14
帰宅した芽生はリビングの片隅に向かい、悠人と蒼大の仏壇に置かれた遺影を、目を背けるようにしてそっと伏せた。
二階に上がり、荷物をまとめる。三十分ほどかけて、Mサイズのスーツケースに隙間なく荷物を詰め込んだ。悠人の指示通り、最小限に絞った結果だ。
スーツケースを部屋に残し、リビングへと降りる。冷蔵庫から水を取り出し、喉を潤しながら室内を見渡した。当然のように誰もいない家は、いつものように整然とした廃墟のようだった。空腹の胃に冷たい水が入ったせいか、身体が小刻みに震える。このままでは寒さに負けてしまいそうで、芽生は久しぶりに料理をすることにした。
メニューはカレーに決めた。食卓の上に置かれた、母のカードと「夕食は出前を頼んで」というメモを手に取り、買い物へ向かう。帰宅してすぐに野菜を洗い、本格的に調理を始めた。高校生になってから、こうして「家のご飯」を作るのは、これが初めてだった。とにかく身体を動かしている間だけは、わずかに気分が晴れていくような気がした。
カレーが完成し、ご飯が炊き上がった頃、玄関のドアが開いた。父だった。リビングに入ってきた父は、お玉を握った芽生を見て言った。
「カレー、作ったのか」
「うん。久しぶりに」
父の顔に一瞬、困惑の色が過った。芽生はあえて「食べていく?」とは訊かなかった。
父が訊ねる。
「小屋の荷物、整理は終わったか?」
「……まだ、少し残ってる」
「早めにな。明日、業者が来るから」
「……うん」
父はそのまま自室に入り、すぐに出てきた。服も着替えず、鞄も持ったままだ。
「会社に戻らなきゃいけない」父が言った。「悪いが、飯は外で済ませてくる」
「あ、うん。わかった」
「……悪いな。せっかく作ったのに」
「いいよ。大丈夫。気にしないで」
そのまま背を向けて玄関へ向かおうとする父を、芽生はふと呼び止めた。
「お父さん」
「……ん?」
父が立ち止まり、怪訝そうに振り返る。芽生は思わず視線を落とした。つけていたエプロンに小さなカレーの染みがあるのに気づき、それを親指で無心にこすった。そして、小さく首を振った。
「ううん、なんでもない。……いってらっしゃい」
「そうか。うん、行ってくる」
父が出ていった後、芽生はスマホで動画を流しながら、一人でカレーを食べた。食べ終えてからも母を待ってみたが、夜八時を過ぎても帰宅する気配はなかった。電話をかけようかとも思ったが、結局やめた。
芽生は皿を洗い終えると、スーツケースを手に取って庭に出た。一度も振り返ることなく、まっすぐ『兄妹の部屋』へ入った。
小屋には悠人と蒼大がすでに揃っていた。ほとんど中身のなさそうな軽いバックパックを背負った蒼大が、芽生の重々しいスーツケースを見て鼻で笑った。
「いくらなんでも……」
蒼大が呆れたように言う。
「そんなものを引きずってきたら、随分と図々しく見えるんじゃない?」
「いいじゃないか」
悠人が穏やかな笑みを浮かべてとりなす。
「一旦ここに置いておいて、後で少しずつ運べばいいよ」
「これでもかなり減らしたんだからね」芽生は不満げに呟いた。「部屋を丸ごと移したいくらいだったんだから」
芽生がドアを閉めたのを合図に、悠人と蒼大がゆっくりと席を立った。悠人がドアの前に行き、ノブに手をかける。開ける直前、彼はどこかしんみりとした口調で訊ねた。
「二人とも、いいな?」
「ああ。準備はできてる」
蒼大が先に答え、芽生はわずかに間を置いた。友達の顔、今日まで自分のものだった景色のすべてが、走馬灯のように脳裏を駆け抜けた。母のこと。自分から遠ざかっていった橋本の背中。そして、先ほど見送った父の背中。
芽生は淡々と、深く頷いた。
「うん。大丈夫。……もう、覚悟は決めたから」
悠人がドアを開け、三人はついに、その先へと踏み出した。
芽生は母に案内され、二階にある「自分の部屋」に入った。本来使っていた部屋と同じ間取りではあったが、自分の痕跡が何一つないその空間は、まるで初めて訪れる場所のように感じられた。
服を着替えて階下へ降りると、キッチンで母が食事の支度をしていた。芽生はすぐに歩み寄り、袖をまくって手伝いを始めた。続いて降りてきた悠人と蒼大も、食器の準備や片付けを手伝う。
テーブルのセッティングが整う頃、父が帰宅した。
「お帰りなさい」
リビングに入ってきた父に、母がエプロンを脱ぎながら問いかけた。
「ご飯作ったけど、今日は食べていくわよね?」
「……食べてきた」
