たった一つの奇跡
「紗弥さん、遅いですよ。なかなか来ないから、先に真綾に声かけちゃったじゃないですか」
「いや、なんつーか……どんな顔して会えばいいのかわかんなくて。ずっと迷ってたんだよ」
「でも、来てくれたんですね」
「真綾のお姉ちゃんだからね。でも、なかなか三人の輪に入るタイミングが掴めなくてさ」
「ずっと盗み聞きしてたと」
「……はい、すみません」
お姉ちゃんは、理央ちゃんと花凛ちゃんに素直に謝る。その後で、気まずそうに私を見た。そんな私達の様子を見て、理央ちゃんと花凛ちゃんは二人で目配せをする。
「とりあえず、私達は言いたいこと言い終えたんで。下の方で待ってますね」
「ちょ、ちょっと。置いていく気?」
「ここからは、二人でゆっくり話してください。姉妹二人だけの話を」
そう笑顔で言い残すと、理央ちゃんと花凛ちゃんは、本当に私達から離れて行った。展望台には、私とお姉ちゃんの二人だけになる。
「……………………」
しばらく沈黙が続いた。お互い何を話せばいいのか、なんと声をかけたらいいのかわからない。波の音はただ穏やかで、まるで星の瞬きの音とセッションしているようだった。
私の告白は、全部お姉ちゃんに聞かれてしまった。だから、今お姉ちゃんがどう思っているのか、それを聞くのが怖い。でも、それでもお姉ちゃんのそばを離れたくはなかった。
「あのね、お姉ちゃん……」
「うりゃっ」
躊躇いがちに口を開くと、お姉ちゃんは素早い動きで、私の両頬を思いきり横に引っ張った。
「いたたたたたっ」
「これは、私のことを大嫌いって言った罰」
「ご、ごめんなひゃい」
「許すまじ。つーかあんたね、さっきから聞いてりゃ何? やれバンドやめるだの、私を優先するだの、裏切れないだの、好き勝手言ってくれちゃってさ」
「お姉ちゃん?」
「勝手に私を不幸扱いすんなっつってんの。確かに私の人生振り返ったら、なかなか波乱万丈で同情せずにはいられないけどさぁ。べつに私今不幸じゃないからね」
「そうなの?」
「はあ?」
不思議そうな顔をしてしまった私を見て、お姉ちゃんが頬を引っ張る手に力を込める。「いたぁいっ」と涙目で抗議すると、お姉ちゃんはやっとその手を離してくれた。
「確かにケンカもしちゃったけど。あれ、ただの嫉妬だし。もう真綾にとって私は必要ないのかなって、そう思ったら急に怖くなったの」
「どうして?」
「その時までの私は、真綾のお姉ちゃんでいることがこの世の存在意義になってたから。有り体に言えば、生きる意味っていうのかな。それを真綾に押し付けてたの」
「お姉ちゃん……ごめん、言ってる意味がよくわかんない」
正直に告白すると、お姉ちゃんはこめかみをピクピクさせながら、私の頭を鷲掴みした。
「お前はバカか、バカなのか。ああ、そうだった。あんたはおバカさんだったな、おい」
「お、お姉ちゃん、これ痛いっ」
頭が潰れる。私が痛いと必死にもがくと、お姉ちゃんは苦笑しながらその手を離してくれた。
「私さ、狡くて卑怯なやつなんだよ。真綾は、私がなんで養子話を受けたかわかる?」
「それは、桜明女学園に行きたかったからでしょ」
「確かにそれもある。でも本当はね、紗綾さんが羨ましかったんだ。真綾の駆け引きも打算もない純粋な“大好き”を、紗綾さんは一身に受けてた。だから、私が紗綾さんに成り代わって、それを独り占めしたくなったの」
「ウソでしょ?」
「本当。だから、真綾が思ってるような、紗綾お姉ちゃんを押し付けてるっていうのは間違い。本当は、私が自分から紗綾さんになってたの。うわ、やっぱり私腹黒い」
お姉ちゃんはそう言って頭を抱える。そんなお姉ちゃんの姿を眺めていると、不思議と自分の心が少し軽くなったような気がした。
「もしかして、お姉ちゃんがマチモンに嫉妬してたのって……」
「真綾の大好きが、私以外に向けられていくようになっちゃったから。自分の居場所が無くなっていくような気がして怖かったんです。ごめんなさい」
お姉ちゃんはそう言って頭を下げる。私は咄嗟に何て返したらいいのかわからなかった。
「お姉ちゃんは、マチモンが嫌い?」
「嫌いだったら何の問題もなく憎めたのにね。厄介なことに、大好きなんだよ。理央ちゃんと、花凛ちゃんと、そして真綾の三人が奏でる音楽が、歌が、私は大好き。だから、解散なんてしたら許さないから」
「でも、お姉ちゃんは居場所が無くなるみたいで怖いんでしょ」
「それはケンカする前の話。真綾が歌えなくなった時さ、不謹慎だけどちょっとホッとしたんだよね。ああ、私はまだ真綾に必要とされてるって。だから今度は、真綾のためにも私がちゃんと紗綾さん離れしないといけないなって思った。私は、真綾のお姉ちゃんなんだから、もっとしっかりしなきゃって。腹くくったら、ちょっと気持ちが楽になった」
「本当に?」
