第23話 人生で一番大きな決断ほど、人に急かされてするものではない
翌朝。
王宮へ向かう馬車の中で、私は窓の外を流れていく王都の街並みを眺めていた。
いつもなら、朝の王都は人々の声や馬車の音で賑やかなはずなのに、今日は不思議なほど静かに感じられる。
もちろん、実際には何も変わっていないのだろう。ただ、私自身がこれから向かう場所を知っているせいで、見慣れた景色さえ別のものに見えているだけなのかもしれない。
「......緊張しているか?」
向かいに座るヴァイスが、珍しく真面目な顔で尋ねてきた。
「ええ、もちろん。王宮へ呼び出されて緊張しない令嬢がいるなら、ぜひ紹介していただきたいものですわ」
「俺は....?」
「ヴァイス様は緊張しているというより、朝から三回も同じ書類を確認しているので、ただの心配性でしょう」
「……四回だ」
「増えていますよ」
思わず笑うと、ヴァイスも小さく息を吐いた。けれど、その表情にはいつもの穏やかさとは違うものがあった。
警戒。
そして、覚悟。
「リーシェ......」
「はい?」
「今日、何を聞かされたとしても、すぐに答えを出す必要はないからな」
その声は静かだった。
「王家の血筋だとか、前国王の娘だとか、そういう話を聞けば、周囲は君に『どうするのか』を迫ってくるだろう。王位を望むのか、公爵家をどうするのか、王家とどう関わるのか――おそらく、今日一日で決めさせようとする人間も出てくる」
「……」
「だが、人生で一番大きな決断ほど、他人に急かされてするものじゃない。誰かが用意した答えを選ぶのではなく、自分が納得できる答えを選べ。それが君自身の人生なら、なおさらだ」
私はしばらく黙っていた。そして、窓の外へ目を向けたまま、ゆっくりと口を開く。
「……以前、ヴァイス様がおっしゃったことを思い出しました」
「何......?」
「人間の価値は、どんな血を引いているかで決まるものではない、と」
「ああ」
「その言葉を、今度は私自身の言葉にしてみようと思います」
私は膝の上に置いた手を、そっと握り締めた。
「王の娘だから偉いのではない。公爵令嬢だから価値があるのでもない。誰かに必要とされたから生きているのでもない――私は、私が選んだ道を歩いたからこそ、今ここにいるのだと」
そこで一度、息を吸う。
「血筋は生まれた瞬間に与えられるものですが、生き方だけは自分で選べます。なら私は、血筋に人生を決められるのではなく、自分の生き方で血筋の意味を決めたい」
ヴァイスは何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めてから、嬉しそうに笑う。
「……やはり、君は強いな」
「強くなっただけです」
「五年もあれば、人は変わるもんだな」
「変わりますよ。硬いパン一枚を毎日食べ続ければ、誰だって多少はメンタル的にも身体的にも強くなります」
「ははっ! そこを基準にする令嬢はたぶん君くらいだな!」
「でしたら、私の個性ということで」
そんな会話をしているうちに、馬車がゆっくりと速度を落とした。
窓から見える景色が、王宮の白い城壁へと変わる。
いよいよだ。
私は一度だけ深呼吸をして、馬車の扉へ手を伸ばした。
――逃げる理由など、もうどこにもなかった。
王宮の大広間には、すでに多くの貴族が集まっていた。私たちが姿を現した瞬間、ざわめきが波のように広がっていく。
「来たぞ……」
「あれがリーシェ嬢か」
「前国王陛下の……」
「........まだ確定したわけではないだろう」
囁き声が四方から聞こえてくる。以前なら、その視線だけで足が竦んでいたかもしれない。
けれど今は、不思議なほど何も感じなかった。
ーー五年前。
誰にも見向きもされなかった私が、今は何十人、何百人もの人間から見つめられている。
人生とは、本当に皮肉なものだ。
ただし、今日だけは壁際に立っているつもりはない。私はヴァイス様と並んで、まっすぐ前を見た。やがて国王陛下が姿を現し、広間の空気が一瞬で引き締まる。
「リーシェ・フォン・アーレンス」
「はい」
「そなたに関して、重大な証言が提出された」
国王の隣に立っていた司法長官が、一歩前へ進み出た。
「本日、証言を行うのは――エドガー・ヴァレンティン殿です」
その名前が告げられた瞬間、広間の後方から、一人の老人がゆっくりと歩いてきた。
年齢は七十を超えているだろう。
杖をつきながら進むその姿は、決して威圧的ではない。
しかし、私はその顔を見た瞬間に息を呑んだ。
「……この人……」
母の日記に、一度だけ名前が出ていた。
前国王の側近として最後まで仕え、母の出産にも立ち会った人物。
そして六年前、突然王宮を去った男。
エドガーは私の前まで来ると、ゆっくりと頭を下げた。
「……リーシェ様」
「あなたは……母を知っていたのですね」
「ええ」
老人の声は震えていた。けれど、その目だけは驚くほど真っ直ぐだった。
「私は、あなたのお母上に仕えておりました。そして――あなたが生まれた日のことも、昨日のことのように覚えております」
広間が静まり返る。
私は息をすることさえ忘れそうになった。
「では、聞かせてください」
私は自分でも驚くほど穏やかな声で尋ねた。
「.......母はなぜ私を公爵家へ預けたのですか?」
エドガーはしばらく黙っていた。そして、やがてその重い口は開かれる。
「……あなたのお母上は、前国王陛下から愛されておりました」
その言葉に、広間がざわつく。
「しかし、陛下には正妃がおられた。それゆえ、二人の関係は決して公にはできなかった。ましてや、その間に子どもが生まれたと知れれば、王位継承を巡る争いが起きることは明白でした」
「それで、私を隠した……」
「はい。しかし、それだけではありません」
エドガーが私を見る。
「前国王陛下は、あなたを守るために一つの決断をなさいました」
「……決断?」
「あなたを公爵家の正式な令嬢として届け出ることです」
私は目を見開いた。
「待ってください。それでは……」
「ええ。リーシェ様、あなたは『公爵家に預けられた王の子』ではありません」
老人は、はっきりと言った。
「あなたのお父上である前国王陛下が、生前に正式な書類を残していたのです。あなたをアーレンス公爵家の血縁者として認め、その身分を守るようにと」
胸の奥で、何かが大きく揺れた。
つまり.......
私はずっと、自分は“捨てられた子ども”なのだと思っていた。
けれど実際には......
母も。
前国王も。
私を守るために、最後まで動いていた。
「……では、父は?」
私が尋ねると、エドガーの顔が曇った。
「アルフレート公爵は、すべてを知っていました」
その瞬間、広間の空気が凍りついた。
「……最初から?」
「はい」
「私の出生も?」
「もちろんです」
「母が私を守るために公爵家へ預けたことも?」
「知っていました」
目を閉じると、怒りより先に妙な納得があった。
だからなのだ。
父は、私を見ようとしなかった。
私の存在を認めようとしなかった。
なぜなら――。
私を見るたび、自分が知っている秘密を思い出してしまうから。
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