一(ヴィクトリア視点)
「ヴィクトリア・セナレム」
ジェラルド皇太子がそう口にした時、ヴィクトリアは首を傾げた。フルネームで呼ばれることなんて滅多にない。何かしただろうかと、声のする方を向いた。
そして。
「君との婚約を破棄する」
そう彼が言った瞬間、ヴィクトリアの世界は、凍りついた。
だって、全部完璧だったはずだ。なにも間違いなど犯していない。失敗していない。問題などない。なのに、なぜ。
しかも、こんな公の場で。皇帝陛下もご存じなのだろうか。
もし、ジェラルド皇太子の独断だったのだとしたら?
ヴィクトリアの頭の中を、一瞬でさまざまな憶測が駆け巡る。
その思考を強制的に終わらせる声が響いた。
「今宵この場にお集まりの、紳士淑女の皆様!」
振り返れば、赤い髪の男。まだ三十手前といったところだが、どことなく貫禄がある。ヴィクトリアは彼を知っていた。
帝国五公の一角、カークレット公爵。ヴィクトリアの実家、セナレム公爵家に並び立つ名家の当主。
彼はまるで、劇かのようにスラスラと言葉を紡ぐ。
「何やら今、とても驚くべきことが聞こえた気がしないでもないですが。不用意な発言はご自身の首を絞めてしまう。後から社交界で白い目で見られるのはお嫌でしょう?」
騒がしくなりかけていたホールが、ピタリと静まる。
「今日のところは、ひとまず帰路につこうではありませんか。それとも……この場で貴族議会の開催をお望みで?」
最初に動いたのは、ホールの扉付近の貴族だった。
その人は、いそいそと一礼をして退場した。それを皮切りに、次々と貴族たちが扉から出ようと動き出す。
ヴィクトリアは咄嗟に振り返る。ジェラルドはまだそこにいた。顔は青白かったが、俯いてはいなかった。それが、ヴィクトリアにとっては何より衝撃だった。
佇むヴィクトリアの肩に、そっと大きな手が乗った。
「……ヴィクトリア、今日はひとまず帰ろう」
そう言ったのは、ユリウスだった。
ヴィクトリアのいとこで、共に育った幼馴染。なにより、一番信頼できる友人だ。
「ユリウス、私、私は……」
ヴィクトリアが言い淀むのを、ユリウスは痛々しげに見つめる。
「まずは伯父上にご報告しないと」
はっと、ヴィクトリアは気づく。そうだ、一人で悶々としても話は進まない。まずは父に相談しなければ。
「今日のところは別々で帰ろう。君が一番大変な時に、隣にいられないのは口惜しいけど……」
「いいのよ、ユリウス。あなたがそうやって思ってくれてるだけで、私は心強いもの」
ユリウスに見送られ、ヴィクトリアは馬車に乗る。
ああ、本当に。一体どうなってしまうというのだろう。
ヴィクトリアは項垂れた。