父は昨日と同じく、突き放すように短く断った。そのまま芽生と蒼大の方を向き、事務的に言葉を継いだ。
「君たちのことについては、昨夜、妻から聞いた。話し合った結果、親や学校にすぐ知らせるのも最善の策ではないと判断した。だから、昨日も言ったように、しばらくはこの家にいてもいい。案内されたと思うが、二階の空き部屋を自由に使ってくれ」
あらかじめ準備していたかのような、棒読みの通告だった。誰も返事を出さないのを見ると、父はそれを歓迎すると言わんばかりに頷き、すぐさまリビングを立ち去ろうとした。芽生はその背中を凝視し、やがて口を開いた。
「あの」
その瞬間、父の肩が弾かれたようにびくりと震えた。父はたじろぎながら振り返り、芽生に目を向けた。その緊張した顔を見て、芽生は知らず知らずのうちに拳を握っていた。
芽生は努めて丁寧な口調で訊ねた。
「ご飯、どうしてお一緒に召し上がらないんですか?」
短い沈黙が流れ、蒼大が慌てて割り込んできた。
「……さっき仰ったじゃないか。食べてきたって」
芽生はそれを無視して、父だけを見つめ続けた。
「よほど美味しいお店をご存知なんですね。毎日、家の料理には目もくれないところを見ると」
「おい、芽生」
蒼大が引きつった笑みを浮かべて制止する。
「毎日って、いつ毎日見たんだよ。お会いしてまだ二日目じゃん」
「あ、そっか……」
芽生はすぐに気を取り直し、感情を押し殺した。
「悠人先輩から聞いたんですよ。どうせ毎日外で食べてくるから、今日も食べないだろうって。……余計な口出しをしてすみませんでした。ただ、心を込めて料理を作ったおばさんが、なんだかとても可哀想に思えただけですから。……もう、お腹いっぱいで食べられませんよね?」
芽生は取り繕ったような笑顔で話を切り上げた。正直、彼が食べようが食べまいがどうでもよかった。ただ、誰かが目の前で自分に背を向けるという行為に、もう耐えられなかった。
「じゃあ、食べなくてもいいから、座っているだけならどう?」
母が助け舟を出すように、父に提案した。
「四人で食事をすると、きっと賑やかになるわよ。そんな中でお父さん一人だけ部屋にいたら、なんだか気まずいでしょう?」
父はしばらく真剣な面持ちで悩み、やがて慎重に頷いた。ひとつ咳払いをしてから、こう言った。
「……じゃあ、少しだけいただこうか。実は、夕食を少なめに済ませてしまってね」
「ええ、座って。すぐに用意してあげるから」
そうして、五人全員がひとつの食卓を囲むことになった。
父を除いた四人は、それぞれの定位置に腰を下ろした。父は必然的に、全員を正面から見渡せる位置――いわゆる上座に座ることになった。本人は気乗りしない風ではあったが、他の席がすでに埋まっている以上、選択の余地はなかった。
「食卓がこうして埋まるのは、七年ぶりだね」
母がどこか感慨深げに呟くと、芽生もまた胸に迫るものを感じた。ちらりと見れば、悠人や蒼大も同じような面持ちだった。まだ不安定な立場ではあるが、この状況を作れただけでも、心細さがいくらか和らぐような気がした。
それからは、ごくありふれた家庭の、ありふれた夕食の光景が続いた。会話は途切れることなく、主に母と蒼大がたわいもない話を交わし、悠人が時折相槌を打つ。芽生も最初は加わっていたが、いつしか口数を減らし、じっと父の横顔を見つめるようになった。
父は会話を聞いているようではあったが、自分から加わろうとはしなかった。ただ深く頭を下げ、黙々と箸を動かしている。それにしても、「食べてきた」というわりには、なかなかの食いっぷりだった。父が食事をする姿を見るのは、芽生にとっても随分と久しぶりのことだ。彼女は思わず我を忘れ、父のことをじろじろと観察してしまった。
視線に気づいた父が、顔を上げて芽生を見た。
「……何?」
「あ、いえ」芽生はハッとして視線を逸らしたが、すぐに思い直して戻した。「食べてきたわりには、何日も飢えていた人みたいだなと思って」
それを聞いて、母が笑いながら加わった。
「確かに。なんだかいつも飢えているような印象よね、この人」
「失礼な」父がボソリと返した。「食べる速度が速いだけだ」
「結構口に合ったみたいね。美味しいでしょう?」
「……ああ。特に、この味噌汁が」
「あ、それアキちゃんが作ったのよ。サバの味噌煮もね。この子、料理が上手いのよ」
父は何度か頷くと、また黙ってご飯を食べ続けた。
「あの」
芽生が再び父を呼んだ。父が顔を上げると、芽生は単刀直入に切り出した。
「何をそんなに怖がっているんですか?」




