第25話 まるで崩れかけの建物ですわね
「申し上げます! 王宮財務局のグスタフ・ベルンハルト次官補が――逃亡を図りました!」
騎士の叫び声が大広間に響き渡った瞬間、それまで静まり返っていた空気が一変した。貴族たちの間からざわめきが起こり、誰もが互いの顔を見合わせている。
王宮財務局の次官補ともなれば、決して小さな役職ではない。ましてや今、この場で名前が挙がったということは、先ほどまで話題にされていた公爵家の財政不正と無関係ではないのだろう。
私は静かに息を吐いた。
「……逃げた、ということですか?」
「はい.......先ほど王宮の北門から馬車で出ようとしているところを、警備兵が発見しました。しかし、こちらへ報告に戻っている間に、別の馬車へ乗り換えたようでして……現在、騎士団が追跡しております」
「なるほど」
私は、思わず小さく笑った。
ーー逃げる。
それはつまり、自分が何をしたのかを理解しているということだ。
「ヴァイス様」
「ああ。すでに手は打ってある」
ヴァイスはそう答えると、私の方へ一歩近づいた。
「王都の主要門はすべて封鎖させた。街道にも騎士を回している。グスタフがどれだけ慌てて逃げようと、そう簡単には王都から出られない」
「……いつの間にそんな準備を?」
「君が『まずは、すべてを明らかにしてください』と言ったあたりからだったかな」
「私、そこまで先回りしてほしいとは言っていませんよ?」
「俺が“君のために”したかっただけだ」
あまりにも当然のように言われて、私は一瞬だけ言葉を失った。
「……本当に、過保護ですね」
「今さら気づいたのか?」
「ええ、今さらです」
「なら覚えておいてくれ。君が危険に巻き込まれる可能性が少しでもあるなら、俺は過保護なくらいでちょうどいい」
その言葉には、冗談めいた響きがほとんどなかった。私は思わず目を伏せる。
こういう時だけ、この人はずるい。
けれど――嫌ではなかった。
むしろ、五年間ずっと誰にも守られなかった私にとっては、その不器用な心配さえ、少しだけ嬉しかった。
国王陛下が玉座から立ち上がる。
「グスタフ・ベルンハルトの逃亡は、すなわち我が王宮に対する反逆にも等しい。司法長官、財務局の関係者を全員拘束し、帳簿と文書をすべて押収せよ」
「承知いたしました」
司法長官が深く頭を下げる。
しかし、その直後だった。
大広間の外から、またしても慌ただしい足音が響いてきた。
「陛下.......!」
今度は別の騎士が駆け込んでくる。
「グスタフの執務室を捜索したところ、隠し金庫が発見されました!」
「中身は?」
「帳簿が二冊.......それから、複数の書簡と――こちらです」
騎士が一枚の紙を差し出した。
司法長官がそれを受け取り、目を通した瞬間、顔色が変わる。
「……陛下」
「何が書かれている?」
「これは……王宮財務局の内部記録です。北東部から徴収した税の一部を横流しし、その金を複数の貴族へ還流させていた記録が残されています」
大広間が再び騒然となった。
「複数の貴族だと......?」
「では、公爵家だけではなかったのか……?」
「,,,....当然だ」
私は、思わず口を挟んだ。
「一人の人間が長年にわたって税を抜き続け、それを誰にも見つからないよう維持するには、一人では無理があります」
私は机の上に置かれた帳簿へ目を向ける。
「帳簿の数字は隠すことはできても、完全に消すことはできません。どこかに必ず痕跡が残る。だから私は五年間、その痕跡を探してきました」
私は静かに続けた。
「そして、不正というものは不思議なものです。最初は小さな嘘でも、それを守るために別の嘘が必要になり、やがて嘘同士が互いを支えるようになる。そうなった時点で、その仕組みはもう『秘密』ではありません。ただの崩れかけた建物なのですよ」
司法長官が頷いた。
「……その通りです。今回の帳簿も、複数の記録を照合すれば、金の流れを追うことができます」
「なら、全部追ってください」
私は真っ直ぐに言った。
「私一人のためではありません。これ以上、領民から奪った税が誰かの贅沢のために消えることがないようにするためです」
その瞬間、国王陛下が私を見つめた。
「リーシェよ」
「はい」
「そなたは、本当に王位を望まないのか?」
大広間の視線が、一斉に私へ集まった。
私は少しだけ考える。
ーー王位。
それは、これまでの私なら到底想像できなかったものだ。けれど今は、不思議と恐ろしくはなかった。
「……私は、王になりたいわけではありません」
私はゆっくりと答えた。
「誰かの上に立つことが、私の望みではないからです。ただ――」
そこで、私は広間を見渡した。
「自分の人生を、自分で選べる人間ではありたいと思っています」
誰かに決められた人生ではなく。
誰かの都合で隠された人生でもない。
「私は五年間、何も知らされないまま生きてきました。だからこそ思うのです。人間から奪ってはいけないものは、財産でも地位でもありません。『自分で選ぶ権利』です」
私は静かに言った。
「人は、選択肢を奪われた瞬間から、自分の人生を生きられなくなる。だから私は王冠を選ぶかどうかさえ、自分自身で決めたいのです」
誰も口を挟まなかった。
やがて国王陛下が、静かに頷く。
「……ならば、そなたの選択を待とう」
その言葉に、私は深く頭を下げた。
そして、その直後だった。
「捕らえました........!」
大広間の外から、複数の騎士の声が響いた刹那、扉が開く。そこにいたのは――両腕を騎士に掴まれたグスタフだった。
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