17
芽生が姿を消してから、一週間が経った。
橋本蓮は自室に閉じこもり、「お前に一目惚れなんてするんじゃなかった」と吐き捨てたあの時の言葉を思い出しては、頭を掻きむしっていた。
「そんなことができたら、こんなに苦労してねえよ、馬鹿……」
当時は怒りに任せ、二度と会わないつもりでいた。だが、一日が経つ頃にはその決心は脆くも崩れ去り、一週間が経った今では、頭の中は芽生のことで埋め尽くされていた。
芽生の様子がおかしかったことには、以前から気づいていた。けれど、彼女が自分のことを滅多に話さない性格だったため、具体的に何があったのかまでは探りようがなかった。彼女の友人たちを訪ねて回ったが、親しい友人にすら私生活を明かしていなかったようで、収穫らしい収穫は得られなかった。むしろ、彼女らよりも自分の方が芽生を深く知っていると言えるほどだった。
状況からすれば単なる家出の可能性が高いと判断されたのか、警察の捜索もあまり熱が入っていないようだった。せめてもの救いは、彼女の両親が仕事を投げ出してまで昼夜を問わず探し回っていることだったが、芽生がまるで蒸発でもしたかのように消えてしまったため、難航しているという話だった。
追い詰められた末、橋本はついに「あの可能性」を考慮せざるを得なくなった。別れ際に芽生が語った、あの冗長で荒唐無稽な言い訳。もしも、あれが本当だったとしたら。
「まさか……」
橋本は苦笑いして首を振ったが、すぐに真顔に戻り、腕を組んだ。そして、あの時の芽生の様子を改めて思い返してみた。
あんな表情の芽生は、確かに初めて見た。底の見えない無表情。たとえば、猛獣に首筋を噛まれたまま死を待つしかない鹿のように、悲しみなどとうに超越してしまったかのような、超然とした顔。
「……いや、違う」
今になって考えれば、違った。あれは諦めの表情ではなかった。助けを求めている顔だったのだ。
橋本は立ち上がった。上着をひっつかみ、家を飛び出した。
しばらくして、橋本は芽生の家の前に到着した。
何度か送り届けたことがあったため道は覚えていたが、敷居を跨ぐのは初めてだった。門扉の前に立ち、「佐々木」と書かれた表札を改めて確認してからインターホンを押す。だが、いくら待っても反応はない。何度か繰り返したが、人の気配は一向に感じられなかった。
橋本はしばし悩み、やがて家の周囲を徘徊し始めた。辺りに人がいないことを確かめると、意を決して塀を乗り越え、敷地内へと侵入した。
「兄妹の部屋」は、すぐに目に留まった。芽生の説明通り、庭の片隅にぽつんと佇む小さな小屋だ。取り壊すと聞いていたが、まだ残されている。おそらく芽生が行方不明になったことで、解体作業が先延ばしになったのだろう。
橋本は小屋に近づき、ドアノブをゆっくりと握った。鍵はかかっておらず、ドアは簡単に開いた。念のため庭の様子を伺ってから、彼は小屋の中へと足を踏み入れた。
ドアを静かに閉めた後、橋本は室内を見渡した。狭くて窮屈な倉庫、あるいは子供たちの秘密基地のような場所だった。芽生の残り香が微かに漂ってはいたものの、特に手がかりらしきものは見当たらない。
橋本は、やはり見当違いだったかと後悔し、引き返そうとノブに手をかけた。だが、彼の手が触れる直前にノブが勝手に回り、ドアがそっと開いた。
中に入ってきたのは――もう一人の橋本だった。
橋本は反射的に一歩身を引いた。驚きというよりは、相手が入りやすいようにと体が勝手に動いたのだ。後から入ってきた橋本は、先客の姿を認めるなり呆然と立ち尽くした。そして、戸惑いながらもドアを閉めた。
「……」
とにかく、幻などではないということだけは確信できた。二人は沈黙の中、しばし互いを見つめ合った。他者の視点で見る自分の顔。鏡で見るのとは随分と印象が違うものだと不思議に思っていると、向こうの橋本がふと口を開いた。
「鏡で見るのと、なんか違う」
「ああ……俺もちょうど同じことを考えてた」
「声も、なんだか変な感じがする」
二人は揃って、こくりと頷いた。続いて、後から来た方が尋ねた。
「お前は、どこの『俺』だ? 俺のところには、次男の蒼大がいるんだけど」
「俺の方は、末っ子の芽生だよ」
「そうか……お前もその妹さんから聞いて、ここに来たのか?」
「ああ」
二人は再び頷き合った。
「どうやら、あれは本当の話だったみたいだな」
蒼大側の橋本はそれほど驚いている様子はなく、それは芽生側の橋本も同じだった。二人とも、まるで珍しい気象現象でも眺めるような心地で、互いを観察していた。
「不思議なこともあるもんだぜ」
「全く。これはもう漫画のネタにするしかない」
軽く笑い飛ばした後、二人はすぐに本題へと移った。
「お前がここに来たってことは……蒼大だっけ、そっちでも佐々木が失踪したわけか?」
