13
あの時、遊園地に行きたいなんてねだらなければ。
隣で歩く蓮の話を聞き流しながら、芽生はふと思った。どれだけ振り払おうとしても、ふとした瞬間に蘇る癖のような後悔だった。
「……芽生?」
耳元をノックするように、蓮の声が届いた。
「聞いてる?」
「あ、うん」
芽生はハッとして隣を振り向いた。かなり身長差があるため、どうしても見上げる形になる。
「聞いてるよ、もちろん。……ええと、なんて言ったっけ?」
「……聞いてなかったってことだな」
「……」
申し訳なさに、自然と頭が下がる。謝るのも白々しい気がして、芽生は唇をぎゅっと噛んで返事の代わりにした。蓮は小さくため息をつくと、すぐに明るい調子で言い直した。
「今週末、時間があったらどこか遊びに行かないかって訊いたんだ。実は昨日、バイト代が入ってさ。それが、結構な額だったんだよね」
「バイト?」芽生が首を傾げた。「蓮、バイトしてたの? いつから?」
「先月から。うちの近くのファミレスだよ。別に隠してたわけじゃないけど、バイト代が入ってから言おうと思って」
「先月って……試験期間中だったじゃん」
「まあね」
「『まあね』って……勉強はどうしたのよ」
「ちゃんとしたよ、もちろん。そのせいで、あんまり寝れなかったけど」
芽生はため息をついた。
「だから最近ずっと疲れた顔をしてたんだ」
「おっ、気づいてくれた?」
「当たり前でしょ。蓮のことなんだから……」
芽生は、自ずと強まった語気を慌てて抑えた。
「……普通、気づくよ。彼氏の体調くらい。ずっと訊こうと思ってたんだけど、そうだったんだね」
「うん」
蓮が何でもないことのように、ただ嬉しそうに見つめてくる。芽生はたまらず視線を逸らした。照れているわけではない。胸が痛かったのだ。ついにお別れの日が近づいているというのに、芽生は依然として、別れに対して無防備なままだった。
「どこか行きたい場所はあるか?」
蓮が続けた。
「今までは俺の行きたいところにばかり付き合わせてたからさ。今度は芽生の行きたいところに行ってみたい」
「……そうだなあ」芽生は努めて悩むふりをした。「行きたい場所、か……」
「やりたいことでも、食べたいものでもいい。何でもいいから、今週末は芽生の好きなことをしよう」
「……」
芽生が沈黙していると、蓮が提案した。
「遊園地はどう?」
「それは嫌」
即答すると、蓮が力なく笑った。
「やっぱり、嫌いなものを言うときは迷いがないな。なのにどうして、好きなことについては何も言ってくれないの?」
芽生は下がりそうになる顔をなんとか持ち上げ、蓮の目を見た。彼の視線は真っ直ぐで、一種の覇気すら感じさせる強さで芽生を射抜いていた。
「俺たち、付き合ってもう半年になるけど、」
蓮は言った。
「俺、芽生が本当に好きなものが何なのか、一度も聞いたことがない気がするんだ。訊いてもいつも『俺の好きなものでいい』って言うだけでさ……。だからずっと、一人で推測するしかなかった。おかげで芽生の嫌いなものは色々わかったよ。でも、嫌いなものばかり把握していてもさ、なんだか寂しいっていうか……」
芽生は再び頭を下げた。聞けば聞くほど、心が地面に釘付けにされるような感覚に陥る。
「そろそろ話してくれないかな。芽生が本当に好きなもの。……それとも、そんなことを打ち明けてくれるほど、俺のことは好きじゃない、とか?」
「違う」
「じゃあ、なんで教えてくれないの?」
「だから……。蓮の好きなものが、本当に私の好きなものだから」
「またそれか……」
蓮は言葉を一度飲み込み、何かを堪えるような口調で言った。
「それはわかってる。痛いくらいわかってるよ。だから今まで芽生の思いを汲んで、俺の好きなことをたくさんやってきた。でも、俺だって同じなんだ。俺だって、芽生が好きなものを好きになりたい」
芽生は逃げ場を探すように周囲を見渡したが、「芽生」と呼ぶ蓮の声に捕らえられ、視線を戻さざるを得なかった。
「単刀直入に訊く。今度こそ、本当に行きたい場所、やりたいこと、欲しいものを言ってくれないか。芽生の『好き』を教えてほしい。……お願い」