「本当。だから、あんたは私のこと気にせず、もっと自由に生きていいの。理央ちゃんと花凛ちゃんと、三人でマチモンとして歌いたいなら、そうしていいんだよ。その方が私は嬉しいし」
「でも……」
「でも、じゃない。前にも言ったでしょ、私のためにも歌え、バカ」
お姉ちゃんは白い歯を見せながら、私にデコピンをする。私が「痛い」と額を押さえると、さらに楽しそうに笑った。
無理しているようには見えない。純粋に楽しそうに笑っている。それを見て、これはお姉ちゃんの本心なんだと確信した。
「お姉ちゃんは、紗綾お姉ちゃんでいることが辛くなかったの?」
「辛くなかったといえばウソになる。でも、自信がなかった。紗綾さんの仮面を取った私を、真綾が大好きになってくれるか、その自信が。真綾に嫌われるんじゃないかって、その恐怖の方が優ってた。たぶん、私の方が紗綾さんにしがみついてたのかも。本当は、高校受験の時にちゃんと突き放せてれば良かったのにね。土壇場で怖くなって、私が紗綾さんを手放せなかった。ダメなお姉ちゃんだよ」
お姉ちゃんはそう言って自嘲気味に笑う。その微笑みが切なくて、私の胸は締めつけられた。
まさか、お姉ちゃんがそんなことを考えているなんて思いもしなかった。ずっと、私の身勝手で苦しめているもんだと、辛い思いをさせているもんだと、そう思っていた。でも、まさかお姉ちゃんも紗綾お姉ちゃんを必要としてたなんて。
「あー、ほんと私ってダメ。理央ちゃんと花凛ちゃんに、腹くくったって、荒療治だ、って啖呵切ったのに。やっぱ真綾の顔見たら決意が揺らぐなぁ」
「どういうこと?」
「きっと理央ちゃんと花凛ちゃんには怒られるんだろうけれど。私はさっき言ったみたいに紗綾さん離れする。でも、真綾は無理しなくていいよ。真綾がまだ必要っていうんなら、私はいつまでも紗綾お姉ちゃんでいてあげるよ。真綾の気の済むまで、心の整理がちゃんとできるまで、私は真綾の大好きな紗綾お姉ちゃんでいてあげる。だから、真綾の好きに生きていいよ」
「お姉ちゃん……」
ウソ偽りのない、お姉ちゃんの笑み。それを見ていて、何故だろう、すごく泣きたくなった。
私は、いつまでこの優しい人を縛りつけておく気だろう。いつまでも現実から逃げて、自分は変われないままで、周りに迷惑をかけて。本当にこのままでいいのだろうか。
「私、Marching Little Monsterとして歌うことができて、すごく幸せだった。お客さん達が私達の歌を聴いて笑顔になっていくのが嬉しかったの」
「うん」
「でも、その反面苦しかった。お姉ちゃんは色んなこと犠牲にして私のそばにいてくれてるのに、私だけ幸せになっていいのかなって。そんなの許されないんじゃないかって」
「言っとくけど、私そんな慈悲深い人間じゃないからね。何の見返りも無しに誰かのために生きるなんて、そんな聖母のような心は持ち合わせてないから」
「じゃあ、なんでお姉ちゃんは私のそばにいてくれるの? お姉ちゃんは私といて幸せだった?」
どうしても聞いておきたい質問だった。慈悲深い人間でないというのなら、どうして桜明を、自分の居場所を、私なんかのために犠牲にすることができたのか。どうして、そうまでしてこんなひどい私のそばにずっといてくれたのか。
私は、お姉ちゃんのために何かしてあげられていただろうか。知りたかったお姉ちゃんの想い。今のお姉ちゃんになら、私達なら、それを聞ける気がした。
お姉ちゃんはすぐには答えず、少しの間海と星空の絶景を愛おしそうに眺める。その後で小さな白い息をふうっと吐くと、それを夜の闇に溶け込ませた。
「私さ、親に捨てられた孤児だったでしょ。だから、ずっと愛情っていうものを知らずに育ってきたの。誰もが当たり前にもらえるものを、私は与えられなかったから」
「うん」
「だからね、そんな愛情を知らない私が、もし誰かを愛するようなことがあったら、それは奇跡だと思った。こんなどうしようもない私の身に起きた、たった一つの奇跡だって」
「奇跡……」
「そう。そして私は、奇跡に出会った」
そう言って、お姉ちゃんは私を見た。
「真綾と出会ってから、私にはずっと奇跡が起こってる。誰かを愛する喜びを、幸せを、真綾はずっと私に与えてくれてたんだよ。これで幸せにならない方がおかしいじゃない」
「本当……に?」
「愛してるよ、真綾。私を見つけてくれて、お姉ちゃんにしてくれて、ありがとう」
そう言って、お姉ちゃんは両手を広げて、屈託のない笑顔を私に向ける。
それを見た瞬間、私の中のしがらみが解けていくのを感じた。自分自身でがんじがらめに巻いた鎖が、一本ずつ音を立てて崩れていく。そうして解放された私の背中を、紗綾お姉ちゃんが優しく押してくれたような気がした。「行っていいよ」と、そう微笑みながら。
もうこんな醜い卑怯な自分も何もかも許されたような気がして、私は耐えられなくなって広げられたその胸へと飛び込んだ。




