大! 芽生!」
悠人の鋭い怒声が響き渡った。四人は会話を切り、一斉に彼を振り返る。悠人は顎で自分の背後を指し、二人に向かって冷徹に命じた。
「こっちにおいで」
「…………」
「早く」
蒼大と芽生は、それぞれの橋本の顔色を窺いながら、しばらくの間、躊躇うように身をすくめていた。だが、やがて促されるように悠人のそばへと歩き出した。
橋本は行かせまいと蒼大の腕を掴もうとしたが、結局、その手は空を切った。隣を見れば、芽生側の橋本も彼女を止めることができずにいた。二人を連れ戻すためには、まず目の前の悠人を退けなければならないことを、彼らは痛いほど理解していた。
蒼大と芽生が隣に並ぶと、悠人は二人を庇うように一歩前へ出た。先ほどの焦りはすでに消え、その顔には静かな落ち着きが戻っていた。それは取り繕った強がりではなく、天性の不敵さが全身に深く根ざしているかのようだった。真っ直ぐに背を伸ばして立つその風貌は、身長こそ橋本より低いものの、放つ威圧感は彼らを遥かに凌駕していた。
橋本たちが息を呑んで立ち尽くす中、悠人が言い放った。
「お前ら、今すぐ帰れ。じゃないと不法侵入で警察呼ぶから」
「……帰りますよ、もちろん」
思わず敬語が漏れた。
「ただし、蒼大と一緒じゃなきゃ帰りません」
「僕もだ」芽生側の橋本も続いた。「芽生と一緒じゃなきゃ、ここから一歩も動きませんから」
「蒼大と芽生はここに残る。それが結論だ」
「帰ろう、芽生!」
芽生側の橋本が叫んだ。
「芽生のご両親が必死で探してる。俺も、芽生の友達もみんな同じだ。みんな、君に会いたがってるんだ!」
芽生は足元を見つめたまま、何も答えない。代わりに悠人が冷徹に返した。
「心配をかけている自覚はある。だけど、すべてを覚悟した上での決断だよ」
「あんたは黙ってろ! 悠人さんは失うものがない立場だから、そんなことが言えるんだ。……芽生、君が答えてくれ。本当に、これでいいのか?」
芽生は依然として口を閉ざしたままだった。すると今度は、蒼大が口を開いた。
「……僕は覚悟したよ。芽生も同じだ。蓮さえ邪魔しなければ、な」
「……」
芽生側の橋本が、どうすればいいと訴えるように蒼大側の橋本を盗み見た。蒼大側の橋本は答えを出す代わりに、蒼大の顔をじっと観察した。強張ったその表情からは、隠しきれない心の脆さが透けて見えた。
橋本は焦りを押し殺し、ただ事実だけを告げた。
「蒼大。……俺たちの漫画、当選したぞ」
その瞬間、蒼大の強張っていた肩から力が抜けるのがわかった。
「三日前に連絡が来たんだ。でも、お前がいなくなったから、受賞は保留にしてもらってる。……だから帰ろう。戻って、賞を受け取って、二人で夢見た高校生漫画家生活、始めようぜ」
「惑わされるな」
悠人が割り込んだ。
「蒼大、芽生。それはもう、お前たちとは無関係な世界の出来事だよ」
悠人は突如スマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。
「……どこにかけるんだよ」
蒼大が不安げに訊ねる。
「警察」
「はっ……!?」
「ちょっと、本気なの……?」
芽生が声を震わせるが、悠人が答えるより先に通話が繋がった。悠人がスピーカーフォンに切り替えると、警官の事務的な声が庭に響き渡った。悠人は淀みない口調で通報を始めた。
「今、自宅の庭に高校生の男子二人が塀を越えて侵入してきました。不法侵入です、至急来てください。住所は――」
住所を正確に伝え、出動の確認をとると、悠人は淡々と電話を切った。
狼狽える橋本たちに向かって、悠人は告げる。
「無駄な説得はやめて、二人とも帰れ。無事な姿が確認できたんだ、これでいいだろ」
「全然よくない!」
芽生側の橋本が激昂した。
「言ったろ、芽生を連れて帰るまでは絶対に動かないって!」
「なら、逮捕されるだけだぞ」
悠人は軽く肩をすくめた。
「お前たちの場合は状況が『特殊』だ。捕まったら色々面倒なことになるだろうね。……そうなりたくなければ、今のうちに戻った方が良いよ」
「正気じゃない……」
蒼大側の橋本が、呆然と呟いた。
「あんたたち、みんな頭がおかしくなってるんじゃないか?」
「……は?」
「お前の妹と弟が、今どれだけ大切なものを捨てようとしているのか、本当にわかっているのか!? あんたは今、この二人に救いようのない残酷な選択を強いているんだ。……これは、二人を半分殺しているのと同じだぞ!」
「それは君の主観にすぎない」