「ああ。もう一週間になる」
「俺の方も同じ。やっぱり二人とも、長男のところへ行ってしまったんだろうな」
「たぶん。そうするって言ってたし」
「なら、長男の次元へ行って、二人を連れ戻そう」
「……どうやって行く?」
「ドアを開けて行くしかないだろ」
芽生側の橋本が小屋のドアを見つめながら呟いた。
「確かに、俺もお前も、ドアを通じてここに入ったからな」
「ああ。たぶん、外から入るときは、その人間がどの次元に存在するかで繋がる先が決まる感じらしい。蒼大もそう説明してた」
「うーん……まだ完全には理解できないな」
「なら、実験してみよう」
二人はドアに歩み寄った。蒼大側の橋本が先にドアを開けて外へ出、芽生側の橋本が後に続く。
外へ出ると、すぐにスマホを確認した。
「……圏外だ」
芽生側の橋本が告げると、蒼大側の橋本が言った。
「俺の方は生きてる」
「つまり、ここは『お前の方の次元』ってことだな」
二人は小屋に戻り、今度は芽生側の次元で同じ実験を繰り返した。すると、今度は蒼大側の橋本のスマホだけが圏外になった。
「なるほど」
再び小屋の中。芽生側の橋本は何度も頷きながら、独り言のように整理した。
「わかった。この小屋は、三つの次元を繋ぐ唯一の共有空間なんだ。外から入るときは、どの次元からでもドアを開ければここに来られる。でも中から出る時は、ノブを握った人間の次元に合わせて、外の世界が確定する仕組みらしい」
「『ハウルの動く城』みたいな感じか」
「少し違う気もするけど、まあ、似たようなもんじゃない?」
実験を続けるうちに、もう一つのルールも判明した。一人がノブを握っている間は、他の次元からドアを開けることはできない。次元を跨いで同時に扉を開くことは不可能だった。だが、肝心の問題に対する解決策は見つからなかった。
芽生側の橋本が口を開く。
「これじゃあ、俺たち二人だけじゃあっちには行けないってことじゃん。長男の次元に」
「そうなるな。あっちの誰かがドアを開けて中に入ってくれない限り、今のところ渡る方法がない」
「じゃあ、ここでずっと待ってみようぜ」
「ずっと誰も来なかったら?」
「その時はその時だ。とりあえず、一時間くらい待ってみよう」
「ああ、そうしよう」
二人の待ち時間が始まった。
習慣的にスマホを取り出したが、小屋の中ではどの次元のスマホも圏外だった。芽生側の橋本は、何か別の方法はないものかと室内を歩き回った。すると、円卓の下に財布が一つ落ちているのを見つけた。彼は何気なくそれを拾い上げ、中を確認してみた。
学生証が目に留まり、抜き出してみた。財布の持ち主は悠人。芽生とよく似た面影を持つ、高校三年生の男子だった。
「長男らしいな」
蒼大側の蓮もそばに寄り、学生証を覗き込んだ。芽生側の蓮がさらに財布を探ろうとすると、蒼大側の蓮がそれを制した。
「そこまでにしとけ。人の財布を漁ってどうするつもりだよ」
「でも、お前が先に拾ってたら、今の俺と同じことをしてただろ?」
「……まあ、たぶん。そうだな」
「で、その時は、俺がお前を止めてたはずだよね」
二人は同時に、ニヤリと笑った。
「たぶんな。……よし、もうやめよう」
「ああ」
芽生側の蓮は学生証を元の位置に差し込み、財布を閉じた。
「さすが自分同士だな。意見が合うのが秒速で助かるよ」
「まったくだよ」
そうして財布を円卓の上に置こうとした瞬間、小屋のドアが勢いよく開いた。
外から一人の少年が飛び込んでくる。先ほど学生証で見た、悠人だった。
「……蓮?」
悠人は目の前の蓮を見て面食らった顔をしたが、すぐ後ろにもう一人、同じ顔が並んでいるのを認めた途端、驚愕に目を見開いた。
刹那の静寂。直後、悠人は半開きだったドアを強引に引き寄せた。蒼大側の蓮が素早く内側のノブを掴んで抗い、芽生側の蓮がドアの隙間に腕を突っ込んで閉鎖を阻止する。
悠人は芽生側の蓮の腕を押し戻そうとしたが、蓮の踏ん張りの方が勝った。蓮がさらにドアをこじ開けようとした、その時だ。蓮は悲鳴を上げ、腕の力を抜いた。悠人が彼の腕に、渾身の力で噛みついたのだ。
思わず涙がにじむほどの激痛。顎の力には、肉を食いちぎってでも侵入を阻むという執念がこもっていた。蓮が諦めて腕を引き抜こうとした瞬間、蒼大側の蓮の叫びが響いた。
「耐えろ! ここで閉められたら、二度と開かないぞ!」
その言葉に、芽生側の蓮は再び踏ん張った。気合を入れるように咆哮を上げると、一瞬だけ痛みが麻痺したような錯覚に陥る。腕に一段と力を込めると、ドアがじりじりと開き始めた。蒼大側の蓮も合流して両手でドアを引っ張り、ついに扉が全開になる。二人はその勢いのまま、庭へと突き進むように飛び出した。




