六(ジェラルド視点)
ジェラルド・ヴァロニアは生まれた時から皇太子だった。
皇帝唯一の子にして男児。未来は決められていて、疑う余地などなかった。
その事実に、何も思わなかったわけではない。
けれどそれでも、自分しかやる人間がいないのなら望まれる皇太子であろう、そう努めるのがジェラルドという人間だった。
十歳を迎えたジェラルドは、帝国立貴族学園に入学した。
だが、他の者たちのように気兼ねなく心許せる友人ができることはなかった。皇太子という肩書は、いつでも、どこでもついて回ったから。
それでも、そういうものだと己を納得させてきた。
信頼できる従者がいたのも大きかった。
彼は常にジェラルドの心に寄り添い、献身的に仕えた。自分のためにそこまでする人間がいるのだからとジェラルドはより一層、己を律した。
そしてジェラルドは、十五歳で社交界に出た。
大勢の目が、声が、思惑が、ジェラルドの一挙手一投足を審査する。常に品定めされている感覚。
たまたま一人息子に生まれただけのお飾りではなく、誰もが認める内実を伴う皇太子であろうと、ジェラルドはより一層努めた。
十八歳の誕生日を迎えた年、婚約者ができた。未来の妻。自分の隣に立ち、生涯を共にする人。ジェラルドの心が踊らなかったと言えば、嘘になる。
ヴィクトリアのことは、前から知っていた。ジェラルドの一つ年下の彼女は才媛としてすでに有名だった。
それでも、顔合わせの場でその美しさを間近で見たジェラルドは、ほんの少し心臓が跳ねたのだ。
だからこそ、ヴィクトリアの隣に常にユリウスという男がいると知った時。二人の関係に対して抱いた感情は決して、“未来の皇太子妃として危険”という不安だけではなかった。
嫉妬もあった。憧れもあった。
ジェラルドにだって従者がいる。
だが、対等ではない。同志ではない。
忌憚のない意見を互いにぶつけ合い、尊重し、認め合える存在は、ジェラルドにない。
ジェラルドはユリウスが羨ましかった。いや、正確にはユリウスとヴィクトリアの関係が、羨ましかったのだ。
だからこそ、二人の関係が口さがない者たちに噂された時、ジェラルドは少し安堵した。
二人の関係を指を咥えて見ているだけの立場に甘んじる必要はないのだと、正当性を得た気分だった。
しかし、ジェラルドがやんわりと嗜めてもヴィクトリアは理解していなかった。
聡明な女性と尊敬していただけに、失望も大きかった。彼女が未来の皇太子妃で本当に大丈夫なのかという気持ちもあった。
その気持ちが一層強くなったのは、ヴィクトリアとユリウスが密室に長時間篭っていたという噂が出てからだ。
最初は、何かの間違いだろうと思った。
事実確認をする勇気はなかった。頷かれたら、その瞬間に問題が顕在化する。そんなことをする女性を皇太子の婚約者として選んだ人間にまで、責が及ぶ可能性もある。
……なぜ、自分がこんなことまで考えなければいけないのか。ジェラルドは日に日に不満を募らせていた。
そしてようやく決心がついたのだ。皇帝である父、アヴェリノに相談する決心が。
だが、アヴェリノは多忙だった。外遊に勤しむ母に代わり内政を一身に担うアヴェリノは、常に忙殺されていた。
「火急の用でないなら、後にしろ」
そう淡々と言うアヴェリノにジェラルドは問うた。後とはいつか、と。
アヴェリノは首を傾げた。
「この案件が終わってから……いや、これもあったな。ああ、あれも。しばらくは難しい」
ジェラルドにとってこの相談がどれだけ勇気を振り絞ったかなど、父にとって無意味だった。
どこまでも帝国の皇帝として、優先順位をつける。
ジェラルドは将来自分もそうなってしまうのかもしれないと思った時、背筋がゾッとした。
そして気落ちしたジェラルドを慰めた従者は言ったのだ。
「殿下が将来治める国を、その目で見てみませんか。息抜きも兼ねて」
初めて訪れた城下町は新鮮で、美しく、活気にあふれ、何よりとても自由だった。
ジェラルドはそこで、小さな、一日だけの恋をした。
リジーと名乗った少女は、どこまでも素朴で愛らしく、したたかで生き生きとしていた。
そして、最悪の再会をした。
皇太子として参加した夜会。リジーは貴族令嬢だったのだ。
彼女はジェラルドの顔を見、その周囲を見、そっと視線を外した。ジェラルドもまた、それを受け入れた。
そしてジェラルドが顔を背けたその先に、ヴィクトリアとユリウスがいた。
ジェラルドには許されない。貴族令嬢であるリジーと会話をすることはおろか、目を合わせることすら意味を持つ。なのに、あれはなんだ。
皇太子の婚約者であるはずのヴィクトリアは、当然のように近い距離でユリウスと語り合い、触れ合い、周囲はそれを受け入れている。
問題視する者は“心が不純なのだ”と謗りを受ける。だから表立って批判する者はいない。
不満は裏で蔓延し、ジェラルドがその対処に追われる。
あまりに、あまりに。
気づけば口を開いていた。
「ヴィクトリア・セナレム。君との婚約を破棄する」




