紗綾の事故
そのケンカの原因は、とても些細なものだった。
「やだ、ウサちゃんがいい!」
「真綾はクマちゃん持ってるでしょ」
「違うの、今日はお姉ちゃんの持ってるウサちゃんがいいの!」
両親に買ってもらった、クマとウサギのぬいぐるみ。紗綾お姉ちゃんも私も、どちらも気に入っていたので、お互いその日の気分でクマかウサギ、どちらを持つか決めていた。
紗綾お姉ちゃんは、いつも私から先に決めさせる。この日私が選んだのはクマのぬいぐるみ。だから、紗綾お姉ちゃんの言い分は正しい。あれはただの私のワガママだった。
年子だった私達姉妹は、他の子達と比べてもとても仲が良かったと思う。紗綾お姉ちゃんの小学校入学祝いの時に買ったクマのぬいぐるみ。それが羨ましくて駄々をこねたら、根負けした両親がウサギのぬいぐるみを買ってくれた。それなのに、クマのぬいぐるみも貸して欲しいと言う妹のワガママを、紗綾お姉ちゃんは仕方ないなと笑って許してくれた。
そう、紗綾お姉ちゃんはいつだって私に甘く、そしてとても優しい。だからこそ、ケンカしてもすぐに仲直りしたいと思うくらい大好きだった。
それなのに。
季節は春、紗綾お姉ちゃんの十二歳の誕生日。両親と紗綾お姉ちゃんの四人でのおでかけ。横断歩道で信号待ちをしている時に、私達姉妹はケンカになった。いつもは自分から折れてくれる紗綾お姉ちゃんだったけれど、さすがにこの日ばかりは我慢できなかったらしい。
「今日は私の誕生日なんだから、今日くらい真綾は我慢して」
「やだ。ウサちゃんがいい」
「真綾、いい加減にして!」
紗綾お姉ちゃんがそう声を荒げる。自分のワガママが通らない。そうわかると、私は目に涙を溜めながら、癇癪を起こすかのように喚き散らした。
「お姉ちゃんのバカ! 大っ嫌い!」
思わず投げたクマは、しかし紗綾お姉ちゃんには当たらず、いとも簡単に避けられる。その先は車が行き交う横断歩道。クマのぬいぐるみは、そこにべしゃりと落ちてしまった。
「クマちゃん!」
このままじゃ、クマちゃんが車に轢かれてしまう。紗綾お姉ちゃんのお気に入りのクマなのに。そう思ったら、反射的に私は横断歩道に飛び出していた。
信号は赤。クマのぬいぐるみを拾って安堵する間もなく、横からクラクションを鳴らしながらトラックが私めがけて走ってくる。その現実に、私は恐怖で身体が動かない。
「真綾!」
そこからは、スローモーションだった。両親よりも先に動き出した紗綾お姉ちゃんが、私を反対側へと突き飛ばす。そして、トラックの方を振り返るのと同時に、紗綾お姉ちゃんはトラックと衝突して、はるか先の道路へ飛んでいってしまった。
「お姉……ちゃん?」
目の前で起こったことが、うまく脳内で処理できなかった。
今何が起こったんだろう。私がクマちゃんを拾って、そしたらトラックが横から来て。紗綾お姉ちゃんが私を突き飛ばして、そしてトラックにはねられて。
小刻みに震える身体のまま、首だけ動かして倒れたまま動かない紗綾お姉ちゃんを見る。遠目から見ても、絵の具よりも濃い赤い血が紗綾お姉ちゃんの周りに水溜りを作っていた。
母の悲鳴と、父の紗綾お姉ちゃんを呼ぶ声がぐぐもって聞こえる。二人がどれだけ呼んでも、紗綾お姉ちゃんはピクリとも動かない。そこでやっと、私は事態を把握した。身体中から血の気が引いて、パニックと恐怖で呼吸すらままならなくなる。
「あ……あ……っ、おね……いやあぁぁ!」
涙と恐怖にまみれた顔のまま、私は膝から崩れ落ちる。そして、その場で何度も何度も紗綾お姉ちゃんの名前を叫んだ。でも、一向に返事は返ってこなかった。
