八(アヴェリノ視点)
その日の夜、アヴェリノはジェラルドと共に離宮へとやって来ていた。
アヴェリノがここを訪ねるのは新年の挨拶以来、およそ半年ぶり。緊張に肩に力が入る。
離宮の回廊を進み、やがて突き当たりの扉の前で立ち止まる。
アヴェリノは一つ深く呼吸をし、侍従に視線をやった。
「皇帝陛下と皇太子殿下のおなりです」
その言葉と共に、扉が開く。
狭めの部屋には品のいい調度品が並ぶ。
その奥のソファに腰掛けるのは、白銀の髪を結い上げた、ゾッとするほど美しい女。
「よく来ましたね。座りなさい」
ああ、これだから嫌なのだとアヴェリノは思った。この場の主導権を握る者が誰か、一目で感じ取れた。
「……それで、お話というのは」
アヴェリノにしては弱腰でそう尋ねる。侍従も最低限の私的な場ゆえなのもあった。
女……皇太后は悠然と微笑んだ。
「ジェラルドの処遇を、どのようにするつもりか、聞きたくて」
前置きのない真正面からの問い。アヴェリノは反射的に拳を握りしめる。けれど、俯かなかった。
すでに前提は共有されている。一体どこから情報が行ったのかは不明だが、この女は全てを知っているのだ。
アヴェリノは生唾を飲み込み、ゆっくりと口を開いた。
「……例の件は水面下で広がりを見せています。下手に破棄したことを撤回すれば、ジェラルドの感情論が公になる。ヴィクトリア嬢との婚約は、理由をつけて解消という形に整えて、新たな婚約者選定を」
皇太后は微笑んだまま、ただ一言。
「へぇ」
分かっている。アヴェリノだって、この案の問題点はよく理解していた。
帝国には、五公皇后輩出の原則というものがある。平時において、帝国内の貴族から皇后を迎える場合に、五公家を第一の候補とする政治的・儀礼的慣習だ。
しかし、当代皇帝のアヴェリノの妻ネリッサは外国出身。国内貴族の一部、特に保守派は不満を持っている。
ゆえに、ジェラルドの婚姻は原則に従うべきなのだが、適齢期の娘は限られていた。
帝国最古参のエデルシュト家、その一人娘は婿を取り後継ぎとなると決まっている。
ボンフォール家の娘はまだ十代前半。もう数年は様子を見る必要がある。
プラト家の娘に至っては十にも満たない。
カークレット家にはそもそも娘がいない。
選択肢はあるようでない。すなわち。
「……ヴィクトリア嬢の妹、オベリア嬢をジェラルドの婚約者にする。それが最も混乱の少ない方法かと」
アヴェリノの言葉に、皇太后は頷いた。
「オベリアを皇太子の婚約者にするのは賛成よ。セナレムの面子も保たれる」
アヴェリノは思わず安堵から肩の力を抜いた。だが次の瞬間。
「けれど、皇太子ジェラルドが一方的に婚約を破棄した件は、間違いなく広まるでしょうね。婚約者変更がヴィクトリアの妹、オベリアだというのも外聞が悪いわ。疑義を呈すにも、ジェラルドは一人息子。対抗馬がいないから、不満は地下に潜ってしまう」
どうやら皇太后は、この妥協案がお気に召さないらしい。しかも口ぶりを見るにおそらく、すでに保守派が動き出したことを察知しているらしい。
アヴェリノは奥歯を噛み締める。
「ならば、どうしろと」
皇太后はゆったりとジェラルドに視線を向ける。
「ねぇ、ジェラルド。あなた、言いたいことがあるのではなくて?」
突然矛先を向けられたジェラルドの肩が跳ねる。
ジェラルドは一瞬アヴェリノの目を見た。そして、何かを決意したように皇太后に視線を戻す。
「……私は、自分が皇太子に相応しくないのではと考えています」
「ジェラルド、なにを」
アヴェリノは困惑し、顔から血の気が引くのが分かった。
「私は衝動に任せて、国家にとって重大な取り決めを破綻させかけました。今後同じことはしないと、口では言えても……実際にできるか、不安が残ります」
「だ、だが、お前以外に皇太子が務まる者などいない」
アヴェリノの声は掠れた。そして、この話の行き着く先を、薄々理解し始めていた。
「ねぇ、皇帝陛下。皇太后たるこの私が、後継者一人という不安定な状況を、ただ見ているだけだと本気でお思いかしら」
アヴェリノの目が皇太后に向く。
彼女は一つの封筒を前に出した。
「さ、これをご覧になって」
それを開いた瞬間、アヴェリノは無意識に奥歯を噛んだ。
ずらりと並んだ皇統男子の名前。年齢に性格、家格と三親等までの詳細。
そして、皇籍移籍させる上での問題点。
「こんなもの、いつ……」
アヴェリノは途中で口を止めた。皇太后の前では、それこそが愚問なのだ。
書類の中ほどに差し掛かった時、一人の男の名前があった。その男の備考欄だけ、問題点がやけに少なかった。
「オルベール・プラト」
そう呟いたアヴェリノに、皇太后は満足げに頷いた。
「女系男子一世。帝国法において明確に継承権を有する、私の孫。人柄もよく、交友関係も広い。なにより」
「……オベリア・セナレムの婚約者」
アヴェリノは苦々しげに言った。そして、皇太后を真っ直ぐ見返す。
「ですが、この者がジェラルドより優れている保証は一体どこにあるのですか」
皇太后は目を細めた。
「そんなもの、ないわ」
「……は?」
アヴェリノは思わず間の抜けた声を上げた。けれど、皇太后は構うことなく続ける。
「けれどね、あの子は問題を起こさないの。生まれてこのかた、一度もね。そしてそれは、偶然ではない。書類をご覧なさい。並々ならぬ調停をした話の数々。あの子はね、問題が起こる前に片付けているの」
「ですが、調停者と皇帝は違います!時として反対されてでも下すべき決断が……っ」
必死に言い募るアヴェリノに、皇太后はもう一つ封筒を出した。
「……これは」
アヴェリノは震える指で受け取り、その中にある書類を読む。そして、息を呑んだ。
「その決断すら、あの子はより摩擦の少ないやり方を考えられる。こと、ある分野においては皇帝陛下、おそらくあなたよりも」
そこには、今活発になっている『バザン王国併合論』に対する、オルベールのものと思しき私的見解が述べられていた。
バザン王国。先帝の時代にあった大戦争の敗戦国ながら、帝国に併合されなかった国。軍務院のタカ派は、ここを帝国領にするまでは戦争は終わっていないと声高に叫んでいた。
対するアヴェリノは、第二次西大陸戦争の帝国勝利により拡大した版図を管理するのに手一杯な帝国の現状を見、専守防衛路線を取り対立していた。
それに対する理想的な解の一つとも言えるのが、オルベールの案だ。
「勝手なことを」
負け惜しみのように零れたアヴェリノの言葉に、皇太后は笑った。
「あら、貴族ごとの私見を把握しておくのは、上に立つ者の努めよ」
「……考えさせて、ください」
「ええ、この国の最終決定権はあなたが持っているわ。皇帝陛下」
皇太后は食い下がらなかった。代わりに一つ付け足す。
「ただし、今週中にお決めになって。それ以上は貴族の我慢が保たないわ」
アヴェリノは逃げるように部屋を出た。今の顔を、皇太后に見られたくなかった。