最後の「お願い」という言葉が、芽生の頭の中で警鐘のように鳴り響いた。ついに、こんなことまで頼ませてしまった。よくこれまで別れずにいられたものだと、芽生は自嘲した。
ここで答えなければ、それは別れを告げるのと同じことだ。ならば――芽生は腹を決めた。
「……私たち、別れよう」
蓮が、ぴたりと足を止めた。芽生も数歩先で立ち止まり、彼を振り返った。
「え……ちょ、ちょっと待っ……。え?」
蓮は瞬く間に青ざめ、今しがた眠りから覚めたかのように、半分閉じた目で呟いた。
「つまり、その……俺と別れるのが、芽生の『したいこと』なわけ?」
「……うん」
「本気で、言ってるの?」
芽生の動揺が目に見えて伝わったのか、橋本の顔にわずかな血の気が戻った。彼は降参だと言わんばかりに、両手を胸の高さまで上げた。
「わかった。ごめん、もう二度と訊かないから。本当に俺が悪かった。……だから、それだけは正直に言ってくれ。さっきのは、本気じゃないんだろ?」
芽生はただ、沈黙を守るしかなかった。何をどうすればいいのか見当もつかないまま立ち尽くしていると、橋本が畳みかけるように問いを重ねてくる。
「どうしたんだよ? 何かあったんだろ。……実はさ、前からずっと気になってたんだ。芽生、最近変わったよ。あの日、お父さんからの電話を受けてから、絶対におかしくなった。口数も減ったし……。なあ、話してくれよ。それとも、ほかに好きな奴でもできたのか?」
「違う!」
芽生は弾かれたように叫び、高ぶる感情を抑えるようにゆっくりと首を横に振った。他に好きな人ができたなんて、彼にだけはそのような誤解をされたくなかった。
「……違うの」
芽生は覚悟を決め、顔を上げた。
「蓮にだけは、本当のことを話す。少し……いえ、かなり変な話に聞こえるかもしれないけど、真面目に聞いてくれる?」
「もちろん」
橋本が真剣な面持ちで見つめ返すと、芽生は慎重に、言葉を選びながら語り始めた。七年前の事故に始まり、自分の身の上に起きている不可思議な出来事を。橋本は途中で口を挟むことなく、静かに聞き入っていた。昨日、悠人の世界の父親が出張から帰ってきたことまで、芽生はすべてを打ち明けた。
「……だからなの」
芽生は震える声で締めくくった。
「だから、蓮とは離れなきゃいけなくなったの。蓮のことが嫌いになったんじゃなくて……」
話し終えるか終えないかのうちに、鼻で笑うような乾いた声が漏れた。橋本の顔には、あまりに荒唐無稽な話を耳にしたときの、困惑と侮蔑の混じった表情が浮かんでいた。
「本当だよ!」芽生は必死に訴えた。「信じられないなら、今からうちに来て。さっき言った小屋がまだ庭にあるから、中に入って確かめて……」
「いい加減にしてよ」
橋本は今度こそ、怒りを隠さなかった。
「もうやめてくれ。……まさか、亡くなった家族まで利用してまで……そんなに必死に嘘を並べなきゃいけないほど、俺がしつこくつきまとうと思ったの?」
「違う、そうじゃないの……」
「参った。お手上げ。……わかったよ。芽生の望み通りにしてやるから」
「……」
「最後に理由だけ教えてくれ。なんで俺が嫌になった?」
橋本がなじるように問い詰めるが、芽生はさらに深い沈黙に沈んだ。どれほど愚かに見えても仕方がなかった。言葉を発すれば、あるいは顔の筋肉を少しでも動かせば、涙が溢れ出してしまいそうだった。
息苦しい静寂が流れた後、橋本が低い声で吐き捨てた。
「……お前に一目惚れなんて、するんじゃなかったよ」
橋本は背を向け、去っていった。芽生はその背中を見つめながら、もう兄妹も親も、どうでもよくなっていくのを感じた。追いかけたい衝動に駆られたが、結局、足は動かなかった。彼女は目薬をさすときのように、不自然に上を向いた。視界が歪んでいく。それでも涙だけは、最後まで落とさなかった。
「……本当に、その通りね」
一歩遅れた呟きとともに、芽生は再び前を向いた。潤んだ瞳が乾き、視界は明瞭になったが、橋本の姿はもうどこにもなかった。




