十一
セナレム公爵はここ数日、感情の乱高下が過去一番と言っていいほど激しかった。
発端は五日前。長女ヴィクトリアが婚約者である皇太子ジェラルドに婚約破棄されて帰ってきた。
当然、困惑した。同時に政治的な問題が瞬く間に浮かび、恐怖した。
二日前、事実確認の書状に対する返事が来た。
婚約破棄は事実であることを知らされ、憤った。だが、理由を聞くまでは我慢せねばと己を律した。
そして今日。白大母と呼ばれる皇太后の離宮にやって来た。
そこで説明された内容を、丸ごと信じるほどセナレム公爵は純粋ではなかった。
だが、ひとまず家としての不利益は避けられたので良しとした。
なのに。
セナレム公爵は今、別室にて皇太后と向き合っていた。
セナレム公爵は皇太后が嫌いだ。
外国出身でありながら、先帝の時代には摂政として実権を握り、戦後秩序として新たに大公国なるものまで創設した。
帝国のあり方を根底から変える力を持つ皇太后は、他の何より秩序を尊ぶ保守的なセナレム公爵からすれば、最も忌むべき存在なのだ。
だがセナレム公爵はそんな嫌悪などおくびにも出さず、平静を保って尋ねた。
「……それで、個別のお話というのは」
皇太后は微笑んだ。
「実はね、あなたには伝えておくべきだと思っていることがあって。ウカーシュ侯爵夫人から私信が届いたの」
その名前に、セナレム公爵の眉がぴくりと上がる。
ウカーシュ侯爵家。それは今この帝国で五公をも凌ぐ権勢を誇る七侯の一角。
当主は財務院長として帝国の財布を握り、当主夫人は社交界の中心人物の一人。
当主夫人の実家からは皇帝政務補佐官を輩出していたりなど、とにかく各方面へのパイプと影響力が甚大なのだ。
そしてセナレム公爵の亡き妻もまた、そのウカーシュ侯爵家の出身だった。
「妻の実家が、何か」
「ふふ、まだその認識なのね」
「……」
思わず黙り込む。
十年以上前に妻が亡くなって以降、ウカーシュ侯爵家と個人的な交流はないに等しい。
無論、セナレム公爵の長女ヴィクトリアとウカーシュ侯爵家のユリウスが幼少期の交流の延長線で今も関わりがあると把握はしているが、それくらいだ。
「私ね、ジェラルドが婚約破棄をしなくても、近いうちにヴィクトリアを婚約者から外すよう、皇帝陛下に進言するつもりだったの」
「……は?」
セナレム公爵は耳を疑った。今、皇太后はなんと言った。
ヴィクトリアを外す予定だった?なぜ?
「彼女は優秀だけど、皇太子妃としての資質には疑義を呈さずにはいられない。これをご覧になって」
皇太后が差し出したのは、ひとつの記録だった。
具体的には、ヴィクトリア・セナレムとユリウス・ウカーシュの交流記録。
「春の初月、十日。帝国図書館の談話室で討論。夕刻から侍従が退室し、室内には二人きり。ねぇ、保守派筆頭のセナレム公爵。あなたはこれをどう見るの?」
瞬間、セナレム公爵の額から汗が吹き出した。
これは、なんだ。何を見せられている。事実なのか?捏造では?
だが、この皇太后がそんな裏取りもせずに、こんなものを見せるだろうか。
もし、事実なのだとしたら、セナレム公爵はこれまで何を野放しにしてきたのか。
「わ、私は……」
把握していたと言えば嘘になる。把握していなかったと言えば間抜けになる。
「ウカーシュ侯爵夫人は早期から状況を把握し、ユリウスにも再三警告していたようなの。火消しにも随分奔走なさった様子。ああ、ジェラルドもね、噂を収めるのには苦労したみたい」
セナレム公爵は生唾を飲み込んだ。
しかし皇太后は構うことなく続ける。
「ウカーシュ侯爵夫人ね、罰としてユリウスは勘当したから当家は今回の件について一切関わらないものとさせていただきたい、ですって。よかったわね、良識ある親族がいて」
もしウカーシュ侯爵夫人が、ジェラルドが、火消しをし損ねていれば、どうなった。
セナレム公爵は考えてしまった。
今頃ヴィクトリアのスキャンダルは公然の事実として語られ、セナレム公爵家の名も地に落ちていたことだろう。
「念のため言っておくけど。ヴィクトリアを公に罰するのはやめてね?ここまで体裁を整えてあげたのだから」
そして皇太后はゆっくりとセナレム公爵に近づき、耳元で囁いた。
「まぁ、次はないけれど」
セナレム公爵は悟った。ああ、新たに皇太子の婚約者となったオベリアのことだ、と。
セナレム公爵の中の優先順位が、更新された。
「それと」
皇太后の声に、まだあるのかとセナレム公爵はうんざりした。
「家督はヴィクトリアに継がせなさい。皇帝陛下も仰ったようだけど、我が帝国は優秀な人材を遊ばせる余裕はないのよ」
セナレム公爵は少しだけ肩の力を抜く。
本来婿を取る予定だったオベリアが嫁に行くのなら、家督を継がせるのはヴィクトリアしかいない。
しかし、それを命令という形で許可したのが皇太后というのは、忌々しい限りだった。
ともかく、こうしてセナレム公爵家の行く末は整えられた。
セナレム公爵が忌み嫌う、皇太后によって。