悠人は揺るがなかった。
「三人で考え抜き、共に選んだ道だ。失うものもあるけど、得るものもある。足りない部分は、こちらの世界で少しずつ埋めていけばいい。血の繋がりもない赤の他人が口を出す問題じゃないんだよ」
「蒼大、お前はどうしたいんだ?」橋本は詰め寄った。
「だから、蒼大はさっき――」
「あんたに訊いてるんじゃない! 蒼大に訊いてるんだ!」
悠人が溜息をつき、言葉を切ると、橋本は重ねて蒼大に訴えかけた。
「もし……お前のその、人を拒絶できない性格のせいで、仕方なくここに残っているんだとしたらどうなんだ? じゃあ、頼む!俺と一緒に帰ってくれ。俺の頼み、断るのか?」
「芽生」
続いて、芽生側の橋本も問いかけた。
「君はどうしたい? 今度こそ、本当に今度こそ、君自身の望みを言ってほしい。どんな答えでも俺はそれに従う。……本当にここに残りたいの? それとも、俺と一緒に帰りたいの?」
わずかな沈黙が流れた。蒼大と芽生がほぼ同時に口を開こうとしたその瞬間、悠人のスマホに着信があった。
悠人は画面をちらりと見ただけで出ようとはせず、代わりに橋本たちを冷たく見据えた。
「さっき通報した時、わざと少し違う住所を教えたんだ」
「……っ」
「だけど、すぐそこまで来ている。次にかかってきたら正確な住所を伝える。そうすれば、一分もしないうちに警察が到着するはずだ」
「でも、まだ二人の返事を……!」
橋本が狼狽えて言葉を濁すと、悠人は心底面倒そうに吐き捨てた。
「まだ状況が把握できていないのか。何度も同じことを言わせるな。……全く、呆れた奴らだよな、蓮」
不意に名前を呼ばれ、橋本は思わず背筋を正した。悠人は鋭く、それでいて淡々とした声で、二人に最後通牒を突きつけた。
「帰れ」
悠人は間もなく電話に出ると、短く言葉を交わしてすぐに切った。蒼大と芽生の表情がさらに暗くなったのを見るに、今度は本当に正しい住所を教えたようだった。
「……どうする?」
芽生側の橋本が藁にもすがる思いで蒼大側の橋本を見つめたが、彼もまた同じ心境で、返す言葉が見つからなかった。その時、一つの名案が脳裏をかすめた。以前、漫画のネタにするために構想していたアイデアが、不意にインスピレーションとして降りてきたのだ。
蒼大側の橋本は、悠人に聞こえないよう声を潜めて言った。
「……一旦、この家から出よう」
「出ようって……『こっち』に残るってことか? 正気かよ」
「でも、わかってるだろ。このまま小屋に戻ってドアを閉めたら、二度とこっちには来られなくなる。あの人がまたドアを開けてくれるはずなんて、絶対にないんだから」
「だからって……」
「ここに居座るつもりじゃない。戦略的後退だ。とにかくあの二人を連れて帰らなきゃ、こっちに来た意味がないだろ」
「……」
覚悟が決まったのか、芽生側の橋本の強張っていた表情が、次第に引き締まっていった。
「とりあえずここを出よう。もうすぐ警察が来る」
「ああ」
橋本は門扉の方を盗み見た。幸い、少しだけ隙間が開いている。
「三つ数えたら、同時に後ろを向いて走る。いいか?」
「わかった」
「……一、二、三!」
二人は同時に背を向け、走り出した。悠人が対応する隙を与えず、門をこじ開けて一目散に外へ飛び出す。
振り返らずに走りながら、蒼大側の橋本が言った。
「俺たちの家に行こう」
「……うち? あ、そうか、そういうことか!」
芽生側の橋本もすぐに理解したようで、それ以上は訊かずに走る速度を上げた。
この次元で、自分たちに力を貸してくれそうな唯一の人間。それは、この次元にいる「自分自身」しかいないはずだった。
「でも、あいつが俺たちのことを信じてくれるかな」
芽生側の橋本が不安げに呟く。
「俺たちを見て、幻覚か何かだと思われたらどうする?」
「お前は、俺を見た時に幻覚だと思ったか?」
「……いや」
「俺もだ。なら、こっちの俺だって同じはずだ」
「だけど、俺たちは蒼大や芽生から話を聞いて、事情を事前に知っていたんだ。こっちの俺は、まだ何も聞いていないかもしれないぞ」
「もしそうなら、俺たちが説明すればいい。……それに、こっちの俺も、すでにあの悠人って人から何か聞かされているかもしれないしな」
「それならいいけど……まあ、行ってみればなんとかなるか」
「それだよ。とりあえずやってみるんだ。橋本蓮らしく行こうぜ!」
二人は最寄り駅まで休まずに走り抜き、電車に飛び乗って自分たちの家へと向かった。




