十(ルルニア院長視点)
この頃は軍務院での議論が活発だった。
『新・バザン王国併合論』という軸ができたことで、これまで様子見をしていた人間がそれぞれの意見を言いやすくなったのだ。
ルルニア院長は目の前に積み上がっていく“代替案”を満足げに眺める。
読めば、それぞれの人間が何を目的にしているのか明確にわかる。すなわち、派閥整理がしやすくなるというものだった。
そんな中、一つの先触れがあった。オルベール皇太子が、軍務院を直接訪ねてくるというのである。
ルルニア院長は柄にもなく、ワクワクしながらその時を待った。
そして、足音が聞こえた。
「オルベール皇太子殿下がご到着されました」
その言葉と共に現れたのは、背の高い朗らかな笑みを浮かべた青年。
「よくぞお越しくださった、皇太子殿下」
「お会いできて光栄です、ルルニア院長殿」
その言葉にルルニア院長の片眉がぴくりと上がった。この青年は、すでに皇太子として振る舞っている。
ジェラルドは常に皇太子という役割を背負っていた。それは年相応で、青く、可愛らしく、若々しい姿だった。
だがオルベールはどうだ。役割が自分を示す肩書の一つとして自然に馴染んでいる。
「さ、お席にどうぞ」
オルベールに気を遣って自然に席をすすめる自分に、ルルニア院長は驚いた。
二十も年下の男を、ルルニア院長はまるで対等か、それ以上の存在を相手にする時のように扱っている。
それはオルベールに対する頼もしさの現れであった。しかし同時に、ある種の気持ちの悪さを感じずにはいられなかった。
オルベールは悠然と椅子に腰掛ける。まるで彼が主導権を握っているかのようだった。
ルルニア院長の背中を冷や汗が流れる。
これはなんだ。私は何と向き合っている。
「いやはや、皇太子殿下自らお越しくださるとは。本来なら、私の方からご挨拶に伺うべきでした」
「軍務院長というのは多忙な立場でしょう。僕はまだ皇太子になったばかりの若輩ですから。身軽というものですよ」
冗談めかして言うオルベールに、しかしルルニア院長は少しも気が休まらない。
まるで歴戦の政治家を相手にしているような気分だった。
「それにしても、皇太子殿下。先日の論文は大変興味深いものでありました」
ルルニア院長はついに耐えきれず、自分から本題に切り込んだ。
「視野の広さに驚きました。帝国だけを考えると見落としがちなセルニア王国まで組み込んである」
わざと棘を仕込んで反応を見ようとした。だが、無意味だった。
オルベールは少しの間、黙り込んだ。そして微笑んだまま、ゆっくりと口を開いた。
「ルルニア院長殿、僕はあなたに一つ聞きたいことがあるんです」
「……なんなりと」
「反応はどれほどですか」
主語のない問いだった。
しかしその意味がわからぬほど、ルルニア院長は馬鹿ではなかった。
同時に、オルベールが軍務院の実情をある程度把握していることをルルニア院長は理解した。
ルルニア院長は慎重に口を開く。
「さて、なんのことでしょう」
「はっきりと言わねばわかりませんか?」
オルベールは、部屋の隅に控えている侍従や士官たちをチラリと見る。
ルルニア院長は声を潜めて言わざるを得なかった。
「……殿下のお考えに対する明確な反対意見は想定以上に少ない。せいぜい三割といったところです」
「その他は」
「……概ね理解を示す様子見が四割、条件次第が三割といったところでしょうか」
オルベールは満足げな笑みを浮かべなかった。
ただ淡々と、計算を巡らせているようだった。
「一方に妥協すれば、もう一方が不満を募らせる。僕は落とし所を探しています」
もっともだ。オルベールという人間は、政治を理解している。
「……その落とし所を、こちらにお任せいただけますか」
ルルニア院長は立場上、そしてプライドとしても、そう言うしかなかった。
これをオルベールに任せれば、文字通りルルニア院長に立つ瀬がない。
「若輩ゆえ、頼りきりになりお恥ずかしい。頼みます、ルルニア院長殿」
オルベールが差し出す手に、ルルニア院長は反射的に飛びついた。
一拍遅れてそれを自覚し、手汗が滲んだ。
自分は今、踊らされている。
それをわかってなお、このオルベールという男に使われた。なぜならそれが一番、お互いのためになると理解してしまったから。
退室していくオルベールの背中を見ながら、ルルニア院長は乾いた笑みを浮かべて呟いた。
「……私は彼と、相性が良すぎるようだ」




