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完全にこちら側の世界へ移り住んでから、一週間が経った。
その間、芽生は毎朝登校するふりをして家を出て、蒼大と一緒に数駅離れた町へ向かい、時間をつぶした。最初は学校をサボるような解放感に浮かれたが、二日もしないうちに不安が楽しさを塗りつぶしてしまった。
高校生の年齢でありながら、どこにも属していない身分。常に薄氷を踏むような危うい立場だった。長期休み中ならまだしも、まだ学期中だ。午前中から昼過ぎにかけて外を歩き回るのは、思いのほか過酷だった。
公衆トイレで私服に着替えてはいたが、芽生と蒼大は誰が見ても未成年者だった。どこへ行っても人目が気になる。外を歩けばパトロールの警官に呼び止められないかとハラハラし、ファミリーレストランや喫茶店に入れば、店員の訝しげな視線にそわそわした。
そうして冷や汗を流しながら時間を潰した後は、再び制服に着替え、家に戻った。母はいつも家で二人を温かく迎えてくれた。悠人は塾を辞めたため帰宅が早くなり、日によっては芽生や蒼大より先に帰っていることもあった。父もまた、夕食の時間になれば律儀に帰宅した。彼が戻るまで、他の四人が食事をせずに待っているからだ。
無理に押し通した「お父さん」「お母さん」という呼び方も、日を追うごとに馴染んでいった。最初はぎこちなかった蒼大も二、三日もすれば自然に呼ぶようになり、父も一週間が過ぎる頃には慣れたのか、平然と受け入れてくれるようになった。順調すぎるほどに、わずか一週間で「家族らしい」空気が定着していった。
「問題は、身分だな」
カフェのカウンターで注文した品を待ちながら、蒼大が呟いた。
「しばらくは、こんな不法滞在者のような身分で生きていかなきゃならない。……いや、僕たちの場合は『不法存在者』とでも呼ぶべきなのかな」
芽生は答えず、むっつりとした顔で店内を見渡した。放課後の時間帯とあって、制服姿の生徒たちが何人も目に付く。当然ながら、自分たちと同じ境遇にある同年代など一人もいなかった。誰もが退屈なほど平穏な学校生活を終え、帰宅前のお喋りを楽しむ、ごく平凡な高校生に見える。
「仕方ないじゃない」芽生は言った。「不法滞在だろうと存在だろうと、もう戻ることも、戻すこともできないんだから」
「……そうだね」
蒼大がため息をつくのを無視するように、芽生は店内の人々を眺め続けた。よく見れば、同じ学校の生徒の姿も混じっている。
「今更だけどさ」蒼大が不意に零した。「僕たち三人、なんで一緒になろうとしたのかな」
「それは、一緒になりたいからでしょ」
「なんで?」
「なんでって……家族だからじゃない、当然でしょ?」
芽生はようやく顔を向け、蒼大を見つめた。彼もまた芽生と同じように、所在なげに店内を眺めていた。
「なによ、お兄ちゃん」芽生は責めるような口調で問うた。「今更、気が変わったって言いたいの?」
「いや、そうじゃない。ただ、ふと疑問に思っただけ」
「何を?」
「なんて言うか……」蒼大は少し頬を掻いてから続けた。「『一緒にいたい』というよりは、『一緒じゃなきゃいけない』っていう義務感の方が、強かったんじゃないかなって思えてさ」
芽生は不意に後頭部を殴られたような感覚に陥った。言われてみれば、自分の中にも同じような思いがあることに気づいてしまったからだ。芽生は動揺を隠すため、あえて声を尖らせた。
「じゃあ何? 私たちは、別に一緒にいたかったわけじゃないって言いたいわけ?」
「そんなこと言ってないだろ。一緒にいたいよ、いつまでも。ただ僕が言いたいのは……」
「だから何なの?」芽生はついに怒りをあらわにした。「今更そんなこと言ったって、何が変わるのよ。もう遅い。戻れないの。お兄ちゃんだってわかってるでしょ?」
