十二(レヌマ副院長視点)
ここ数日のレヌマ副院長はやけに大人しかった。それこそ、ルルニア院長が驚くほどに。
だが、レヌマ副院長の頭の中を埋め尽くすのは、もっぱらリュシーム連合とトドル王国のことであった。
初めて意識したこの二か国に対する気持ちが、レヌマ副院長はどうにもハッキリしなかった。
ずっと、敵を……バザン王国を討ち滅ぼすのだと信じてきた。それが帝国のためであると、語ってきた。
少数だが同じ気持ちの者もいた。
レヌマ副院長の考えは崇高な理念だった、はずだ。
しかし、討ち滅ぼす対象をバザン王国から逸らした時。レヌマ副院長の見通しはブレた。
帝国の敵を屠ること。それが間違いであるはずがない。なのになぜ、こんなにも心は冷えているのか。
バザン併合を語る時のような、腹の底から湧き出る情熱が微塵も湧いてこない。
それがとても、気持ち悪かった。
「……私が滅ぼしたいのは、帝国の敵ではなくバザン王国なのか」
そこに行き着いた時、ゾッとした。
今自分は何を考えた?それではまるで、これまで掲げてきた理念が“建前”であるのと同義だ。
そんなことはあってはならない。
レヌマ副院長は理念を信じている。そのはずだ。そうでなければ、ただの道化だ。
失った青春時代の大戦争の勝利を取り戻そうとみっともなく足掻く、亡霊だ。
けれど一度見つけた“答え”から、目を逸らせない。
レヌマ副院長は嘘が下手で、実直で、どこまでも愚かだ。自己欺瞞など器用なことはできない。
気づけば足は帝国立女学校に向いていた。聡明な娘が教師として働く、その場所へ。
「突然お越しになるから、驚きましたよ。お父様」
そうぼやくのは、レヌマ副院長によく似た華のない女。
「……ルージェナ、お前は相変わらずだな」
「褒め言葉と受け取っておきます」
その微笑み方は、亡き妻を思い出させた。
「お前に……聞きたいことがあるんだ」
「あら、珍しい。なんですか?」
首を傾げるルージェナは、まだ二十になったばかりの小娘だ。
しかし、その才能は誰よりもレヌマ副院長が理解していた。
帝国最難関と言われる帝国立女学校を首席で卒業し、レヌマ副院長を言い負かし、今もこうして女学校の教師をやっているのだ。
レヌマ副院長はこの娘になら、現実を突きつけられても受け入れられる気がした。
「私はずっと、バザン王国を併合することこそ帝国のためになると信じてきた」
「存じておりますよ。酔えばいつもその話でしたもの。ですが今日は、素面のようですね」
冗談めかして言うルージェナに、レヌマ副院長は乾いた声で笑う。
「はっ……ああ。生憎、素面だ。それで……それでだな」
言い淀むレヌマ副院長を、ルージェナは急かさなかった。
ただそっと、紅茶を注いで出した。
レヌマ副院長は紅茶を一口含み、口の中を湿らせる。大きく息を吐いて、なんとか口を開いた。
「……最近になってバザン以外の国に、おそらく初めて目を向けたのだ。バザン以外と戦争をして勝利する。そう、考えた時……私はなぜか、頭にモヤがかかったようだった。高揚しなかったんだ」
レヌマ副院長はルージェナの目を真っ直ぐに見た。
「ルージェナ、聡明なお前ならその理由が分かるのではないか」
ルージェナは一拍おいて、わざとらしくため息をついた。
「はぁ……ご自身でお気づきでしょうが、私の言葉が必要ならくれてやりますよ。お父様は若き日の戦争の勝利に執着なさっておいでなのです。他でもないバザン王国に勝利したという栄光を望まれているのです」
レヌマ副院長は何も言わなかった。ただ、黙って受け入れた。受け入れざるを得なかった。
なぜならその事実に、すでに気づいていたから。
「別に悪いこととは思いませんよ。若い頃の憧れを忘れられないことは、決して罪ではありません。ただ、その憧れのために巻き込まれる周囲のことは、ちゃんと考えて行動なさってくださいな」
ルージェナの放った思わぬ続きに、レヌマ副院長は目を瞬かせる。
悪いことではないのだろうか。我欲のために大義を騙り、戦禍を引き起こそうとした己が?ならば、ならば。
「私は、考えるのが苦手だ。ルージェナ、私はこれからどうすべきだろう。一緒に、考えてくれないか」
情けない父親だと、失望されただろうか。けれど、レヌマ副院長のルージェナに対するプライドは、あの日言い負かされて以来、粉々だった。
この強い娘の前でだけは、取り繕うことができない。
「……ではお父様、お尋ねします。お父様が帝国にとって最善だと思うことは、敵国を先制攻撃で討ち滅ぼすこと。そのお考えはお変わりありませんか」
「当然だ」
それは建前だったが、同時にレヌマ副院長が本心として何十年も抱いてきたものなのだ。今更切り離せるはずがない。
「ならば、まずは敵国の定義を考え直すべきです。何をもってして、敵と見るのか」
「……それは」
レヌマ副院長は言い淀む。しかしルージェナは容赦なく追撃した。
「現状、帝国に刃を向ける国はありません。経済的な軋轢は、皇后陛下が外交で徐々に改善なさっている真っ只中。敵がいない場合。お父様がすべきことは、敵を“作り出す”ことですか。それとも、敵がいつ現れてもいいように万全の体制を整えておくことですか」
レヌマ副院長は目を瞬かせた。自明のことだった。
「……後者だ」
ルージェナは心底安堵したように肩の力を抜いた。
「お父様が私と同じ考えで良かったです。今度は言い負かさなくて済みますから」
嫌な記憶を思い出し、レヌマ副院長は顔を歪める。だが、同時に思い直した。
「……ルージェナ、お前がいて良かった」
「そうですか。ではそろそろお帰りを。私は仕事があるので」
薄情な娘であった。しかし、必要な話を聞いてくれるあたり、情に厚い娘でもあった。
「……仕事、頑張りなさい」
そう言い残し、今度こそレヌマ副院長は退室した。