そこからの記憶は曖昧だった。私は気付けば祖父母の家で喪服を着て仏間に正座していた。周りには同じように黒い服を着た大人の人や紗綾お姉ちゃんの学校の友達なんかが、沈痛な面持ちで勢揃いしている。中には泣いている人もいた。
「……せめて、紗綾ちゃんが大好きだったここで葬式をしてあげたいって、ご両親が強く望んだそうよ」
周りの大人の話し声。でも、私にはこの人達が何を言っているのか理解できなかった。
紗綾お姉ちゃん? 葬式? いったい何のことだろう。あの優しい紗綾お姉ちゃんが、私を置いて死ぬわけないのに。
ああ、そうか。たぶんこれは壮大なドッキリなんだ。紗綾お姉ちゃんが死んだなんてウソついて、みんなで私を騙して笑おうとしてるんだ。そして最後になって紗綾お姉ちゃんが出てきて、「ビックリした?」って笑いながら私を抱きしめてくれるに違いない。でも、私はそんなのには引っかからないぞ。そんなことを考えつつ、お経を唱える住職の向こうで、太陽のように笑っている紗綾お姉ちゃんの写真を見ながら、私は逆にどうやって紗綾お姉ちゃんを驚かそうかと考えていた。
でも、紗綾お姉ちゃんはいつまで経っても、私を抱きしめに来てはくれなかった。
式が進み、棺桶の中に入っている紗綾お姉ちゃんが姿を現した。葬儀屋のお姉さんがみんなに花を持たせ始め、その棺桶の中に添えるよう指示を出す。
紗綾お姉ちゃんは、まるで眠っているようだった。いつものように、ちょっとお昼寝しているだけみたいな、穏やかな寝顔。だから私は、お花を入れつつ紗綾お姉ちゃんを起こしてあげようと肩を揺すった。
「紗綾お姉ちゃん、何寝てるの? もうお昼だよ。いい加減起きないとお母さんが怒っちゃうよ?」
そう言って、何度も何度も紗綾お姉ちゃんの肩を揺する。いつもならすぐ起きるのに、今日はなかなか目を覚まさない。私の手に力がこもる。
「紗綾お姉ちゃん! 早く起きて。一緒に遊ぶ約束でしょ? ほら、お姉ちゃんの大好きなクマちゃんもいるよ」
棺桶に一緒に入っていたクマのぬいぐるみを、紗綾お姉ちゃんの顔に擦り付ける。それでも紗綾お姉ちゃんは目を覚まさない。
「なんで……なんでお姉ちゃん起きないの? 早く目を覚ましてよ、紗綾お姉ちゃん!」
「真綾! いい加減にしなさい」
耐えられなくなった母が、私をきつく抱きしめて棺桶から引き剥がす。それでも、私は紗綾お姉ちゃんの元へ行こうと必死に抵抗した。
「だって、紗綾お姉ちゃん寝てるだけなのに。これじゃあ、死んだ東京のおじいちゃんのお葬式みたいじゃん。お姉ちゃんは生きてるのに」
「真綾……」
「紗綾お姉ちゃんは生きてるの。ただ寝てるだけなの! だから、だから私が起こしてあげるの!」
「紗綾は死んだの!」
母の悲痛な叫び。周囲のどよめきが収まり、少しの静寂が訪れる。母は泣いていた。
「お願いだから、これ以上悲しませないで……っ」
再びきつく抱きしめられた向こうで、母のむせび泣く声が遠く聞こえる。それでも、私は母の言葉を信じたくはなかった。
蓋が閉められ、静かに運ばれていく棺桶。私は周囲の大人に必死に懇願する。
「やめて……紗綾お姉ちゃんを連れて行かないで! お姉ちゃんは生きてるの。ただ寝てるだけなの。だから、お姉ちゃんを連れて行かないで! 私から離さないで! 行かないで、お姉ちゃん! 紗綾お姉ちゃん!」
私の願いも虚しく、棺桶は霊柩車に飲み込まれていった。そして数時間後、紗綾お姉ちゃんは白い煙となって青い空に吸い込まれていった。




