第24話 何もしないことが正しいなんて訳はないのだ
私は、静かに目を閉じた。
不思議なことに、父がすべてを知っていたと聞かされても、胸の奥から湧き上がってきたのは激しい怒りではなかった。むしろ、これまで五年間ずっと理解できなかった出来事が、ようやく一本の線で繋がっていくような、妙な納得の方が先に込み上げてきたのだ。
――だから、だったのだ。
父は、私を見ようとしなかった。
私が何をしていても、何に困っていても、決して深く関わろうとはしなかった。まるで私という存在そのものから、意図的に目を逸らしているかのように。
それは単なる無関心ではなかった。
私を見るたびに、自分だけが知っている秘密を思い出してしまうから。
「……では、なぜ私はあんな扱いを受けていたのですか?」
ようやく口にした問いに、エドガーは苦しそうに眉を寄せた。
「それは……」
「先に言っておきますが、変に私に気を遣って、偽りのことをいうのはおやめになってくださいね」
私は、老人の言葉を遮るように静かに告げる。けれど、その声に怒気はなかった。
「もう私は、どんな真実であっても受け止める覚悟ができています。五年間も何も知らされずに生きてきたのですから、今さら真実だけを恐れて、また目を逸らすつもりはありません」
エドガーはしばらく私を見つめたあと、懐から一枚の書類を取り出した。
「……アルフレート公爵は、あなたを殺すことまでは望んでいませんでした」
「……」
「しかし、あなたが成長し、成人を迎え、王家との血縁が明らかになれば、公爵家の中でのあなたの立場が変わることを恐れていたのです。そして――ヴィオラ夫人とセレナ様が、あなたを公爵家から排除しようとしていることも、途中から把握していました」
私は、返す言葉を失った。
やはりそうだったのだ。
父は、何も知らなかったわけではない。
知らなかったから助けられなかったのではなく、知っていたにもかかわらず、見ないことを選んだ。
その事実の方が、“何も知らなかった”という言葉よりも、ずっと重く私の胸に沈んだ。
助けることができなかったのではない。
助けようとしなかったのだ。
「……人は、悪事を働いたから罪人になるとは限らないのですね」
私は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「目の前で誰かが傷ついていると知りながら、それを見て見ぬふりをしたのなら、その人もまた、自分自身の意思で一つの選択をしたのだと思います」
広間は、いつの間にか水を打ったように静まり返っていた。
誰も口を挟まない。
だから私は、そのまま続けた。
「『何もしなかっただけだ』と言えば、自分には責任がないと思えるのかもしれません。でも、本当にそうでしょうか。助けられる立場にありながら助けなかったのなら、それもまた一つの選択です。そして――選択をした以上、その結果から逃げることはできないのだと思います」
私はゆっくりと顔を上げた。
「私は父を恨むつもりはありません」
その言葉に、エドガーの目が僅かに揺れる。けれど私は、そこで言葉を止めなかった。
「ただし、許すつもりもありません」
恨まないことと、許すことは同じではない。過去を憎み続けるつもりはない。けれど、されたことまで無かったことにするつもりもない。
その二つを混同してしまえば、私はきっと、また誰かの都合のいい言葉に縛られてしまう。
その言葉が広間へ静かに落ちた瞬間、国王陛下がゆっくりと頷いた。
「……よく言った」
短い言葉だった。
けれど、その声には、私の決意を否定するものではなく、むしろそのまま受け止めるような重みがあった。
すると、司法長官が新たな書類を手に取り、静かに前へ進み出る。
「……陛下.......実は、まだございます」
「まだ?」
私が思わず聞き返すと、司法長官は重々しく頷いた。
「はい......こちらは、前国王陛下が亡くなる三日前に作成された極秘文書です」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が再び大きく揺れた。
司法長官は封印された書状を慎重に開き、その中から一枚の文書を取り出す。
「この文書には、リーシェ嬢の身分に関することだけではありません。前国王陛下は、あなたの存在が明らかになった場合の王位継承についても、明確な意思を残されております」
広間のあちこちから、抑えきれないざわめきが起こった。私は思わず隣に立つヴァイスへ視線を向ける。
普段なら何が起きても動じない彼でさえ、今ばかりは僅かに目を見開いていた。
そして司法長官は、文書へ視線を落とすと、その最後の一文をゆっくりと読み上げた。
「『もし私の死後、リーシェが生きていることが確認された場合――彼女には、王位継承権を持つ者としての選択権を与えよ』」
その瞬間、大広間から、すべての音が消えた。誰もが息を呑み、ただ私を見つめている。
――王位継承権。
その言葉の意味を、私は理解していた。
これは、単なる出生の証明ではない。
私は今まで、自分が何者なのかを知るために真実を追い続けてきた。しかし、その答えとして示されたのは、私自身の人生だけではなく、この国の未来さえ左右しかねないほど大きな権利だった。
そして、私がそれを選ぶのか、拒むのか。
その決断によって、王位そのものが変わる可能性がある。
あまりにも大きな話だった。
ヴァイスが、私の隣で小さく息を吐く。
「……随分大層な置き土産を残してくれたものだな」
「ええ」
私は手元の書類を見つめながら、思わず苦笑した。
「五年間、硬いパン一枚で耐えてきた私に、最後の最後で王冠まで差し出してくるなんて……父上も、随分と人使いの荒い方だったようですね」
あまりにも場違いな私の言葉に、ヴァイスの口元が僅かに緩んだ。
「……そこを気にするのか?」
「重要なことでしょう? 王冠より、私にとっては毎日の朝食の方がずっと大切なのですもの」
「なら、もし君が王になったら、最初に何をする?」
「そうですね……」
私は少しだけ考えてから、真顔で答えた。
「毎朝、全員にふかふかのパンを用意させます」
「……平和だな」
「五年間の苦労を考えれば、これくらいの贅沢は許されてもいいと思いません?」
「ははっ! それは確かにそうだな!」
思わず二人で笑ってしまう。
けれど、その笑顔の奥では、私自身の中に一つの決意が静かに形を作り始めていた。
王位など、欲しくはない。
権力を手に入れて、誰かを従わせたいわけでもない。
ただ――。
私の人生を奪い、私の出生を利用し、王家の秘密を自分たちの都合のために隠そうとする者がいるのなら、私はもう、その力から逃げるつもりはなかった。
逃げ続けた五年間は、もう終わったのだ。
「.......陛下」
私は一歩、前へ出た。
「一つ、お願いがございます」
「うむ、申してみよ」
国王陛下の視線が、まっすぐ私へ向けられる。
「私は王位を望むためにここへ来たのではありません」
その言葉に、広間の貴族たちが静かに耳を傾ける。
「ですが、私の出生を隠すことで誰かが利益を得たり、王家の血を利用して罪を隠したりすることも、私は望んでおりません。それを許してしまえば、私が五年間耐えてきた苦しみまで、誰かの都合のいい道具にされてしまいますから」
私は、広間にいるすべての人を見渡した。
「ですから――まずは、すべてを明らかにしてください」
そして、ほんの少しだけ微笑む。
「王冠を選ぶかどうかは、その後で決めます」
その瞬間だった。
――バンッ!
大広間の扉が、まるで何者かに蹴破られたかのような勢いで開いた。
「陛下!」
一人の騎士が息を切らせながら駆け込んでくる。
「申し上げます! 王宮財務局のグスタフ・ベルンハルト次官補が――逃亡を図りました!」
その名前を聞いた瞬間、私は静かに目を細めた。
やはりまだ終わってはいない。
むしろ――。
ここからが、本当の決着なのだ。