「ムキになるな。わかってるって。ただ、予想外の事態が起こるかもしれないだろ」
「……一体、何が言いたいわけ?」
蒼大はカウンターの様子を伺い、声を潜めた。
「万が一、後で『戻れる方法』を見つけたら、その時はどうしたい?」
芽生の心臓がドクンと跳ねた。
「……そんな方法、あるの?」
「いや、『もし見つけたら』っていう話だよ」
「……っ」
拍子抜けした芽生は、すぐに苛立ち混じりの態度に戻った。
「知らないよ!そんなこと考える暇なんてない。私はお兄ちゃんと違って、起こってもいないことを妄想する癖はないんだから。もうそんな無駄な想像はやめて、これからのことを……」
芽生はふと人の気配を感じ、横を向いた。そしてそのまま、彼女は立ちすくんだ。見間違えかと思い目を凝らしたが、幻などではなかった。
すぐそばに、橋本がいた。
橋本は飲み物を注文するために、ちょうどカウンターの前にやってきたところだった。芽生が思わず立ち塞がる形になってしまい、彼が困ったように「あの……」と声をかけるのを聞いて、慌てて道を譲った。
当然ながら、こちらの次元の橋本は、芽生のことなど全く知らない。だが彼は、芽生が退いた後もしばらくその場に佇み、彼女と視線を合わせた。どこか時間が止まってしまったかのような顔。初めて出会った時に見せてくれたあの表情を、こちらの橋本も同じように浮かべていた。
芽生はすぐに視線を逸らした。なんとなく、橋本が今にも話しかけてきそうな気がしたからだ。彼も間もなく視線を外し、カウンターで注文を始めた。それと同時に自分たちの飲み物が出され、芽生はコーヒーを手に取るや否や、後ろも振り返らずに逃げ出すようにカフェを出た。
「さっきの背の高い男子、見た?」
店を出た直後、蒼大が芽生の後を追いながら言った。
「あの人、僕の友達なんだ。あ、もちろんこっちの世界じゃなくて、僕がいた方の。……この前話しただろ? 親しい奴に橋本って名前がいるから、その名前を使うのは少し抵抗があるって。あの人が、その橋本なんだよ」
芽生は呆然と聞き流しながら、ただ歩くことだけに集中した。今は返事をするどころか、呼吸すらままならないほどだった。一方の蒼大は、構わず後ろで言葉を続けた。
「僕、実はあいつと二人で漫画を描いてたんだ。最近も短編を一本仕上げて、賞に応募したばかりでさ……」
その後も蒼大はしばらく自分の話を続けていたが、芽生の耳には遠くから響くかすかな残響程度にしか届かなかった。心ここにあらずのまま足を動かし、気づけば駅前に着いていた。蒼大の思い出話も、ようやく終わりを迎えようとしていた。
「……とにかく、顔を見たらなんだか嬉しくなっちゃった。いや、懐かしいと言うべきなのかな。正直、さっきは少し泣きそうになったよ。……これはきついな。俺の知っている、俺の親友だった蓮には、もう二度と会えないんだもんな……」
芽生は、つっと足を止めた。あまりに唐突だったため、後ろをついてきていた蒼大が軽くぶつかるほどだった。
「……芽生?」
蒼大が隣に並び、芽生の顔を覗き込んだ。彼は芽生の表情を見て、眉間にしわを寄せながら控えめな声で尋ねた。
「……まさか、芽生の知り合いの橋本も、蓮なの?」
「……うん」
芽生はようやく口を開いた。
「彼氏だったの」
しばし、沈黙が流れた。
帰宅ラッシュの時間帯で、歩道には大勢の人が行き交っていた。二人は通行人の邪魔にならないよう隅に寄り、立ち尽くした。何を待っているのか自分たちでも分からなかったが、とにかく何かが通り過ぎるまで、ただ待ち続けた。
やがて、芽生が重い沈黙を破った。
「蓮という知り合いがいることは、悠人兄ちゃんには内緒にしよう。余計な心配をさせたくないから」
「……ああ、そうだね。そうしよう」
蒼大が頷き、二人は家へ帰るため駅の改札へと向かった。




